吉原の遊女屋が火災に遭って全焼した場合、
期間を定めて吉原以外の場所で営業することを仮宅といいます。
楼主はいつ火事が起きても困らないよう、楼閣一軒分の材木を深川の木場に確保していて、
仮宅営業に入ると、建物の普請にかかります。
仮宅営業は繁盛し経費がかからず吉原遊郭での営業より利益を得ていました。
まさに焼け太りです。
「天保六年新吉原仮宅場所一覧」(歌川国直 台東区立図書館蔵)
天保6(1835)年の火災により新吉原遊廓は全焼し、本図は、花川戸町、山之宿町、山谷堀の仮宅の案内図です。
屋根の上に妓楼の規模が3つの記号で示され、楼主の名が記されています。
二天門(江戸時代は東照宮の随身門)から浅草神社へ向かいます。
<狛犬>
奉納:天保七丙年申三月(1836年)「田町文三郎」「山川町大工虎五郎」
石工:「象潟町大岩」
奉納者の所在地の田町(田地だった)と山川町(南に待乳山、北に山谷掘あるを以て此名あり)は、
両町とも山谷堀に面し、吉原の発展とともに形成された町です。
(田町については、こちらで解説済)
江戸では火事が頻繁に起きたため、大工はその再建で大きな利益を得ていました。
吉原が焼失し仮宅営業した回数は23回にも及び、異常と思える頻度です。
立派な狛犬奉納の前年にも吉原は全焼しています。
この狛犬より大きな、そっくりの狛犬がやっちゃ場の河原稲荷神社にいます。