元禄13(1700)年、5代将軍綱吉の生母・桂昌院の守本尊である弁財天を祀るために洲崎に建立されました。
海岸に面した土手の先端にありました。周辺は初日の出や潮干狩り、月見の名所として賑わいました。
「江戸名所図会 洲崎弁財天社」
「江戸切絵図 深川絵図」
「十万坪ト云」の記載があります。
海岸に沿った堤に「洲嵜ト云」とあり、「木置場」も見えます。
堤の先に「弁天」(洲崎弁財天)と「吉祥寺」(別当)が見えます。
「絵本江戸土産 洲崎辨天」(広重)
挿絵には「洲嵜辨天 元禄年間 この海浜をつき立て 護持院大僧正隆光 弁天の宮居を建る 春秋 遊人ここに群集す」とあります。
「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」(広重)
「十万坪」と呼ばれるほど広大な深川洲崎(現住所:江東区千田・千石・海辺)の雪景が描かれています。
寛政3(1791)年に起きた大津波によって甚大な被害を蒙りました。
遠景に筑波山が見えます。鷹の視線の先には棺おけが浮かんでいます。
「東都名所 洲崎弁財天境内全図・同海浜汐干之図」 (広重)
品川洲崎と似ていますが、右下には「深川木場」と記されています。
大きな波除碑が見えます。浅瀬には多くの人々が汐干に繰り出しているのが見えます。
「江都名所 洲崎弁天境内」(広重)
浅瀬には人々が汐干に繰り出しているのが見えます。
「江戸名所 洲崎はつ日の出」(広重)
「銀世界東十二景 雪の朝州崎の日の出」(広重)
「江戸高名会亭尽 洲崎初日之出 武蔵屋」(広重 シカゴ美術館)
初日の出の洲崎と、料理茶屋「武蔵屋」が描かれています。
「江戸名所百人美女 洲崎」(豊国・国久)
こま絵には、初日の出の洲崎が描かれています。
「洲崎弁財天社」の鳥居と、二階建の料理茶屋「武蔵屋」が見えます。
美女は土手から初日の出を拝もうとしているのでしょう。帯の裏地に「大當」とあります。
(説明板)
「洲崎神社由緒
当州崎神社神社は元弁天社と称し厳島神社の御分霊を祭神市杵島比売命を斉祀しております。創立は徳川五大将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄十三年、江戸城中、紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、殊に弥生の潮時には城下の貴賎袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮べて妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。
明治五年御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。大正の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大師作の御神体は幸にして難を免れ、当時は仮社殿に奉斎して居りましたが昭和四十三年現在の社殿を造営し斉祀して現在に至っております。」
<津波警告・波除碑> 東京都文化財
江戸名所図会や浮世絵に描かれている波除碑はとても巨大でしたが、
関東大震災と戦災で破損と標柱に書かれています。
台石下、碑裏に几号が刻まれていますが塀裏で暗くてうまく確認できませんでした。
(説明板)境外
「波除碑
由来
寛政3年(1791)9月3日に大雨が降り始め、翌日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって弁天社を始め、その付近の家屋がことごとく流されて多数の死者・行方不明者が出ました。幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西の5,467余坪を買上げて空地とし、家作を禁じて後の水害に備えるこことし、さらに同6年(1794)12月、空地東西の北端に波除碑2基を建て、見通しの標としました。」
(標柱)
「津波警告の碑
寛政三年九月四日暴風雨による津波が襲来しこの付近一帯の家屋や住民も海中に押し流されて被害はなはだしく以来幕府はこの付近を空地とし家屋を建てることを禁じ津波襲来を警告して寛政六年今の洲崎神社と平久橋付近の二箇所に津波警告の碑をたてた 碑は大正十ニ年震災と昭和二十年戦災によって破損した
昭和三十三年十月一日 江東区第四号」
(説明板)
「東京都指定有形文化財(歴史資料)
波除碑
所在地 江東区木場六の十三の十三
指 定 大正一三年二月五日 府仮指定
寛政三年(一七九一)、深川洲崎一帯に襲来した高潮により、付近の家屋がことごとく流されて多数の死者・行方不明者が出た。幕府はこの災害を重視し、洲崎弁天社から西方一帯を買い上げて空地とした。その広さは東西二八五間余、南北三○間余、総坪数五四六七坪余(約一万八千u)に及んだ。そして空地の両端の北側地点に、波除碑を二基建立した。建設は寛政六年頃で、当時の碑は地上六尺、角一尺であったという。
現在は二基ともかなり破損しており、特に平久橋碑は上部約三分の二を失っている。碑文は屋代弘賢と言われているが、二基ともほとんど判読不能である。「東京市史稿」によれば、「葛飾郡永代浦築地 此所寛政三年波あれの時家流れ人死するもの少なからず此後高なみの変はりかたく流死の難なしといふべからす是によりて西は入船町を限り 東ハ吉祥寺前に至るまて 凡長二百八十五間余の所 家屋とり払ひあき地になしをかるゝもの也 寛政甲寅十二月日」と記されていたという。
材質は砂岩で、総高は平久橋碑が一三○・八cm、洲崎神社碑が一六○・一cm。現在の位置は、旧地点を若干移動しているものと思われる。江戸時代の人々と災害の関係を考える上で重要なものと思われる。江戸時代の人々と災害の関係を考える上で重要な資料である。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」
<江戸名所図会に描かれている波除碑>
江戸名所図会に描かれている波除碑ですが、周囲に描かれている人物と比べると、かなりな大きさです。
<東都名所 洲崎弁財天境内全図・同海浜汐干之図 (広重)>
広重の浮世絵に描かれている波除碑部分を拡大すると、やはり周囲の人物と比べると、かなりな大きさです。
<昭和初期の浪除碑>
「江戸の今昔」(昭和7年)に掲載の浪除碑。鳥居の左手に見えます。
解説には、潮干狩は頗る賑わっていたが、海岸を埋め立てかつての俤なしとあります。
<名人竿忠之碑>
昭和49年再建。徳富蘇峰揮毫。
4代目「竿忠」の店が「竿忠つり具店」(荒川区南千住5-11-14)です。(コロナで4/7から休業)
2019年8月除幕。
祠前に御影石の玉があり、祠内に「玉の輿たまちゃん」。
たまちゃんの実家は八百屋さん、人参を持っています。
尻尾は破魔矢、木場なのでキバがあります。首輪には神紋があります。神紋の鞄をぶら下げています。
(説明板)
「玉の輿たまちゃん
「由来」
五代表軍・徳川綱吉公の生母桂昌院(幼名=お玉)は八百屋の娘から武士の養女・公家出身の尼僧の侍女へそして将軍家光の側室にまで上り、立身出世した事から、桂昌院が「玉の輿」の語源・代名詞となったことが頷けます。
当社は一七○○年に桂昌院が建立したのが始まりです。
須崎神社々務所」
<狛犬>
狛犬の台座がピンク色です。
<境内社>
左から「弁天社」「豊川稲荷神社」「於六稲荷神社」と並んでいます。
<力石> 江東区文化財
石碑の周りに力石が並んでいます。
<社殿>
現在の社殿は昭和43(1968)年の再建です。
神社横の児童遊園入口に広重の絵が掲示されています。でも、違和感大。
「銀世界東十二景 真崎の大雪(広重)」で、隅田川右岸の真崎稲荷の雪景色を描いたものです。
ここの場所の光景ではないのです。なぜこの絵なの?
掲示するなら
「銀世界東十二景 雪の朝州崎の日の出(広重)」こっちでしょう。
洲崎の雪景色と目の前の海からの日の出を描いたものです。
できあがるまでに誰か気づきそうなもんですけどね。2枚掲示すれば良いとは思うけど。
大横川の木場5丁目と6丁目に架かる新田(にった)橋です。
旧新田橋が、八幡堀遊歩道に保存されています。
(説明板)
「新田橋
新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場五丁目から木場六丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
大正時代、岐阜県から上京し、木場五丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
当初「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。
平成十ニ年の護岸整備により現在の橋に架替られましたが、架かっていた橋は、八幡堀遊歩道に大切に保存されています。」
「東都歳事記 深川洲崎汐干」
汐干狩りは3月の年中行事として、芝浦、高輪、品川、佃島、深川州崎、中川などが名所でした。
なかでも品川と洲崎は、潮干狩りの名所として、多くの人々で賑わいました。
「江都名所 洲崎しほ干狩」(広重)
江戸時代の潮干狩りは、熊手とか道具は使わず、みなさん素手なんですね。
「東都三十六景 洲さき汐干狩」(広重)
「江戸自慢三十六興 洲さき汐干かり」(広重)
「江戸名所道外尽十二 洲崎の汐干」(歌川広景)
前掲の広重「江都名所 洲崎しほ干狩」とそっくりな絵です。
「汐干狩」でタコが出てきて女性の足に絡みついています。
男性はヒラメに驚きひっくり返っています。
「東京名所三十六戯撰 洲崎汐干」(昇齋一景)
「東京開化狂画名所 洲崎汐干 大赤貝ゆびを挟む」(月岡芳年 都立図書館蔵)
月岡芳年が描くとこうなります。
「江戸名所 品川沖汐干狩之図」(重宣)
こちらは、品川の汐干狩です。
「江戸風俗十二ケ月の内 三月 潮干狩の図」(楊洲周延 明治23(1890)年)
明治時代にも続く潮干狩りです。
江戸時代もそうですが、道具を使わず素手で採っています。
タイトルに場所の記載はありませんが、品川台場が見えるので品川汐干かと思います。
カゴの中にはたくさんの大きな貝が見えます。
当時は、道具を使わずとも、大きな貝が簡単にザコザコ採れたのでしょうね。