現社殿は昭和43年に造営されたものです。
<5つの稲荷社>
新吉原には5つの稲荷社が存在しました。
大門の手前に「玄徳稲荷社(吉徳稲荷社)」
廓内の4隅に「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」が祀られていました。
・明治5年 5つの稲荷社を合祀、総称して吉原神社と名付けられ、玄徳稲荷社旧地に祀られました。
・関東大震災 焼失、震災後は水道尻付近の仮社殿にてお祀り。
・昭和9年 現在地へ新社殿を造営。
・昭和20年 東京大空襲で焼失。
・昭和43年 現社殿造営。
<奉納者>
奉納者を見ると、昔の町名で、町会は名前が残っています。
浅草出身で大正から昭和にかけて活躍した俳人・作家の久保田万太郎の句碑があります。
「この里に おぼろふたたび 濃きならむ 万」
<逢初桜>
吉原大門手前の右手に吉徳稲荷、稲生の手前に駒止松、その手前に逢初桜、
吉原大門手前の左手の逢初桜の対面に見返り柳が描かれています。
<吉原今昔図>
吉原今昔図として、貴重な資料が掲示されています。
吉原カフェ建築探訪で、旧屋号を確認するのに重宝しました。
明治27年、大正12年、昭和20年、昭和33年、現在と、個々の店舗が記録されています。
<銭湯が2カ所あった>
色々な店があって、興味深いです。
たとえば銭湯が「松の湯」と「櫻湯」の2カ所ありました。
遊郭内ですべての用事が済んでしまう感じです。
<寄進>
寄進者をみていくと「大文字楼 波木井長」「角海老楼 遠藤はつ」「三浦屋 高野治吉」等々。
<燈籠寄進など>
蔦福の寄進「燈明碑」や、稲本楼と大文字楼の寄進による「燈籠(奉 稲本楼 大文字楼)」があります。
<蛇塚>
昔、塚(古墳)だったことを示す「蛇塚」があります。
塚だったところに、吉原弁財天があります。
<新吉原花園池(弁天池)跡> 台東区千束3-22
(説明板)
「新吉原花園池(弁天池)跡 台東区千束三丁目二二番
江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦三年(一六五七)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和三十三年までの三○○年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参詣者が訪れている。
池は、花園池・弁天池の名で呼ばれていたが、大正一二年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、四九○人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の筑山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正一五年に造立されたものである。昭和三四年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。
平成十年三月 台東区教育委員会」
<吉原弁財天本宮社殿> 台東区千束3-22-3
吉原弁財天の本宮です。
平成24年に有志の方々によって改修工事が行われ、
壁一面には東京芸術大学等の学生等による壁画が描かれました。
<吉原観音>
前掲案内板。
<花吉原名残碑>
吉原遊郭の歴史を永く止めようと昭和35年に地域有志の皆様によって建立された石碑。
碑文は共立大学教授で俳人の山路閑古氏の撰。
(説明板)
「花吉原名残碑 台東区千束三丁目二十二番 吉原弁財天
吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊里で、元和三年(一六一七)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
明暦三年(一六五七)の大火を契機に、幕府による吉原遊廓の郊外移転が実行され同年八月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊廓を「元吉原」という。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年売春防止法の成立によって廃止された。
その名残を記す当碑は、昭和三十五年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。
昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
平成十七年三月 台東区教育委員会」
(碑文)
「花吉原名残碑
二神出世この方 男女相聞の道開け 日本国は常世の春となれり 中の頃江戸の初世に庄司甚右衛門といへる人あり 府内に一廓の遊所を開き 名づけて元吉原といふ 明暦三年故ありて廓この地に移り 名も新吉原と改む 爾来年と共に繁榮しやがて江戸文化の淵叢となれり 名妓妍を競ひ万客粹を争ひ 世俗いふ吉原を知らざるものは人に非ずと 開基以来火災を蒙ること十数度 震災又戦禍を受くるとも微動だもせざりし北国の堅城も 昭和三十三年四月一日売春防止法の完全施行を期として 僅か一夜にして消滅し了んぬ 人為の天工を亡ぼす何ぞ甚しきや 二万七百余坪の旧地悉く分散して 辛くも瓢池一半を殘すのみ 有志等この池畔に一基の碑を建つるは 麗人吉原が悲しき墓標の營みなりけりと云爾。
昭和三十五年五月二十一日
白面青客 山路閑古 撰並書」
「花吉原名残碑」の右に、元吉原の創設者である初代惣名主庄司甚右衛門の碑があります。
漢文で刻まれています。
<句碑(詳細不明)>
「この廓や月花雪も三菩薩」
<智栄歌碑>
「白菊のはなにひまなくおく露は なき人しのふなみたなりけり 智榮 龜雲年鐫」
(白菊能者奈に比未なく於く露ハなき人しのぶ奈み多なり希利 智榮)原文なのかな?
裏面には「吉原三業組合役員」の名前と、昭和六年十二月と刻まれています。
<石碑「信州善光寺大本願大宮智榮上人御手植公孫樹」>
昭和六年十二月と刻まれていますが、裏面には、昭和三十年七月再建とあります。
横の木が信州善光寺の智栄上人お手植えのイチョウでしょう(当初のイチョウかどうかは不明)
※ 洲崎遊郭では、昭和6年11月に信州善光寺、智栄上人を招いて法要を行い、
同じ内容の歌碑を洲崎三業組合が建てています。
マイナーな稲荷神社です。