Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 谷中 七面坂下〜六阿弥陀道

  ○ 六阿弥陀道道標
  ○ 岡倉天心記念公園

  ○ 本授寺
  ○ 長明寺
  ○ 宗林寺(萩寺)
  ○ 大円寺


六阿弥陀道標 台東区谷中3-6

 六阿弥陀詣は、五番常楽院から時計回りに廻るのが一般的で、
 常楽院を出て黒門から寛永寺に入り、谷中門から出て、三崎坂(さんさき坂)を経て、谷中の六阿弥陀道へ入ります。
 岡倉天心記念公園前の道は、六阿弥陀詣の五番常楽院と四番与楽寺とを結ぶ六阿弥陀道です。
 六阿弥陀道の道標が道路脇の駐車場にあります。

 (正面) 「六阿みた□」「施主□〜(埋まっています)」
 (左側面)「是より下谷五番へ十□町」
      (□は二(に見えますが12町だと常楽院まで短かすぎです)
 (右側面)「是より田畑四番へ八町」
 (裏面)  明治の文字が読めますが他は読めず。

     

「江戸切絵図 御切手町/六阿弥陀横丁」

 六阿弥陀道部分の抜粋です。
 「大圓寺」「カサモリイナリ」→「御切手同心」→「宋林寺」を通って、与楽寺へ向かいます。
 「御切手(ごぎって)同心」は、江戸城本丸大奥の裏門「切手門」の番所に詰め、同門の警備と出入りの監督にあたりました。
 「御切手同心」の組屋敷がここにありました。
 このため、明治初期頃までは「御切手町」と呼ばれていました。また「六阿弥陀道」の横丁であったことから「六阿弥陀横丁」とも呼ばれていました。

  


岡倉天心記念公園 台東区谷中5-7-10

 七面坂を下った突き当たりに本授寺があり、南への道を進むと左手に長命寺、右手に宗林寺があり、
 さらに左手に岡倉天心記念公園があります。

 岡倉天心記念公園は、横山大観らと日本美術院を創設し、日本の伝統美術の復興に努力した岡倉天心の
 邸宅兼、日本美術院跡に台東区が作った公園で、1967(昭和42)年に開園しました。
 1906(明治39)年12月に美術院が茨城県五浦に移るまで、ここが活動の拠点になっていました。

 園内には岡倉天心を記念した六角堂が建ち、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されています。

    

<六角形>

 至るところに六角形が造形されています。公園標石、地面タイル、トイレ、イス、街灯、水飲み。

    

   

(説明板)
「東京都指定史跡
  岡倉天心宅跡
  旧前期日本美術院跡
      所在地 台東区谷中五丁目七番十号
      指 定 昭和二十七年十一月三日
 日本美術院は明治三十一年(一八九八)岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づきその維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、評議員には横山大観、下村観山らがいた。
 活動は絵画が主で、従来の日本画の流派に反対し、洋画の手法をとり入れ、近代日本画に清新な気を与えた。
 この場所に建てられた美術院は明治三十一年九月に竣工した木造二階建で、南館(絵画研究室)と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなり、附属建物も二、三あったといわれている。明治三十九年十二月に美術院が茨城県五浦に移るまで、ここが活動の拠点となっていた。
 昭和四十一年(一九六六)岡倉天心史跡記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心座像が安置されている。
  平成十一年三月三十一日 建設
    東京都教育委員会」

   

<下町まちしるべ>

「下町まちしるべ 旧 谷中初音町四丁目
 町名は、本町内に鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
 谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治二年(一八六九)のことである。そして同四4年、江戸時代から六阿弥陀横町または切手町といわれた武家地が初音町四丁目になり加わった。さらに同二十四年、初音町四丁目は谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併し、ここに初音町としての町域を確定した。
 本町には、かつて日本近代美術の先覚者岡倉天心が住んでいた。明治三十年(一八九七)東京大学卒業後、文部省に勤めたが同二十二年、東京美術学校を開設するなどして日本近代美術の振興につとめた。その天心の旧居跡が現在の岡倉天心記念公園である。公園正面の六角堂には本区名誉区民・芸術院会員であった平櫛田中作の「岡倉天心先生坐像」が安置されている。 台東区」
 (註:説明板に誤記があります。岡倉天心の東京大学卒業は明治30年(1897)ではなく、明治13年(1880)です。)

  

<岡倉天心先生舊宅趾/日本美術院発祥之地>

 入口の左手植込みに「岡倉天心先生旧宅趾/日本美術院発祥之地」石碑があり、
 植込みには「越前水仙」が植えられています。さらに「日本美術院院歌碑」があります。

 「岡倉天心先生舊宅趾
  日本美術院発祥之地
  昭和42年5月吉日」

   

<日本美術院院歌碑>

 「日本美術院院歌碑」は、岡倉天心が作詞した日本美術院院歌を
 横山大観が絵をまじえて書いたもので、うぐいすと紅梅花は絵文字で描かれています。

 (日本美術院歌)
  「谷中うぐいす初音の血に染む紅梅花
   堂々男子は死んでもよい
   奇骨侠骨開落栄枯は何のその
   堂々男子は死んでもよい」

   

<越前水仙>

(説明板)
「越前水仙(えちぜんすいせん)について
ここには、岡倉天心にゆかりのある福井県より寄贈された越前水仙が植えてあります。なお、この水仙は地元谷中初四町会の皆さまにより植栽されました。
  平成19年10月5日
〜水仙はヒガンバナ科の多年草で、原産地は地中海といわれており、日本にある水仙は中国から伝わったとされています。福井県の越前海岸に群生する水仙を特に越前水仙と呼んでいます。越前海岸は、房総半島、淡路島と並んで、日本三大群生地のひとつで、約60ヘクタールの水仙畑は日本一の規模を誇ります。日本海に面した急斜面で寒風に耐えて咲く姿が、別名「雪中花」と呼ばれ、多くの作家、歌人、画家の題材にもなってきました。凛とした表情で咲き誇る越前水仙は、芯の強い県民性に通じるとされ、昭和29年に福井県花に指定されました。〜」

   

「岡倉天心と越前水仙
 天心は、亡くなる1ヶ月前にカルカッタの女性詩人に宛てた手紙の中で、「もしも私の記念碑を建てねばならぬというのであれば、水仙を少しばかりと香わしい梅樹を植えよ。」と記しています。越前を心のふるさとと慕った天心が、水仙をこよなく愛していたことがうかがえます。(参考文献)「祖父 岡倉天心」岡倉古四郎著)」

  

<岡倉天心史蹟記念堂(六角堂)/岡倉天心座像>

 公園の一番奥に、「岡倉天心史蹟記念堂」と、堂内に「岡倉天心座像」があります。

「讃 岡倉天心史蹟記念堂
 明治美術界の偉大な先覚者岡倉天心は 明治二十一年当地谷中初音町に日本美術院を創設し、幾多の俊英を育成して東洋美術の真髄を広く世界に紹介した。とくに日本の明治開化期にあって、東京美術学校の創立、中国、インドの古美術踏査、日本美術史の著述など多岐に亘る芸術活動は、我が国美術界に大きな改革をもたらした。
 本区の誇る偉才岡倉天心の輝かしい業績を後世に伝えるべく台東区長上條貢氏は、かねて遺蹟顕彰の方策を持っていたが、時偶々上野信用金庫理事長長野高一氏より多額の浄財の寄託を受けるに及び日本美術院発祥の当地に岡倉天心史蹟記念堂の建設を発意した。
 上條区長の委嘱により地元関係者をもって建設委員会が結成され、史蹟記念堂の実現に意を注いだ。幸い天心の直門であり、その薫陶にも触れた日本木彫界の泰斗平櫛田中先生の賛意を得て秀作「岡倉天心像」の寄贈を受け、これを六角堂に収め「岡倉天心史蹟記念堂」と命名する。
 芸術文化の中心地として知られる上野の一角に平櫛田中、長野高一両氏をはじめとする多くの人々の厚意によって「岡倉天心史蹟記念堂」が建設されたことは誠に大きな意義がある。とこしえに天心の偉業を伝える事績として愛護されんことを記念し、ここに讃を記す。
  昭和四十一年十一月吉日  岡倉天心史蹟記念堂建設委員会委員(以下省略)」

   

    

<岡倉天心座像>

   

「岡倉天心肖像」((国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
  文久2年12月26日〜大正2年9月2日(1863年2月14日〜1913年9月2日)

    

※墓は染井霊園にあります。こちらで記載


本授寺 台東区谷中3-11-16

 本授寺は、七面坂を下りてきた突き当たりにあります。
 1628(寛永5)年、下谷に創建、1896(明治29)年に当地へ移転したといいます。

  


長明寺 台東区谷中5-10-10

 「江戸名所図会」では、宗林寺と相対して「長相寺」と記載されていますが「長明寺」でしょう。
 1609(慶長14)年に当地にて起立しています。

  

<銅鐘>(台東区文化財)

 天和2年の銅鐘は、台東区文化財です。
 説明板によると、鋳物師の椎名伊予良寛は、4代将軍徳川家綱(厳有院)の宝塔の鋳造を任されており、
 当時実力を伴った著名な鋳物師であったことがわかるとのこと。
 戦時金属供出をよく免れて残ったと思います。

    

「満願 三十番神安座」
  三十番神堂がかつてはあったようです。

  

「日精上人碑」

  

<本堂>

 真新しい本堂です。
 参道右側に工事で出た鬼瓦が並んでいます。

   

人力車発明紀念碑>

 人力車発明紀念碑が墓地入口にあります。
 明治3(1870)年に人力車を発明し普及に尽力したのが、和泉要助(1829〜1900)です。

 表「人力車発明紀念碑」
 裏「大日本人力車発明人 和泉要助
   明治二年発明 (以下続く)」

 ※ 各地の人力車組合と関わりが深かったものに「足尾山信仰」があります。
   足の神様であり、足の諸病、健脚、旅の安全を願う神様です。
   足尾山信仰については、こちらで記載済

    


宗林寺(はぎ寺) 台東区谷中3-10-22

 宗林寺は、徳川家康の茶師が開基した寺です。

 「宗林寺」は、徳川家康に仕えた茶道家が開基となり舩守祖師を本尊として駿府に創建されました。
 家康の入府に伴って慶長年間に寺も移転し、昌平橋外、上野東寺町を経て、
 1701(元禄14)年にこの地に転じました。
 舩守祖師は、江戸十祖師像の一つです。

 江戸名所図会では、七面坂を下りてきたところに「宗林寺」が描かれています。
 また、蛍の名所として描かれています。
 「蛍沢
  谷中宗林寺の境内にあり 又妙林寺の池をも蛍沢と唱ふ すべて此辺蛍の光他に勝れたり
  草の葉を落るより飛ほたる哉 芭蕉」

   

「天王寺下衣川」(小林清親)
 小林清親は、蛍が飛び交っているところを描いています。

  

「天王寺下衣川」(井上安治)
 井上安治も同様。

  

<萩寺>

 萩寺とも呼ばれます。
 石標は「「ほたる澤 はぎ寺」と「舩守祖師大菩薩安置 宗林寺」」
 不詳の碑があります。

    

   

<銅鐘>(台東区有形文化財)

(説明板)
「銅鐘(台東区有形文化財)
 宗林寺は妙祐山と号する日蓮宗寺院である。はじめは駿府(静岡県静岡市)に創建されたという。その年代は不明だが、天正年間(一五七三?九二)に江戸昌平橋外に移り、後に上野東寺町に移転したという。さらに元禄十四年(一七〇一)に当地へ転じた(「御府内寺社備考」)。
 (以下略)
  平成三十年三月  台東区教育委員会」

    

<安藤土屋二君合碑>

 詳細不詳。

  

<本堂/浄行菩薩像>

    


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