Discover 江戸史蹟散歩
 
 歌川広重の墓


○東岳寺 足立区伊興本町1-5-16

 東岳寺は、慶長18(1614)年元鳥越町に創建。寛永10(1633)年、替地により浅草新寺町に移転。
 浅草新寺町は、江戸時代の初め頃より多くの寺院が集まった地域で、
 明暦3(1657)年の大火(振袖火事)により、さらに数を増やしてきました。

 江戸切絵図で、東岳寺の場所を確認して驚きました。
 葛飾北斎の墓がある誓教寺と目と鼻の先です。
 歌川広重は安政5(1858)年に没し、1849年に没した葛飾北斎の墓のすぐ近くの東岳寺に葬られました。

   

<移転>

 昭和36(1961)年、東岳寺と一緒に広重墓も足立区に移転しました。
 赤山街道の歩道には、「東岳寺広重碑」の絵図が埋め込まれています。

  

<現在の東岳寺>

 山門に「東京都指定旧蹟 初代安藤広重墓及び記念碑」の石碑があります。

     

     

<初代安藤広重墓及び記念碑> 東京都旧跡

(説明板)
「東京都指定旧跡
 初代安藤広重墓及び記念碑
  安藤広重(一七九七−一八五八)は、江戸時代後期の浮世絵師です。広重は、八重洲河岸定火消組同心の子として生まれ、文化八年(一八一一)、十五歳のとき歌川豊広に入門し浮世絵を学び、歌川の画姓と広重の号を許されました。浮世絵諸派の画風を学ぶとともに洋画の遠近法を加味し、風景画や花鳥画で人気を集めました。また、天保年間に「東海道五拾三次」を発表し、一躍名声を得たことでも有名です。
 墓所は昭和三三年(一九五八)の再建で、記念碑は大正一三年(一九二四)に建てられたものですが、昭和五二年に現在地に再整備されています。なお、現在では安藤広重ではなく、歌川広重という呼称が一般的です。
  平成二四年三月  東京都教育委員会」

  

<一立齊廣重墓>

  

<広重塚>

  

<記念碑>

 石の筆とハケが置かれ、歌川広重の肖像画、浮世絵2つ、
 辞世「東路へ筆を残して旅の空 西の御国の名どころを見ん」が刻まれています。

     

     

<歌川広重>

 寛政9(1797)年〜安政5年9月6日(1858年10月12日)

 「大日本六十余州名勝図会 歌川広重」(歴史画報社 昭和9(1934)年より引用)

  

「肖像 歌川広重」(野村文紹 国立国会図書館蔵より引用)

  

(参考)
 ・歌川広重生誕の地(こちらで記載
 ・歌川広重終焉の地(こちらで記載

<米国人ハッパーの墓>

 (碑文)
 「米國人ハッパーは日本在住四十六年に及ひ世界に日本文化を紹介し深く廣重の藝術に憧れ自ら
  廣重ハッパーと称す 昭和十一年十二月十九日東京に没す享年七十四
  知友相謀り墓を東岳寺内廣重の碑側に建つ 昭和十三年五月世日」

  ハッパー (John Stewart Happer 1863-1936年)は、アメリカの浮世絵研究家。
  明治24(1891)年に スタンダード石油の支配人として来日。
  昭和11(1936)年、東京で死去、墓所は広重と同じ東岳寺。歌川広重の研究家として知られています。

   

花屋久次郎遺跡碑>

 ハッパーの墓の横には、誹風柳多留の版元、花屋久次郎遺跡の碑が建っています。
 「柳多留版元花屋久次郎遺跡 周魚筆」
 昭和31(1956)年1月の建立です。

  

<香月弘美之碑>
 
 香月弘美元宝塚女優に捧げる柳原白蓮の歌碑があります。
 「めになみだこよひの月のなきものを香ふさくらかうすあかりせり 白蓮」

 お墓は東岳寺の墓地にあるようです。
 宝塚音楽学校にも、同じ白蓮の歌碑があるようです。

  


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