Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 本駒込

  ○ 駒込大観音(光源寺)
  ○ 吉祥寺   ※別頁
  ○ 駒込天祖神社(駒込神明宮)
  ○ 駒込富士神社
  ○ 富士浅間神社(本富士)(文京区本郷)
  ○ 歴史と文化の散歩道「富士神社とその周辺」
  ○ 江岸寺


駒込大観音(光源寺) 文京区向丘2-38-22

 「江戸名所図会 駒込大観音」に駒込大観音が描かれています。
 2階の窓から尊顔を拝んでいます。
 駒込大観音は戦災で焼失しましたが、平成5(1993)年に再建されています。

   


駒込天祖神社(駒込神明宮) 文京区本駒込3-40-1

 江戸時代には、駒込神明宮と称され駒込の総鎮守として信仰を集めた社です。

 鳥居の右手に文京区の説明板。
 参道左手に自然石の社号標。
 「幣之松碑」には、源頼朝にまつわる駒込天祖神社の歴史が刻まれています。

(説明板)
「天祖神社  本駒込3-40-1
 江戸時代、駒込の氏神として、神明様と呼ばれ、里人に親しまれてきた。社伝によると、文治5年(1189)源頼朝が奥羽征討(藤原泰衡追討)の途中、この地に立ち寄り、夢のお告げで松の枝に大麻(伊勢神宮のおふだ)がかかっているのを見つけた。頼朝は、征討のよい前触れと喜び、この地に神明(天照大神)を祭ったのが、この神社の起源といわれる。社殿の様式は神明造り。
 大麻のかかっていた大木は、神木として崇められ、さしわたし4尺(1.2m)もある大木と伝えられている。(『江戸砂子』から)
 その後、宮守りもなく神木の根元に小さな祠を残すだけとなったが、1650年頃、堀丹後守利直によって再興された。神木は、その後枯れたという。
 社殿の裏に、都立駒込病院あたりにあった「鷹匠組」の寄進名が刻まれた石柱が、いまも残る。
  東京都文京区教育委員会 昭和63年3月」

     

     
 

<江戸名所図会>

 江戸名所図会に「駒込神明宮」が描かれています。

  
 

<江戸切絵図 東都駒込辺絵図>

 御鷹匠屋敷の隣に神明宮が描かれています。

  
 

<庚申塔7基>

 裏参道の入口に庚申塔が7基並んでいます。
 板碑型の古い庚申塔もあり、7基が一同に会しているのは壮観です。

   

 左から順に見ていきます。

 ・左端は笠付角柱型の庚申塔です。正面、右面、左面に大きな猿。
  元禄16(1703)年9月の造立。

 ・2番目の板碑型庚申塔。
  「奉供養庚申二世安樂」

 ・板碑型の庚申塔です。慶安元(1648)年9月の造立。
  「為庚申待意趣者二世安樂」

 ・青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の庚申塔です。
  享保5(1720)年10月の造立。

 ・一番大きな板碑型庚申塔です。三猿が下部に描かれています。
  寛文8(1668)年の造立。
  「為奉待庚申二世安樂」

 ・青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の庚申塔です。
  
 ・右端は青面金剛像のみの庚申塔です。
  延宝4(1676)年4月の造立。

     

    


駒込富士神社 文京区本駒込5-7-20

 本郷通りに「富士神社入口」交差点があります。

  
 

<一の鳥居/社号標>

 一の鳥居と社号標。
 社号標は富士の下の文字が削られています。天保10年12月の銘。

     
 

<御神木>

 境内中央にあるカヤが御神木です。
 境内には御神木のほか大きな樹木が複数あります。
 「文京区保存樹木 イチョウ スダジイ クスノキ ケヤキ エノキ カヤ」

     
 

<手水舎>

 手水鉢が2基。近づくとセンサーが作動し水が出ます。

  
 

<下浅間社>

 富士塚の麓、参道左手に「下浅間社」。
 普段は閉まっている扉ですが、山開きの大祭の際に開帳されるようです。

  
 

<社務所>

 普段は無人で、御朱印等は駒込天祖神社が対応しています。

 「鎮火祭中止のお知らせ」
  8月28日に開催される鎮火祭は、山開きに対応する山じまいの祭礼ですが、コロナで中止です。

 「2013 文の京 都市景観賞 ふるさと景観賞 駒込富士神社
  江戸期の富士信仰の拠点のひとつであった駒込富士神社は、その風情ある佇まいの中で、
  山開きや鎮火祭など地域の文化を脈々と語り継ぎ、区民に親しまれている景観を形成しています。
  文京区」

    
 

<文京区教育委員会の説明板>

 石段右手に文京区教育委員会の説明板があります。

(説明板)
「富士神社  本駒込五ー七ー二〇
 富士神社はもと、旧本郷町にあった。天正元年(一五七三)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間社を勧請した。
 寛永六年(一六二九)加賀藩前田候が上屋敷(現東京大学構内)を賜わるにあたり、その地にあった浅間社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。
 社伝によれば、延文年間(一三五六〜六一)には既に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったといわれる。この塚は一説によると、前方後円の古墳といわれる。
 富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。
 山岳信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。旧五月末になると富士講の仲間の人々は、六月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」が多数出来た。文京区内では、「駒込のお富士さん」といわれるここと、護国寺の「音羽の富士」、白山神社の「白山の富士」があった。
  文京区教育委員会  昭和五十六年三月」

  
 

<駒込ナス>

 JAの江戸・東京の農業の説明板はよく見るので、JAのサイトで確認すると、
 平成9(1997)年に、農業にゆかりのある神社などに「江戸・東京の農業野外説明板」を
 都内50ヶ所に設置しています。

(説明板)
「江戸・東京の農業 駒込ナス
 幕府がおかれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの大名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。
 このようにして、江戸近郊の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、当富士神社周辺でも、各種の野菜栽培が生産されるなど、大消費地江戸の供給基地として発達しました。
 とくに、ナスは優れたものが出来たことから「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも記されています。
 農家はナス苗や種子の生産にも力を入れるようになり、タネ屋に卸していました。
 ここ、巣鴨駅の北西にある旧中山道にはタネ屋が集まり、さながらタネ屋街道の趣をなし、駒込、滝野川など周辺の農家が優良品種の採種と販売に大きく貢献していました。
  平成9年度JA東京グループ
  農業協同組合法施行五十周年記念事業」

 「一富士、二鷹、三茄子」
 「駒込は、一富士、二鷹、三茄子」の川柳があり、
 一富士は駒込富士神社、二鷹は徳川吉宗が駒込に置いていた鷹匠屋敷、三茄子は駒込ナスがあります。

  
 

<富士塚>

 富士塚は富士山信仰の富士講が人工の山を造り、富士山の溶岩「黒ボク」で固めた築山が主流です。
 一方、駒込富士神社はもともとあった塚(古墳とも言われている)を富士塚としています。
 

<石段>

 石段の両側には冨士講や「まとい」の絵や「九番組」「れ組」などの火消の碑が並んでいます。

    

     

     
 

<火難除神符授與>

 駒込富士神社は、火除けの札を出すため、各火消組による纏の紋章の石碑が多く建てられています。

  
 

<胎内洞穴/庚申塔>

 石段の右手に「胎内洞穴」があります。入口横に自然石の庚申塔。
 胎内には3基の庚申塔があるようですが、ロープが張られ近づけず確認できず。

 石段右手には、板碑型の庚申塔が建っています。
 造立年は寛永17(1640)年3月の造立。
 板碑中央「庚申待成就為後生善處也」

    
 

<安産神符授與塔>

 石段下左には弘化2(1845)年の安産神符塔
 「伊弉諾尊
  伊弉冉尊 安産神符授與」

 石段上左には弘化2(1845)年の安産神符授與塔

   
 

<女坂>

 社殿正面へ一気に上る直線の石段に対し、東側に回り込んで上る石段があります。
 女坂願主の碑があり、女坂と呼ばれているようです。

  
 

<小御嶽社>

 石段上段右手に、廿三夜講の小御嶽社の石碑があります。
 石段上の右手に富士講の小御嶽社があります。
 富士塚の五合目にある小御嶽社は一般的には石祠ですが、ここは鳥居のある祠です。

    
 

<曾我御霊社>

 女坂上がり場に、宝永8(1711)年に歌舞伎役者らが造立した曾我御霊社があります。
 仇討で有名な曽我兄弟を祀っています。
 その隣に明治44(1911)年に建てられた市村羽左衛門の修造碑があります。

 ・曽我社修造碑
  「明治四拾四年六月修造
   市村羽左衛門」

   
 

<室田景辰君記念碑>

 警視庁消防本部長などを務めた室田景辰の記念碑です。
 昭和8(1933)年12月の造立です。

   
 

<女坂願主の碑>

 女坂の石段を上がり、最後の7段の石段の手前左手に女坂願主の碑。
 文政6(1823)年5月の造立。
 「瀧(マルタキ) 女坂願主 惣同行」

    
 

<拝殿/本殿>

 拝殿前から二の鳥居を振り返ったところ。

  

 富士塚の山頂は小さな石祠が一般的ですが、ここは立派なコンクリート造の拝殿と本殿です。
 昭和36(1961)年の再建です。木花咲耶姫命を祀っています。

   

 女坂の踊り場から、拝殿・本殿の裏へぐるりと1周できます。

  
 

「江戸名所図会 富士浅間社」

 「当社昔は本郷加州候の後園にありしが寛永年中いまの地に遷さる」
 本社部分を拡大すると、女坂の階段と広場、本社への階段が見えます。

   
 

「江戸名所図会 六月朔日 冨士詣」

 「前夜より詣人多く甚賑へり 此日麥藁細工の蛇ならびに團扇 五色の網などを鬻ぐ」とあります。

 富士山の御祭神である木花咲耶姫命は、美人には嫉妬深く、美人がお参りすると雨を降らすといいます。
 傘を持って参詣している女性が、挿絵左手に赤子を負ぶったご婦人の連れの男性が傘をもっています。
 もう一人は一人で傘をもっています。右手に1人と人物が隠れて傘だけ描かれています。
 他の女性は傘は持っておらず、美人を自称する女性だけが傘を持っているのでしょうかね。

  
 

<麦藁細工の蛇>

 富士詣での土産として、人気を博したのが宝永年間に駒込の百姓喜八が広めた麦藁細工の蛇で、
 疫病の予防によいと評判でした。
 駒込の富士詣が発祥の麦藁細工の蛇ですが、各地の「お富士さん」の祭礼で売られるようになりました。
 団子を食べている男性が麦藁細工の蛇を肩にかついでいます。
 また、鳥居の下の男性も麦藁細工の蛇を肩にかついでいます。
 肩にかついで帰るのが通例だったようです。

   
 

<浮世絵に見る富士詣の傘と麦藁細工の蛇>

 「江戸自慢三十六興 鉄砲洲いなり富士詣」歌川広重

  富士の中腹に傘を差している人物が見えます。
  富士詣での帰りの女性は傘を持っています。
  少女は麦藁細工の蛇を手にしています。

    
 

 「東都名所年中行事 六月鉄砲洲ふじ詣」(広重)

  富士詣での帰りの女性は傘を持っています。
  少女が肩にかついているのも麦藁細工の蛇でしょう、蛇の目が2つ見えます。

   


歴史と文化の散歩道「富士神社とその周辺」 文京区本駒込5-7-20

 駒込富士神社の右手に「歴史と文化の散歩道」の掲示。
 「富士神社とその周辺」の説明があります。

    

   
 

<江戸切絵図 東都駒込辺絵図>

 説明板で紹介されている江戸切絵図の国会図書館蔵書からの抜粋です。
 駒込富士神社の周辺は「百姓地 植木屋多シ」と記されています。

   



富士浅間神社(本富士) 文京区本郷7-2-20

 春日通りに面して鎮座する富士浅間神社です。
 かつて「椿山」と呼ばれる小丘があり、「富士山」「富士塚」と呼ばれ、富士浅間神社が祀られていました。
 現在のこの位置ではなく、東大赤門を入った右側の辺りです。
 駒込富士神社は、この富士浅間神社から勧請されたと伝えられており、本富士とも呼ばれます。
 また、「本富士町」という町名の由来ともなっています。

 前田家が移転の際、懐徳館の庭の一部を割いた一角に祀られていた富士浅間神社は、
 町会に譲られ、今に至っています。

     
 

<富士浅間大神>

 表面「富士浅間大神」
 裏面「明治十四年六月一日 御用聞中 長家中」
 加賀藩上屋敷の南長屋があった場所に建てられた町家の住民たちが奉納したものと思われます。

     

(説明板)
「旧本富士町 (昭和40年ごろまでの町名)
 元和(1615〜24)のころ、この地は加賀藩主前田利常に賜った。その後加賀屋敷の東部は、富山・大聖寺両支藩の屋敷になった。
 明治4年、三邸とも文部省用地となった。後大部分が東京大学の校地になった。
 明治5年、町名を本富士町とした。駒込富士神社が元ここにあったからである。
   文京区」

  

(説明板)
「富士浅間神社
 かつてこの地は明治5年(1872)から昭和40年(1965)まで「本富士町」という町名であった。
 加賀藩本郷邸の跡地にたつ東京大学本郷キャンパスにおいて、その名残を今にとどめる赤門を入って右手に、かつて「椿山」と呼ばれる小丘があった。江戸時代、「椿山」は「富士山」「富士塚」などと呼ばれ、富士浅間神社が祀られていた。駒込富士神社(本駒込5-7-20)は、この本郷の富士浅間神社から勧請したという伝承を有し、そのことが「本富士町」という町名の由来ともなった。
 明治4年、本郷の富士山やその一帯は国に接収され、祀られていた富士浅間神社は旧加賀藩邸の南西一角に屋敷を構えた前田家の敷地内に移転した。前田家が昭和3年に駒場へ移転したのちは、地元の町会である本富士会(現在の本富士町会の前身)の管理下に移された。
 地域住民に守られるこの小さな社は、かつて本郷に「富士山」があったことを物語る唯一の場所である。
   文京区教育委員会  平成29年3月」

  


江岸寺 文京区本駒込2-26-15

 富士神社交差点の富士神社と反対側にあるのが江岸寺で、鳥居家の江戸菩提寺でした。

<江戸切絵図>

 江戸切絵図に現在と同じ場所に描かれています。

  
 

<江岸寺と鳥居家>

(説明板)
「江岸寺と鳥居家  本駒込二丁目26‐15
 曹洞宗江岸寺の開基は、鳥居忠政である。以後当寺は鳥居家の江戸の菩提寺となった。忠政の父元忠は、今川義元の人質となっていた家康に仕えた。人質解放後は、三方ヶ原の戦、長篠の合戦等で、家康に常に付き従い、輝かしい武功を立てた。天正18年(1590)家康関東入国の際は、下総矢作(現千葉県佐原市)4万石を拝領した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦では、家康から伏見城の留守番を命ぜられた。西軍に伏見城の明け渡し
を命じられた時、拒否し石田三成等の総攻撃を受けた。これが関ヶ原の戦の導火線となった。城を出て戦うこと五度、力つき討死し、城も落ちた。
 その子忠政は大坂の陣では、江戸城の留守居役を務め、その後、東北の押さえの地、山形22万石を与えられた。忠政は三河譜代の範たる先祖を祀るため、この寺院を建立した。現在忠政の供養塔が残っている。鳥居家はその後、六代忠英の時、下野国壬生4万石に移封された。
 鳥居氏の子孫、鳥居枕は壬生藩の江戸屋敷に生まれた。壬生藩の貢進生(藩の奨学生)として大学南校(東大の前身)に学んだ。卒業後、音楽取調掛(東京音楽学校の前身)伝習生として、アメリカ人の教師メーソンに洋楽を学んだ。
 東京音楽学校教授を勤めるかたわら、多くの作詩を手掛けた。中でも「箱根八里」は滝廉太郎の作曲で、多くの人々に愛唱されている。鳥居枕はここに眠っている。
  文京区教育委員会  平成16年3月」

    

     
 

<庚申塔と六地蔵>

 本堂脇の墓所入口に庚申塔と六地蔵が並んでいます。
 庚申塔の造立年は元禄11年(1698)6月。

    
 

<鳥居家之墓/鳥居忠政供養塔>

 墓地入口近くに「鳥居家之墓」、墓地奥突き当たりに「鳥居忠政供養塔」があります。

    
 

<原雲沢之墓>

 原雲沢は、江戸時代中期の儒者、医師。

   


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