白鬚橋西詰に、「あらかわの史跡・文化財」の説明板「對鴎荘跡」「橋場の渡し」が2つ並んでいます。
石浜城址公園に荒川区説明板「石浜神社と隅田の渡し」があります。
石浜神社に荒川区説明板「石浜城址」があります。
<對鴎荘跡> 荒川区南千住3丁目(白鬚橋西詰)
對鴎荘は、現在の荒川区と台東区にまたがっていたので、台東区側にも説明板があります。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
對鴎荘跡
對鴎荘は白鬚橋西詰の地に明治六年(一八七三)、明治の元勲三条実美の別邸として建築された。
いしがしき つとめのひまを
ぬすみ来て 橋場の里の
月をみるかな
三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛して詠んだ歌である。
橋場の地はその歴史も古く、明治初年にいたるまで、閑静な土地であった。この河岸から見渡す向島一帯は、うっそうとした樹木の前面に土手の桜並木が見えて、
情緒豊かな風景を楽しむことができたのである。 荒川区教育委員会」
<橋場の渡し> 荒川区南千住3丁目白鬚橋西詰
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
これより東へ約二十メートル
橋場の渡し
対岸の墨田区寺島とを結ぶ約百六十メートルの渡しで、「白鬚の渡し」といわれていた。
『江戸名所図会』によると、 古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、
はっきりしていない。
大正三年(一九一四)に白鬚木橋がかけられるまで、多くの人に利用された。
荒川区教育委員会」
<石浜神社と隅田の渡し> 石浜城址公園 荒川区区南千住3-28-67
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
石浜神社と隅田の渡し
ここより北方に石浜神社がある。石浜神社は聖武天皇の神亀元年(七二四)に創祀され、中世においては千葉氏などの崇敬を集めて大いに栄えたと伝えられている。また朝日神明宮とも称し、伊勢詣でのかわりに参詣する人々が絶えなかったという。
隅田の渡しは、平安時代の編纂物の『類聚三代格』や、歌物語である『伊勢物語』にも記されている渡しで、この辺りは古くから交通の要衝の地として賑いをみせていた。
石浜神社境内には、隅田の渡しを背景にした歴史と光景を偲ばせる「伊勢物語の歌碑」や「亀田鵬斎の詩碑」(区指定文化財)が残る。 荒川区教育委員会」
<石浜城址> 荒川区南千住3-28-58(石浜神社前)
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
石浜城址(石浜神社)
石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(一五七三〜一五九一)城主千葉胤村(北條氏繁三男)を最後に、後北條氏滅亡の後、廃城となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は、有力な推定地の一つとされる。
石浜神社は、聖武天皇の時代、神亀元年(七二四)の創建と伝える古社で、源頼朝・千葉氏・宇都宮氏らの崇敬を受けたという。江戸時代の夏越の祓(六月三十日)は、その壮麗さにおいて名高く、天保九年(一八三八)刊行の「東都歳事記」の挿絵に夏の風物詩として紹介されている。 荒川教育委員会」
「江戸名所図会 思河 橋場渡」
石浜神明宮の挿絵からの続きで、「この所すみだ河のわたし場」が左下に描かれています。
左手に「船番所」「茶ヤ」とあります。
「江戸名所図会 角田河渡」
「名にしおわば いざこと問ん 都鳥 我思ふひとは ありやなしやと 在原業平」とあります。
「東都旧跡尽 隅田川都鳥の故事」(広重)
広重が隅田川都鳥の故事を描いています。
「絵本江戸土産 橋場の渡シ」(広重)
「橋場の渡シ」を描いています。
「名所江戸百景 墨田河橋場の渡かわら竈」(広重)
橋場の渡しが描かれ、瓦窯から煙りが上がっています。
「隅田川八景橋場暮雪」(広重)
橋場の雪は名所でした。
「江戸自慢三十六興 橋場雪中」(広重、豊国)
雪の舞う景色が描かれています。
「橋場の夕暮」(小林清親)
「東京橋場渡黄昏景」(小林清親)
「東京名所 橋場ノ渡シ」(井上探景(井上安治))
神亀元(724)年、聖武天皇の命によって創建されたと伝えられます。
源頼朝・千葉氏・宇都宮氏らの崇拝を受けたと言われます。
<荒川区文化財>
・石浜神社鳥居(寛延2年銘)
・石浜神社鳥居(安永8年銘)
・麁香神社関係資料
・手水鉢(元禄元年12月銘)
・伊勢物語の歌碑
・亀田鵬斎の詩碑
・庚申塔3基(貞享3年5月銘他)
・富士塚
「江戸名所図会 石浜神明宮 隅田川西岸」
江戸時代八代将軍吉宗の頃、観光と神仏詣を兼ねた行楽が盛んになりました。
江戸名所図会に石浜神明宮が紹介されています。
<神人和楽>
玉姫稲荷・三囲稲荷・合力稲荷・袖摺稲荷・真先稲荷・九郎助稲荷社を詠みこんだ歌が刻まれています。
<源頼朝の歌>
「源頼朝、藤原泰衡征討の折当社に武運を祈り社頭に詠む」
「神風や 伊勢乃内外の大かみを むさし野のここに 宮戸川かな」
<第一鳥居>
安永8(1780)年、建立。
<第二鳥居>
寛延2(1749)年、建立。
<狛犬>
<祟神碑>
<麁香神社関係資料>
<日本大工祖神>
安政4年3月建立。
<建麁香神祠記>
<方位石>
<除災招福 神楽獅子>
<富士塚>
左から「招来稲荷神社」「白狐祠」「富士遙拝所」「富士講関係石造物群標柱」。
<招来稲荷神社>
真先稲荷神社が一橋徳川家の祈願所となって庶民の出入りが禁止されたため、
奥宮として祀られたのが招来稲荷神社です。
「おいでいなり」と読みます。
狐穴の前に油揚をお供えし、「おいで、おいで」と白狐を呼び、
これを食べれば、願いが叶うという逸話が残されています。
「招来(おいで)稲荷」の名称はそこから来ています。
向島の三囲神社の狐とともに有名であったといいます。
<白狐祠>
白狐祠には、白狐尊像(明和5(1768))が祀られています。
<富士遙拝所>
宝暦8(1758)年の建立
<庚申塔>
富士遙拝所の両脇に庚申塔があります。
<山頂の碑>
「直正 天地の照る日のもとはあしわらや三五九一の光ならむ」
<亀田鵬斎の詩碑>
富士塚の向かいに、石碑と力石が並んでいます。
標柱の左が道標、右が亀田鵬斎の詩碑、さらに右に都鳥の碑、石浜渡津跡石碑、不明の碑です。
<都鳥歌碑>
業平の『伊勢物語、東下り』の一節が記されています。
文化2(1805)年の建立。
「名にし負はば いさこととはん 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」
歌碑の下には、舟が描かれています。
<石浜渡津跡石碑>
<不明の碑>
<道標>
地名と距離が刻まれています。
「さんや町 三丁
よし原町 八丁
千住大はし 十五丁
(指印)
いしはわたし 真先いなり」
明治17年4月と刻まれています。
橋場の渡しより北の隅田川西岸が真崎で、
真崎稲荷神社(真先稲荷神社)、石浜神明宮(石浜神社)がありました。
隅田川の眺望を楽しむ場所としても知られ、対岸「水神の森」と向かい合う形で描かれた錦絵が多いです。
真先稲荷は、天文年間(1532-1554)石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝えられています。
大正15(1926)年、石浜神社に併合されました。
石浜神社の境内社が左から、
江戸神社、北野神社、妙義八幡神社、寿老神、宝得大黒天、真先稲荷神社と並んでいます。
「真先稲荷神社由縁」が境内社殿の左壁に掲示されています。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
真先稲荷稲荷と田楽茶屋
真先(崎)稲荷は、天文年間(一五三二?五四)、石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝える。もと隅田川沿岸にあり、その門前は景勝地として知られていた。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は、対岸の三囲稲荷の狐と並んで有名であったという。
江戸中期から参詣する人が多くなり、宝暦七年(一七五七)ころには、吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋がたち並んで、大いに繁昌した。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの信者なり」など、当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。
荒川区教育委員会」
<真先稲荷社由縁>
<明和4年8月奉納の灯篭>
一対の燈籠です。新吉原からの奉納です。
「江戸名所図会 真崎稲荷祠部分抜粋」
「江戸名所図会 石浜神明宮 隅田川西岸」の真崎稲荷祠部分を抜粋拡大です。
「東都歳事記 真先神明宮夏越祓」天保9年
6月30日に「夏越しの祓」、12月31日に「年越しの祓」が行われます。
夏の行事は、この地は景勝地でもあり、隅田川船遊びと相まって、多くの人で賑わったようです。
左は境内掲示より抜粋、右は国会図書館蔵より抜粋。
「絵本隅田川両岸一覧」(北斎)
北斎「絵本隅田川両岸一覧」から、真崎稲荷部分の抜粋です。
<田楽茶屋>
「真崎稲荷の境内に、8軒並んで田楽茶屋がありました。
「甲子屋」という店が評判で、『南総里見八犬伝』で有名な戯作者、
滝沢馬琴もこの店の田楽をひいきにしていたようです。」
「吉原には、名物ともなっていた山屋という豆腐屋がありました。」
(以上、日本豆腐協会>豆腐の歴史より引用)
浮世絵(以下)に田楽茶屋が描かれています。
「銀世界東十二景 真崎の大雪」(広重)
「紅毛油画名所尽 真崎」(初代歌川国貞)
「江戸高名会亭尽 隅田川橋場渡之図 柳屋」(広重)
「東都 高名会席尽 墨田川真崎 惣ろく」(広重,豊国 嘉永6(1853)年)
広重と豊国の合作「東都 高名会席尽」。
茶屋「甲子屋」と甲子の日の大黒講とをかけて、新吉原の妓楼大黒屋の主人惣六が配置されています。