【足立区】西部(その3)
○ 月山 湯殿山 羽黒山 三山大権現 実相院(伊興)
○ 月山 湯殿山
羽黒山 三所大権現 応現寺(伊興本町)
天平年間に、行基菩薩によって開山といわれています。
前九年後三年の役では源頼義・義家父子が戦勝祈願をし寺領を寄進したといいます。
正式名は「真言宗 豊山派 寶光山 実相院 横沼寺」ですが、
「横沼寺」ではなく「実相院」で通っているようです。
伊興観音堂(子育観音)は実相院とは別でしたが、明治4年に実相院の本堂となりました。
荒綾八十八ヶ所霊場41番札所、武蔵国(別称 新西国
新坂東)三十三ヶ所霊場23番、
武蔵国八十八ヶ所霊場3番です。
<山門>
仁王像は石造です。
<鐘楼と石碑>
「力石」
「横沼観音堂碑」
「弘法大師一千五十回忌供養塔」「新西國八十八ヶ所霊場三番 実相院」
「普門品供養塔」「成田山不動尊」「浪人征伐 横死萬霊」
「浪人征伐 横死萬霊」は、江戸末期に浪人により治安が悪化、村人は自警団を組織して村を守り、
碑は犠牲となった団員の供養碑です。
「不明」
<水かけ弁財天>
実光堂の前に、小さな水かけ弁財天。
<宝篋印塔>
大きな宝篋印塔です。
<本堂>
本堂右手に、足立区教育委員会の説明が説明板ではなく板碑で記銘されています。
子育観音縁起は、横沼寺の説明板が本堂左手上方に張り付けてあります。
<八幡太郎義家公白馬堂>
源義家に因んで白馬像を祀っています。
真新しい「月山 湯殿山 羽黒山 出羽三山大権現碑」「伊興観音橋馬頭観世音菩薩」と、
大きな「馬頭観世音菩薩」があります。
元禄6(1693)年10月に建立、文政13(1830)年12月に再建されています。
「足立郡淵江領伊興村実相院」と刻まれています。
正面に「馬頭観世音像」。側面に「正観世音菩薩」。
「三山願主」「聖観音願主」「馬頭願主」と刻まれており、3つの供養塔を兼ねています。
出羽三山関係の記銘には、「先達 大乗院」とあります。
台座には「為往来通行馬 安全奉安置之」とあります。
馬の通行安全を祈願しており、元々は、千住堀に架かっていた観音橋の橋詰にあったものを、
実相院に移されています。観音橋については、こちらで記載済。
燃えた痕跡のある供養塔に目がとまりました。
供養塔ですが道標にもなっています。
正面上半分「南無阿弥陀佛」、下半分「百萬遍供養」。
正面下「南方」「六阿弥陀 一里」「弘法大師 十二丁」「江戸道
千住迄一里半」
「六阿弥陀 一里」とあるのは、ここから一里の距離だと、六阿弥陀の札所2番目・延命院(現:恵明寺、足立区江北)でしょう。
実相院は、行基による開山といわれ、その由縁でしょう。
「弘法大師 十二丁」の弘法大師はよく出てくる定番です。
右面「當山所蔵西国廿三番正觀世音菩薩」
右面下「東方」「草加 一里」「鳩ヶ谷 一里半」「竹之塚 十二丁」
左面「奉順礼 坂東 西国 秩父 為先祖代々菩提」
左面下「西方」「王子 一里半」「川口善光寺 一里十丁」
川口善光寺はよく出てくる定番です。
源八幡太郎義家が奥州征伐(前九年の役)の時、伊興村内の応規寺に宿陣し、
観音さまに戦勝祈願したとの伝説が残ります。
応現寺は、義家が戦勝祈願した観音堂の別当でしたが、後に現在地に移り、
観音堂の別当は実相院となり、その後明治4年、観音堂は実相院と一緒になっています。
(説明板)
「応現寺
応現寺は時宗を宗旨とし、西嶋山煎雲院と称し、阿弥陀如来立像を本尊とする。『新編武蔵風土記』によれば、当初は天台宗であったが、遊行二世他阿真教上人により時宗に改められたと伝わる伊興地区の古刹である。
『応現寺過去帳』(足立区登録有形文化財)には、山門は、寛永十四年(一六三七)十七代住職学円の建立と記されている。流破風桟瓦葺の四脚門で、後世の補修も加えられているが、江戸時代初期の山門建築の特徴を示しており貴重である。また、山門前の石灯籠二基は承応三年(一六五四)七月に、常田彦左衛門光能が父母のために寄進したものである。二基とも保存状態がよく、建立年次も明らかなもので、区内では古い遺構例として重要である。
寺内には時宗に深く関連する、天文七年(一五三八)銘以下四基の六字名号板碑(足立区登録有形文化財)、享保十三(一七二八)銘庚申塔(足立区登録有形民俗文化財)等の石造物が保存されている。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会 」
<山門>
山門は、寛永14(1637)年に建てられた江戸時代初期の山門建築の特徴を示しています。
足立区登録有形文化財です。
山門に建つ2基の燈籠は、承応3(1654)年の寄進。足立区登録有形文化財です。
大きなくろまつがあります。
<本堂>
<宗祖一遍上人御尊像>
本堂向かって右手に宗祖一遍上人御尊像があります。
一遍上人の法語が刻まれた碑があります。
「身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし 命を思へば月の影
出で入る息にぞ留まらぬ」
<再建紀念碑>(昭和17年5月)
本堂前左側に石造物が2基。
・左は「六道四生三界萬霊」碑。寛永18(1641)年10月。
・右は「月山 湯殿山 羽黒山 三所大権現」の出羽三山供養塔。嘉永3(1850)年3月。
「先達 大乗院」「天下太平 五穀成就」
<庚申塔>
無縁堂の無縁塔の中に庚申塔が1基、混じっています。
荒綾八十八ヶ所霊場45番札所です。
境内が幼稚園と一体となっています。
<地蔵尊道標>
無縁塔の中に、地蔵尊の道標がありました。
寛政5(1793)年2月銘です。
「左 弘法大師 右 (読めず)」
「長勝寺の開山は智性院日座上人、開基は宮城清左衛門吉重で、元和8年(1622)開創といいます。宮城氏は千葉氏の家臣であったといい、千葉次郎勝胤の菩提を弔うために開基したとも伝わり、千葉氏は妙見菩薩を篤く信仰していたことで有名です。
妙見菩薩は、北極星を神格化したもので、本像は光背に七星を負い、亀に乗っています。七星は北斗七星、亀は北方を守護する亀の霊獣玄武にちなんでいるとされます。江戸時代に制作された小ぶりの像ですが、全身に彩色が施されており、鮮やかな像となっています。
なお、長勝寺は、「千葉次郎勝胤の墓」も足立区登録有形文化財となっています。」
(足立区の文化財「木造妙見菩薩坐像」より引用)
<千葉次郎勝胤の墓> 足立区文化財
境内左手に「千葉次郎勝胤の墓」があり、実名で「千葉次郎勝胤墓」と刻まれています。
(説明板)
「千葉次郎勝胤公墓
この墓は古くは伊興村中央の小名横沼の内、長勝寺の免田の傍(現在の伊興三ー二三ー二四)にあったが、周辺環境の変化を考慮し元の場所を旧史跡として遺し、平成十九年末に移霊とともに墓石を境内地に移築したものである。
当寺は関東檀方・宮城清左衛門吉重が元和八年(一六二二年)に、先祖の主君・勝胤公の菩提を弔うため、領主の千葉氏に願い出てその宅地の一部の割譲を受けて建立し、その後、中山法華経寺より智性院日座上人を迎えて万治二年(一六五九年)に開山した寺である。そのため千葉公の墓は、当寺によって特別の意味を持っているわけであるが、古い時代の事でもあり、勝胤公の没年、死去の事由など歴史的には不明なことも多い。宮城家の古過去帳によれば、勝胤公は永禄七年正月八日に没したとされ、家伝では里見義弘と北条氏康の鴻之台合戦のとき討ち死にしたとされているが、別説もある。勝胤公在世の当時の千葉氏は、従来の勢力から衰退しているとは言え、下総の國(現在の千葉県北部、埼玉県の東辺、東京都の東辺・隅田川の東岸、茨城県南西部にまたがる地)を領した豪族であり、足立区の千住の地名も「千葉氏が住する」から来ているとの説もある。
また足立区南東部・東淵江地域の北東に位置する佐野は古くは佐野新田と呼ばれ、この地を開拓した佐野新蔵胤信は勝胤の子で、佐野家の養子となり姓を佐野にしたもので、開拓した荒地に自らの姓を取って佐野新田と名付けたと伝えられている。
更に、この墓は古くから土地の者の信仰を集めており、土地の古老によれば、「お参りすれば虫歯や諸々の病通に効験がある」とされていたと伝えられている。なお、この墓碑は中世の足立区の歴史を物語る上で、数少ない歴史を銘すものとして、足立区文化財に指定されている。」