日比谷公園は江戸城の石垣や枡形門の石の展示博物館みたいなところです。
8つの上屋敷と御用屋敷があった場所です。
○ 日比谷見附跡
○ 市ヶ谷門烏帽子石(几号水準点)
○ 牛込門亀石(几号水準点)
○ 門柱(江戸城の枡形門石)
○ 江戸水道の石枡
○ 芝増上寺霊廟御成門前の石橋
○ 上屋敷と御用屋敷
○ 伊達政宗終焉の地
■日比谷公園−歴史探索遍−
日比谷公園は内外からの寄贈品が多く展示されていて魅力は尽きない。
南極の石があったり、ムッソリーニ首相からの寄贈品があったり。
モニュメントのオンパレードです。
石垣土塁は、江戸城の日比谷見附の名残りで、公園設計に巧みに取り入れられています。
心字池も当時のお堀を活かしたもの。
・日比谷公園ニュース(2012年3月26日号)日比谷公園サービスセンター。
「日比谷見附の石垣の側面に実生の木3本が大きく育ち、石垣を崩壊させる恐れが出てきたことから
平成19年3月にムクノキ一本、23年3月にイチョウ一本、平成24年2月に最後に残ったケヤキ一本が
伐採処理されました。
困難な作業で、チェーンソーの刃を何度も替えざるを得ないものでした。
幹の中に折れたスプーンや石、ガラスなどを巻き込んでいたためです。」(適宜省略した)
<石垣の石>
江戸城外堀の石垣の石が雑然と放置されています。
刻印の刻まれた石、矢穴のある石がゴロゴロあります。
讃岐生駒守の家紋の刻印(三笠山)の石もありました。
江戸城見附の石を利用した腰掛石が園内各所にあります
「この石は、江戸時代、江戸城外郭市ヶ谷御門の石垣の中にあったもので、
形が烏帽子(えぼし)(昔、元服した男子のかぶりものの一種)に似ていたため、
人々から烏帽子石と呼ばれて珍重されていたものです。
明治時代、道路拡張に伴い石塁が取り壊された際、
永く保存するためこの日比谷公園に移されました。」
几号水準点が刻印されています。
心字池沿にあります。
石に刻まれた「不」の文字が、几号水準点。
文字は地面に垂直にたっているのが本来であり、
富士見町の牛込門の枡形石垣からここに持ち込まれた時に石は寝かされたのでしょう。
開園時の門は、日比谷門、有楽門、桜門、霞門、西幸門、幸門
後年設置の門は、中幸門、新幸門、祝田門。
<日比谷門>
合計4本の門柱(左の小さい門柱は、台座だけ残る)があります。
照明あり。
門柱には「以赤阪門及四谷門舊礎建設之」と刻まれています。
焼けているようですが、はっきりと読みとれます。
日比谷公園開園当時の写真を見ると、2対の門となっています。
<有楽門>
有楽門は日比谷見附の枡形門の石です。
「以日比谷門舊礎建造明治三十五年五月」と刻まれています。
照明あり。
<桜門>
「以鍛冶橋門及数寄屋橋門舊礎建造明治三十五年六月」
門柱が大小二基づつあります。照明なし。
<祝田門>
「建造昭和五十九年三月」一番新しい門です。
日比谷公園の北西部整備事業で新たに昭和59年3月に設けられた門です。
門柱の上に照明があります。
<霞門>
大小二基づつの門柱があります。照明あり。
「以数寄屋橋門及幸橋門奮礎建造」
「明治三十五年六月」
古い鉄柵がここだけ残っています。
<西幸門>
大きな門柱が1対ありますが、この他、台座が1対残っています。
照明なし。
残っている台座の上の当初の門はどこにいったのでしょうね。
<中幸門>
「以幸橋門奮礎建造明治三十五年六月」
後年設置された門なのに幸橋門の石使用と刻まれています。
照明なし。
他の門で使用されていたものがここに使われたと考えます。
元々西幸門の台座にあったものか、幸門にあったものがここに据えられたものと思われます。、
西幸門は台座のみ残っているので、幸門にあったものが台座ごと、こちらに運ばれ据えられたのかも。
<幸門>
当初からの門です。門柱と柱の2対あります。刻みは何もなし。
照明あり。
単なる柱のほうには鉄柵の跡がありますが、旧見附門の石には見えません。
当初の見附の橋石はどこにいったのでしょうね。
<新幸門>
ブロック造りの門と、台座のある柱の2対あります。刻みは何もなし。
台座のある柱には鉄柵の跡があります。照明あります。
<歩道橋門>
案内図に歩道橋門との記載がありました。
<名前のない門>
祝田門から1つめ、2つめ、3つめ、、、
新幸門のとなり、駐車場のところ。
江戸時代、木管の上水道の樋と樋をつなぐのが石枡で、水位を上げたり、流れを方向転換しました。
石枡を3カ所確認しました。
・日比谷門入ってすぐのところ 説明板があります。
(説明板)
「石桝
これは江戸時代の上水道木管の石桝です。園内の数ヶ所にこれと同じものがあります。
巨石を四角にくり抜くいた豪荘なつくりで、内側にその所在地を刻んだものもあります。
この桝は、江戸市内大通りのところどころに設けられ、ここから大名邸などに導水されていました。」
・第二花壇日比谷通り側 説明板なし。
・日比谷図書館前 石枡は植木鉢みたいになっています。
○正体不詳の石
(説明板)
「石橋
この石橋は、芝増上寺霊廟の旧御成門前桜川にかけてあった石橋の一つで、市区改正(現在の都市計画事業)の道路構築の時、ここに移したと伝えられています。
素朴なうちにも力強く、江戸時代の彫りの深さを漂わせています。」
日比谷公園は8つの藩の上屋敷と幕府の御用屋敷がありました。
幕末の時点では、北側には御用屋敷・萩藩毛利家・佐賀藩鍋島家。
南側には三草藩丹羽家・吹上藩有馬家・福知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩北条家の
各上屋敷が存在しました。
(北東に中屋敷が土佐藩山内家、徳島藩蜂須賀家)
<上屋敷配置>
江戸切絵図と現地案内板の上屋敷の配置です。上屋敷には家紋が入っています。
中屋敷、下屋敷には家紋の記載はありません。
毛利家の当主は「松平大膳大夫様」と呼ばれたので、そのように記されています。
<桜田御用屋敷>
江戸切絵図に記載されている御用屋敷。
ペリカン噴水のところに御用屋敷がありました。比丘尼屋敷とも呼ばれていました。
将軍が逝去すると、側室は大奥から桜田御用屋敷に移されました。
江戸切絵図から日比谷公園部分を抜粋、帝国ホテル前案内板より抜粋
「名所江戸百景 山下町日比谷外さくら田」(広重)
山下御門外の山下町(泰明小学校のあたり)から、日比谷公園にあった佐賀藩鍋島家の上屋敷を描いています。
赤い門は将軍家から姫君が嫁いだことを表し、十一代将軍・徳川家斉の第十八女・盛姫が嫁いでいます。
「江戸勝景 山下御門之内」(広重)
佐賀藩鍋島家上屋敷です。
仙台藩外桜田上屋敷跡に仙台市の説明板「伊達政宗終焉の地」が建っています。
東京都ではなく、仙台市の説明板であることも珍しいでしょう。
伊達政宗は、江戸城の目と鼻の先にお住まいだったのですね。
政宗の時代には、徳川家康が3度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ各4度ここを訪れています。
寛永13(1636)年にここで亡くなった伊達政宗の遺骸は、仙台の経ヶ峯に埋葬され瑞鳳殿が建てられています。
政宗が亡くなった際には15人が殉死しました。殉死の理由は、衆道(武士の男色)にあります。
将軍家光は殉死者が出ないように命じていましたが、最終的には許可しています。
(説明板)
「仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地
ここは、仙台藩祖伊達政宗から三代綱宗の時代、仙台藩の外桜田上屋敷があったところである。慶長六年(1601年)、政宗は徳川家康より江戸屋敷を与えられ、外桜田の屋敷は寛文元年(1661年)まで上屋敷として使用された。その敷地は、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷堀沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたものと推定される。政宗の時代には、徳川家康が三度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ各四度ここを訪れ、もてなしを受けたことが記録に残っている。
政宗は江戸参勤の折、寛永十三年(1636年)五月、ここで七十年の生涯を閉じた。
仙台市」