○ 京橋の由来
○ 京橋親柱/煉瓦銀座之碑/煉瓦とガス燈
○ 京橋親柱/京橋の碑
○ 京橋の親柱
○ 京橋の欄干柱(日比谷公園)別頁
○ 京橋と京橋川
○ 京橋大根河岸青物市場蹟/江戸歌舞伎発祥之地
○ 京橋竹河岸通り
○ 文明開化の京橋
○ 歌川広重終焉の地
○ 中橋広小路 別頁
<京橋の由来>
橋名の由来は、日本橋を起点として京へ上る東海道の最初の橋だったため、あるいは京から下ってきた業者が付近で遊女屋を営んでいた、など諸説あります。
橋の北東河岸には竹商人が多く竹河岸といわれ、西河岸には青物市場がたって大根河岸と呼ばれました。
昭和34(1959)年に、京橋川は埋め立てられ橋も撤去されました。
「京橋」(最新東京名所写真帖 小島又市 明治42年)
明治の頃の京橋です。京橋より北を「日本橋通り」、南を「銀座通り」との説明があります。
「煉瓦銀座之碑」「ガス燈」「京橋親柱」が保存されています。
(碑文)
「経綸
煉瓦銀座之碑
明治五年二月二十六日
(皇紀二五三二年
西暦一八七二年)
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる
東京都府知事 由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企画建策し政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
昭和三十一年四月二日」
「銀座文化碑4 青山石勝刻」
(プレート文)
「煉瓦とガス燈(1987年記)
明治初期我が文明開化のシンボルとして、銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明が用いられた。床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時のまま「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、明治7年の実物を使用、燈具は忠実に復元。」
<京橋親柱 橋銘板>
「京橋」「きようはし」の京橋親柱の橋銘板です。
(碑文)
「京橋は古来よ里其の名著者る
創架乃年ハ慶長年間なる可如し明
暦以降屡々架換へら連大正十一
年末現橋に改築せ良る此の橋柱
は明治八年石造耳架換へられた
る時の擬寶珠欄干の親柱止して
橋名の書ハ明治能詩人佐々木支
陰乃揮毫耳係る毛のなり
昭和十三年五月」
<京橋の親柱>
(説明板)
「京橋の親柱
所在地 中央区銀座一丁目二番先・一一番先
京橋三丁目五番先
京橋は、慶長八年(一六〇三)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和三十八年から四十年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。
このうち、二基の石造親柱は、明治八年(一八七五)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形をしており、詩人の佐々木支陰
の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名が彫られています。
また、石およびコンクリート造の親柱は、大正十一年(一九二二)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きやうはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板プレートが付けられています。
明治・大正と二つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
平成二十二年三月 中央区教育委員会」
交番は、京橋の親柱を模したデザインとなっています。
<京橋と京橋川>
(説明板)
「京橋と京橋川
京橋
名称の由来について『新撰東京名所図会』では「京橋川に架する橋にして。日本橋、江戸橋に対して名けたるものなり」とあり、また、日本橋から東海道を通って京へと向う最初の橋にあたることから名付けられたともされる。
橋の創架については様々な説があり明らかではないが、『京橋区史』によると「京橋は古来より其の名著はる。創架の年は慶長年間なるが如し」とある。また、『新撰東京名所図会』には「創建は詳かならされとも。其の年月は日本橋と大差なかるべし」とあるので、この橋は慶長年間(1596〜1615)に初めて架けられたと考えられる。
京橋は、幾度か架け替えが行われ、明治8年(1875)には橋長11間(約19.8m)幅員8間(約14.4m)の石造アーチ橋に架け替えられた。その後、市区改正事業に伴い明治34年(1901)に橋長、幅員共に10間(約18m)の鉄橋となった。この橋は大正11年(1923)の拡幅工事により架け替えられ、昭和4年(1929)にも架け替えが行われたが、昭和38〜40年の京橋川埋め立てに伴い撤去された。
なお、京橋の親柱は明治8年のものが橋北詰め東側と橋南詰め西側に、大正11年のものが橋南詰め東側に保存されている。
京橋川
外堀から北紺屋町(現在の八重洲二丁目)と南紺屋町(現在の銀座一丁目)との間に分かれて東に流れ、白魚橋先で楓川、桜川(八丁堀)・三十間堀と合流した。延長0.6km。江戸時代には、比丘尻橋、中之橋、京橋、三年橋、白魚橋が架かる。
その開削年代は詳らかではないが、家康の江戸入り後、慶長年間(1596〜1615)に行われた最初の天下普請で外堀とともに開削された水路であるとされる。比丘尻橋と中之橋間の左岸には薪河岸、中之橋と京橋間の左岸には白魚河岸があった。
京橋川は昭和38〜40年に埋め立てられて、屋上に東京高速道路株式会社の自動車道路がある細長いビルにかわった。現在、自動車道路の下は飲食店や駐車場になっている。中央通りと交差する京橋跡には「京橋大根河岸青物市場跡」と「江戸歌舞伎発祥の地」の碑(京橋三丁目4番先)、京橋の親柱(京橋三丁目5番先・銀座一丁目2番先・11番先)と「煉瓦銀座の碑」(銀座一丁目11番地先)が建っている。
大根河岸
大根河岸は、数寄屋橋辺りに形成されていた青物市場が火災に遭った後、水運の便が良い京橋川の北西沿岸に移転したことに始まるとされる。この河岸地では、大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれて大変なにぎわいを見せていた。しかし、大正12年(1923)の関東大震災の後に中央卸売市場が築地に完成したことにより、大根河岸も昭和10年(1935)に移転した。
なお、この地にある「京橋大根河岸青物市場跡」の碑は京橋大根河岸会会員により昭和34年(1959)に建立されたものである。
白魚河岸
京橋川の西沿岸に設けられた河岸で、享保年間(1716〜1736)南方に設けられた白魚屋敷にちなんで白魚河岸と呼ばれていた。
薪河岸
京橋川の北西沿岸の比丘尻橋と中之橋との間にある河岸地で、薪炭を扱う問屋が立ち並んでいたことから呼ばれていた。
竹河岸
竹河岸は、京橋川の北東沿岸の京橋と白魚橋間にある河岸地で、竹商人が多くいたことから里俗で呼ばれていた。竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に入って来たものや、群馬県から筏に組んで送ったものであったという。青竹が連ねられている竹河岸の様子は、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれており、その光景は目にさわやかな風物詩であった。
中央区 土木部公園緑地課 2008年」
江戸近郊から竹材が運び込まれる竹河岸がありました。
道路名にその名残をとどめています。
(説明板)
「竹河岸
竹河岸は、京橋川の北東沿岸の京橋と白魚橋間にある河岸地で、竹商人が多くいたことから里俗で呼ばれていた。竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に入って来たものや、群馬県から筏に組んで送ったものであったという。青竹が連ねられている竹河岸の様子は、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれており、その光景は目にさわやかな風物詩であった。
中央区 土木部公園緑地課 2008年」
「名所江戸百景 京橋竹がし」(広重)
京橋に住んでいた広重が、満月の夜の京橋と竹河岸を描いています。
大山詣りの講中は、大森の名産、麦わら細工の纒(まとい)を担いで帰ってきました。
京橋を渡る一行は、大森の纒を担いでいるので大山帰りだとわかります。
「絵本江戸土産 京橋竹川岸」(広重)
竹河岸から富士山を背景に京橋を描いています。
「江戸名所百人美女 京ばし」
こま絵には、京橋と竹河岸が描かれています。
京橋の由来に、京から下ってきた業者が付近で遊女屋を営んでいた説があります。
「東京開化三十六景 京橋煉化石造」(三代広重)
明治の頃の石橋の京橋が描かれています。
洋風建築と、京橋川の大根を積んだ舟が対象的です。
「東京名所三十六戯撰 京ばし」(昇齋一景)
竹河岸が見えます。
「京橋」(井上安治)
夕暮れの光景とすれば、京橋の左手が銀座、右手が京橋です。
「鉄道馬車往復京橋煉瓦造ヨリ竹河岸図」(三代広重 明治15(1882)年)
現在の銀座一丁目の光景で、鉄道馬車が走っています。
鉄道馬車は、明治15(1882)年6月に新橋・日本橋間に開通しました。
左の洋風建築は「玉すし」、、右の洋風建築は「松田」と記載があります。
それぞれ店の入口に「玉すし」の提灯と、「御料理松田」の看板が見えます。
2店の左には「みすや」の看板が見えます。
京橋を渡った先、京橋川の下流に竹河岸が描かれています。
「京橋勧業場之景」(井上安次 明治15(1882)年)
京橋勧業場は明治15年3月に京橋区銀座一丁目一番地に開業しています。
(ちなみに現在は中央区銀座一丁目の一番地は存在しません。)
「京橋松田の景」(井上安次 明治17(1884)年)
現在の銀座一丁目の光景で、京橋を鉄道馬車が走っています。
鉄道馬車は、明治15(1882)年6月に新橋・日本橋間に開通しました。
右に大きな洋風建築の牛鍋屋「松田」、その左に「玉寿司」が描かれています。
奥に時計台が見えます、旅籠町の時計店でしょうか。
歌川広重は、嘉永2(1849)年から安政5(1858)年に亡くなるまでのおよそ10年間を大鋸町の二階建の家屋で過ごしました。
ビル建て替え前は、説明板「歌川広重住居跡」があったようですが、現在は、何もありません。
隣には、幕府の御用絵師である狩野四家(鍛冶橋・木挽町・中橋・浜町)の宗家である中橋狩野家がありました(墓地が本門寺にあります)。
広重の遺言には「住居を売り払って借金を返済すること」とあり、
「死んでゆく 地ごくの沙汰はともかくも あとのしまつが 金しだいなれ」と締めくくっています。
活躍していても借金を返せなかったのが意外な印象を受けます。
「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」は、広重が住んでいた京橋の家からの眺めだろうと言われています。
「江戸切絵図」
「中橋広小路」近くの「大鋸町」部分の抜粋です。
「文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図」(文久3(1863)年 都立図書館蔵)
「狩野永徳」「画広重」と、幕府の御用絵師狩野派の屋敷と浮世絵師の歌川広重の名前が記入されています。
武士の名前しか記入しない切絵図に町人の名前が載っているのは珍しく、有名であったことがうかがえます。
(参考)
○広重の墓所
広重の墓所は、東岳寺(足立区伊興本町)にあります。こちらで記載。
○広重生誕の地
広重は、八代洲河岸の定火消屋敷安藤家で生まれ育ちました。こちらで記載。