山吹の里伝説は、江戸時代の創話と思われます。
○ 太田道灌公追慕之碑 (江戸城)
○ 太田道灌像 (東京国際フォーラム)
○ 江戸城天守模型 (東京国際フォーラム)
○ 太田道灌公像/太田道灌履歴(日枝神社)
○ 江戸城「含雪亭」 (江戸名所図会)
○ 太田道灌騎馬像「回天一枝」(日暮里駅前広場)
○ 山吹の花一枝像 (日暮里駅前広場)
○ 久遠の像 (新宿中央公園)
○ 紅皿の墓/山吹坂 (大聖院)
○ 太田道灌像 (川越市役所) 別頁
○ 道灌公記念碑/道灌歌碑/太田氏七代供養塔(法恩寺) 別頁
○ 道灌物見塚 (本行寺) 別頁
○ 太田道灌の御神木 (狭山山不動寺)別頁
平川門の手前右手に、3つの石を組んだ石碑があります。太田道灌の追慕碑です。
1457(長録元)年、太田道灌は皇居東御苑あたりに江戸城を築城したといわれています。
この碑の材は、虎ノ門の石垣の一部が使われています。
(碑文)
「此ノ石材ハ江戸城虎之門桝形ノ遺材ニシテ道灌公當時ノモノニハアラザルモ因縁深キモノトシテ特ニ本碑材ニ選定スルコトトセリ」
(説明板)
「まち 記憶
1457年
長禄元年
江戸城築城
江戸城は、上杉氏の家臣太田道灌(1432〜1486)によりはじめて築かれた。
のち、徳川氏15代の居城となり、明治初年より皇居となった。」
(説明板)
「江戸城築城 五五〇年に当たって
左にある「追慕の碑」は、太田道灌公没後四五〇年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長禄元年(一四五七年)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度五五〇年に当たります。
この記念すべき時に当たり、都市東京と千代田区の今日の繁栄の基礎を築いたとも言える太田道灌公の遺徳を偲んで、顕彰の標とします。
太田道灌(一四三二〜八六)は、室町中期の武将で歌人。名は、資長(すけなが)、道灌は法名。扇谷上杉家の重臣。一四五七年、この千代田の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、三〇数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉家の策謀により主君に暗殺された、江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が、悲劇の名将の横顔をいまに伝えている。
千代田区観光協会(協力)
七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき
平成一九年九月二十五日 千代田区」
<追慕の碑>
(碑文)
「太田道灌公追慕之碑
(略)
昭和十一年七月二十六日 東京市長 牛塚虎太郎」
「太田道灌像」と解説パネル「太田道灌と江戸城」(2017年3月28日設置)、江戸城の模型が、
東京国際フォーラムガラス棟の1階、東京駅側の入口から入ってすぐのところにあります。
<東京国際フォーラム>
(説明板)
「東京国際フォーラムが建つこの地には、江戸時代、土佐藩と阿波藩の上屋敷がありました。
江戸の町は、徳川家康が1603(慶長8)年に江戸幕府を開いて以来、今日に至るまで日本の中心として栄えてきましたが、開幕から遡ること約150年前、1456(康正2)年に江戸城を初めて築いたのが、扇谷上杉氏の家臣であった太田道灌(1432〜1486年)です。
1957(昭和32)年、開都500年を記念して、旧丸の内第一本庁舎の鍛冶橋通り沿いに太田道灌像が設置されました。
1991(平成3)年の新宿への都庁移転、1997(平成9)年の東京国際フォーラムの建設を経て、像は現在地に再び設置されました。
太田道灌は今も、皇居(旧江戸城)の方角を望んで立っています。」
<太田道灌像>
太田道灌像は、朝倉文夫作(昭和31(1956)年10月)、昭和33(1958)年2月に除幕されています。
「開都五百年記念
昭和三十一年十月一日
太田道灌像
昭和三十三年二月除幕
朝倉文夫作」
「この模型のスケールは1/84です」
(説明板)
「江戸城 場所:東京都千代田区
□天守建築年:寛永15年(1638)
□天守建築主:徳川家光
□主な城主:徳川家康 徳川秀忠 徳川綱吉 徳川吉宗
□現状:天守台のみ現存
江戸城は室町時代に太田道灌が築いた古城だったが、天正18年(1590)に徳川家康が入城して以来、徳川氏の本城となった。江戸城天守は3度建てられており、その初代天守は家康が慶長12年(1607)に創建、二代目天守は二代将軍秀忠が元和9年(1623)に位置を変えて建て替えた。三代目天守は、三代将軍家光が父秀忠の天守を解体し、外観を変えて建て直したものだったが、明暦3年(1657)の江戸大火(振袖火事)で焼失した。その後は天守台の石垣だけが再築され、天守本体の再建は見送られた。
家光の江戸城天守は、外観は五重、内部は地上五階、地下一階で、天守台上に44.8m(15階建のマンションに匹敵)の高さで聳えた。日本史上最大の天守である。屋根は銅瓦で葺き、壁は銅板張りで、屋根の頂には黄金の板を張り付けた金鯱が輝く。攻撃装置を一切見せない上品な天守で、天下泰平の象徴だった。」
<江戸城の昔と今>
<太田道灌が築城した江戸城>
太田道灌が江戸城を築いたのは長禄元(1457)年。
<パネル>
太田道灌のプロフィール
「道灌の戦績とその後」「関東戦国史と太田道灌の足跡」「各地にある太田道灌像」
<過去の経緯>
日本橋架設に際し装飾用として道灌公像は白井雨山氏に、家康公像は黒岩淡哉氏に依頼し、
明治41年この両像が完成して上野博覧会に出陳されました。
日本橋に置かれる予定であった道灌と家康像は、西洋式の橋にマッチしないことを理由として
この両像を日本橋の装飾用とする計画は廃案となりました。
岡崎雪声と渡辺長男が日本橋の装飾担当となりました。
廃案となったこの両像は、明治44年に東京市庁舎玄関を飾ることになりましたが、
なぜか道灌公像のみは白井雨山氏作の代わりにこれを基本とし作った岡崎雪声氏作の道灌公像が
納められていたことが昭和6年に判明しました。
また、白井雨山氏作の道灌公像は、渡辺長男氏の所に現存することが判りました。
この両像が、1920(大正9)年に渡辺長男氏の作に代わったことは当時は知られていませんでした。
第二次大戦の金属供出で1943(昭和18)年4月に両像は失われています。
太田道灌像は、現在は4代目ということになるようです。
「道灌の銅像余話」及び「妻木頼黄と日本橋の意匠」(金山弘昌 慶応義塾大学日吉紀要)
を参照してまとめました。
1478(文明10)年、太田道灌が江戸築城にあたり、川越山王社を再勧請しています。
徳川霊廟への奉献金燈籠に似ていると思ったら、徳川家綱が1659(万治2)年に奉納した燈籠。
格式の高い、日枝神社です。
「江戸名所図会 日吉山王神社」に描かれています。
<宝物殿> ※現在は撮影禁止となっています。
宝物殿に太田道灌持資公像があります。
東京国際フォーラムの太田道灌像とそっくりだと思ったら、その模像です。
昭和51年5月建立。
銘文「道灌公像」を見ると、
「丸の内東京都庁舎前庭の道灌像(朝倉文夫作)を模してここに安き後世に伝ふ」
「松本徽章工業株式会社謹製」
名主長澤次郎太郎による太田道灌履歴、天明6年7月銘です。
後土御門天皇に拝謁時の、和歌のやりとりが記されています。
<天皇拝謁に際し、道灌、和歌で答える>
太田道灌は1464年に上洛した際、8代将軍「足利義政」に会い、その後「後土御門天皇」に拝謁しています。
後土御門天皇から「武蔵野ってどんなところ?」と聞かれた太田道灌は、武蔵野の雄大さを
「露おかぬ方もありけり夕立の 空より広き武蔵野の原」と、和歌で答えます。
続けて天皇は問います。「普段の眺めはどうなのか?」
松原と霊峰富士を歌い、
「我庵は松原つづき海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」と、また和歌で答えます。
道灌は質問に即座に和歌で答え天皇を驚かせ、今度は天皇が歌で返します。
「武蔵野は高萱のみと思ひしに かかる言葉の花や咲くらむ」
またあるとき道灌を勅して、「角田川の都鳥ってどう?」道灌は
「年ふれどまだ知らざりし都鳥 角田河原に宿はあれども」と答えます。
道灌は歌で天皇の東国と東国武士に対する認識を変えました。
東国といえば都鳥しか京の人々は思い浮かばないでしょうから、
天皇への拝謁に際して、東国のこと、都鳥のこと、住まいのことは聞かれると
道潅は想定して準備したことと思います。
あるいは、天皇の側近を懐柔して、事前に質問事項を聞き出して準備しておくぐらいは、
道灌ならやるだろうと、猿の話から確信します。
(「江戸名所図会」にも天皇拝謁時における和歌で答える同じ内容が載っています。)
(参考)<将軍の猿を調教>
「足利義政は猿を飼っていて、この猿は御所に参内する見知らぬ人に飛びかかって引っ掻くことを道灌は知り、
猿師から猿を借りて手なずけて戻しました。
道灌が参内すると猿は飛びかかろうとしますが、道灌がにらみつけると平伏しました。
将軍は、道灌はただものではないと大いに驚きました。」
(「常山紀談」より)
「江戸名所図会 太田持資」
「太田持資、含雪亭より士峰を望み和歌を詠す
我庵ハ松原つゝき海近く富士の高根を軒端にそみる 持資」
江戸城内の居所として造られた「静勝軒」( 西を「含雪」、東を「泊船」と名付けた)で、
歌を楽しむ道灌の姿が描かれています。
「静勝軒」は、「兵ハ静カナルヲ以テ勝ツ」という中国の兵法から名づけられました。
静勝は戒名ともなっています。また静勝寺の寺名ともなっています。
(説明板)
「「回天一枝」 橋本活道
道灌の「山吹の一枝」の故事にちなんで、それを契機に文の道に目覚めたという道灌が、まさに「回天」の勢いで文の道を極めていったことを表現しようと「回天一枝」という作品名を、作者の橋本氏と鈴木俊一元都知事がこの太田道灌騎馬像に命名いたしました。
ー山吹の里の伝説ー
若き日の太田道灌が狩りの道中で雨に遭い、一軒のあばら家に立ち寄り、蓑(みの)を借りようとしました。しかし、少女は無言で山吹の一枝を差し出し、道灌は怒って雨の中を帰りました。
その後家臣から、少女は「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という古歌によせて、蓑ひとつない貧しさを山吹に託したのでしょうと聞き、己の無学さを恥じ、歌道にも励むようになったと言われています。
1989年 荒川ライオンズクラブ25周年記念 寄贈」
<石碑「回天一枝」>
石碑「回天一枝」。裏にはライオンズクラブの寄付者が刻まれています。
「山吹の里伝説」で山吹の一枝を道灌に捧げた少女の姿を現した像です。
平野千里氏の手によるもので、区内ではJR南千住駅前に立つ松尾芭蕉像も平野氏の作品です。
平成30年5月23日除幕式。
(説明板)
「太田道灌 山吹の里伝説
鷹狩りの途中で道灌が急な雨に遭遇し、路傍の農家に立ち寄り、蓑を借りようと声をかけると、一人の娘が出てきて、黙って一枝の山吹を捧げた。
「七重八重花は咲けども山吹の
実の一つだになきぞ悲しき」
(後拾遺和歌集・兼明親王)
「山吹」の意を得ずに、憤り帰った道灌は、家臣から「山吹」の意を告げられる。娘が古歌に託して「実の」に「蓑」をかけ「お貸しできる蓑もございません」と詫びていたことを知った道灌は、この後、和歌の道に精進するようになったと言われている。
(以下略)
平成三十年五月 荒川区」
新宿中央公園にある「久遠の像」です。
少女(紅皿)が扇子の上で山吹の枝を差し出しています。太田道灌は引き気味です。
意味が通じていないのは道灌のほうでした。
後に意味を聞いて道灌大いに驚き、歌に志をよせます。
その後、道灌は紅皿を江戸城に呼んで、妾となし、歌友となしました。
山吹の枝を扇子で差し出しているのは風流です。
(簑が買えないほど貧しいのに、扇子は持っていたのですね!伝説だから風流に造形して良いと思います)
<銘板「久遠の像」>
「久遠の像
この像は江戸城を築いた太田道灌が
武蔵野の原で狩をした時の伝説の一情景であります。
一九七八年四月」
太田道灌が暗殺された後、紅皿は大久保に庵を建て尼となり、死後この地に葬られたといいます。
<紅皿塚由縁書>
大日本名所図会では、「山吹里」の解説で、紅皿塚由縁書を紹介しており、
長文のため、最後の部分を引用します。
「彼紅皿を呼で後に妾となし歌の友となし給ふ。夫より親兄弟豊かに暮らしける。
文明十八年七月太田道灌諫言に因て相州糟谷と申所にて亡給ひ。後紅皿尼となり。
此大窪邊にいほりを造り住居せし由。死後其の地に葬せし塚碑なり。」
「紅皿」にちなみ「山吹坂」と呼ばれる階段坂を上ると、右手に山吹坂の標柱があります。
(標柱)
「山吹坂
この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。」
「江戸名所図会 大窪天満宮」をよく見ると、大窪天満宮の階段の参道の左に、
山吹坂が描かれています。
<大聖院>
大聖院は、お隣の西向天神社の別当寺でした。
境内には伝説の紅皿の墓があります。
<北参道と成田山碑>
台石に「成田山」と刻まれた3碑があります。
「江戸名所図会」を見ると、北参道入口に鳥居が描かれていますが、現在はありません。
<紅皿の墓>
「紅皿塚は、駐車場の中にあります。住職」との表示に従い、
引き戸を開けて駐車場に出ると紅皿の墓があります。
・板碑 紅皿の墓と伝承される板碑
・水鉢 「さの」を中央に芝居役者名が連なります
・花立 2基 芝居役者名が並びます
・燈籠 2基 「宇田かん弥」
(説明板)
「新宿区指定史跡
紅皿の墓
所 在 地 新宿区新宿六丁目二十一番十一号
指定年月日 平成十八年八月四日
太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(一基)、燈籠(二基)、水鉢(一基)、花立(二基)から構成される。
板碑は区内では唯一のものとなる中世の十三仏板碑である。また、板碑の前には十二代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられ、その存在が広く知られるようになった。
伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し「御拾遺集」の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
紅皿の墓とされる伝承が江戸時代中頃成立、展開し、幕末維新期を経て広まっていく様子を知ることができ、伝承、文献も含めた史跡として位置づけられ貴重である。
平成十八年十月 新宿区教育委員会]
かつての宝塔でしょうか?
目立つ大きな碑なのでとりあげます。
「神変大菩薩」
「役行者一千百八十五年忌之碑」
「明治十六年五月 正四位山岡鐵太郎書」
紅皿の墓に隣接する西向天神社にも参詣。
「江戸名所図会 大窪天満宮」
「西向」あるいは「棗の天神」と称されると記されています。
「絵本江戸土産 大久保西向天神」
「神体右を向かせ給う故にその名あり 傍不二の形せし山にありて風景面白し」
富士塚が描かれています。
<百度石>
大正8年
<不動明王>
<藤圭子「新宿の女」歌碑>
石坂まさをの作詞作曲生活30周年を記念し、平成11(1999)年9月の建立です。
「新宿の女」のキャンペーンが、西向天神社を起点に行われました(昭和44年9月25日)。
花園神社には「圭子の夢は夜ひらく」歌碑があります。
<武蔵國大久保菅公廟碑>
神社由来を刻んだ大きな碑です。
<東鳥居/西向天神祀碑>
東鳥居から入ると、西向天神祀碑に突き当たります。
大きな碑で、由緒が刻まれています。
「明治三十五年三月三十一日」
<大東亜戦争 戦没者慰霊碑>
境内に天保13(1842)年に造られた富士塚があります。
明治期に一時的に撤去されるも大正14(1925)年に再築されています。
「胎内洞穴」も造られています。
<富士塚下>
富士塚下に「浅間神社」碑と「富士山一合目」碑、胎内窟があります。
<日之尊>
頂上の「日之尊」碑。
<再築紀念碑>
富士山廿六夜講社
大正十四年六月 前田利定書
<富士山再築全寄附芳名>
「廿六夜講 大正十四年六月」
<小御岳石尊大權現碑>
大天狗
小御岳石尊大権現
小天狗