江戸史蹟を散歩するに当たって、大いに参考にさせてもらっているのが「江戸名所図会」です。
作者の居宅跡と墓の訪問です。
【神田司町】
○ 斎藤月岑居宅跡(生誕の地)
○ 町名由来板「神田司町二丁目」
【東上野】
○ 斎藤長秋三代の墓(法善寺)
【烏山寺町】
○ 長谷川雪旦・雪堤墓(幸龍寺)
○ 喜多川歌麿墓(専光寺)
【版元】
○ 須原屋茂兵衛 別頁
淡路町の交差点から外堀通りを南に160m進むと、
歩道に斉藤月岑の記念碑(平成16(2004)年11月除幕)があります。
(説明板)
「斎藤月岑居宅跡
斎藤月岑は文化元年(一八〇四)にこの地(神田司町二丁目)で生まれた。斎藤家は代々神田の雉子町・三河町三丁目・同裏町・三河町四丁目・同裏町・四軒町の六ヶ町を支配する名主であった。十五歳にして家督を継ぎ、九代目・市左衛門と称し、実名を幸成といった。祖父幸雄・父幸孝が手がけた大著『江戸名所図会』を完成させたほか、『東都歳事記』『武江年表』など、今日、江戸の町人文化を研究する上で欠くことのできない多くの著作を残している。江戸を代表する文化人であり、神田の誇りである。明治十一年(一八七八)三月六日永眠。行年七十五歳。累代の墓所は東上野の法善寺にある。
平成十六年十一月吉日
月岑翁生誕二百年を記念して
斎藤月岑顕彰碑を建設する会
----この碑に使用した石は、旧江戸城外堀跡の石垣の一部である。」
現行行政地名は神田司町二丁目は存在しますが、過去の経緯から神田司町一丁目は存在していません。
神田司町二丁目の町名由来板です。
(説明板)
「千代田区町名由来板 神田司町二丁目
かつてこの界隈は、おもに商人や職人が住む町として発展してきました。
江戸時代、現在の神田司町二丁目にあたるこの地域には、佐柄木町、新銀町、雉子町、関口町、三河町三丁目、三河町四丁目などがありました。
このうち雉子町には、『江戸名所図会』を親子三代にわたって完成させたことや、『東都歳事記』『武江年表』などで有名な、斎藤月岑が住んでいました。斎藤家は代々、雉子町ほか五ヶ町の名主をつとめていました。
明治五年(1872)、これらの町はそれぞれ正式な町名となりますが、昭和初期の区画整理の際にひとつに統合されることになります。新しい町名の命名は、江戸の総鎮守として親しまれる神田神社の平田盛胤宮司に依頼され、「司」が縁起のよい文字であることから「司町」と名付けられました。こうして司町二丁目は一丁目とともに誕生したのです。昭和十年(1935)のことでした。
昭和二十二年(1947)、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、司町二丁目は神田司町二丁目となります。その後、住居表示の実施により神田司町一丁目は内神田一丁目〜二丁目の一部になりましたが、神田司町二丁目の町名は現在も引き継がれ、永く人々に親しまれています。 司町二丁目町会」
池のコイの大きさに圧倒されました。
<斎藤長秋三代の墓>
「江戸名所図会」は、幸雄(号・長秋)、幸孝(号・縣麻呂)、幸成(号・月岑)の三代の作です。
月岑の作に「東都歳事記」「武江年表」があります。
斎藤家の墓は、墓地のつきあたりの塀際にあります。
月岑は明治11年に亡くなっています。
幸雄と幸孝の名前は確認できますが、幸成の名前は確認できませんでした。
(説明板)
「斎藤長秋三代の墓(都指定旧跡) 東上野六丁目十七番三号 法善寺
齋藤家は美濃国の出身といわれ、家康入府の時から江戸神田に住んで、雉子町の草分け名主として六ヶ町を支配した。また、神田果物市場を監督して野菜上納のことを掌っていた。代々市左衛門と称した。
齋藤長秋(幸雄)とその子縣麿呂(幸孝)その孫月岑(幸成)は、三代にわたって、江戸の地誌を調べ、『江戸名所図会』を完成させた。
『江戸名所図会』七巻二十冊は、江戸の風俗・行事・名所等を、絵入りで解説したもので、前編が天保五年(一八三四)年に、後編が同七年に出版され、挿絵は長谷川雪旦・雪堤父子の手による。文・絵ともに実地踏査に基いており、江戸の都市景観を知る上で貴重な史料である。
月岑は江戸年中行事を『東都歳事記』、江戸関係事項を『武江年表』と題し、出版した。いずれも江戸研究者必読の書である。
平成七年三月 台東区教育委員会」
<中山理賢胸像>
幸龍寺は、浅草田甫と呼ばれた現在の浅草ビューホテルの辺りにあったことから田甫の幸龍寺の通称があります。
(説明板)
「日蓮宗 妙祐山 幸龍寺
幸龍寺の創建は、天正七年(一五七九)徳川家康が浜松城主の時、正心院殿日幸(秀忠の乳母)の願いにより、玄龍院殿日しゅんを招いて城下の半頭町に伽藍を整え、祈願所として開山されたことにはじまると伝えられています。
のちに家康が駿府へ移ると寺も移転、更に天正十八年(一五九○)家康の関東入国の翌年、神田湯島三丁目に移りました。
二代将軍秀忠は正室常源院殿懐妊に際し安産を祈願、無事に世嗣・家光が誕生すると、鬼子母神像などを寺へ奉納しました。つづく家光は、浅草に約八千坪の土地を寄進し寺は神田湯島から移転しました。
五代将軍綱吉は、さらに二千五百坪の境内地を寄進し、三代将軍家光の側室・順正院殿(六代家宣祖母)の廟所を設け、幸龍寺は徳川家の香華院の列に加わり、日蓮門下江戸五山の一つに数えられるほど隆盛しました。
大正十二年(一九二三)の関東大震災で多くの堂宇が罹災したため、昭和二年(一九二七)より現在地に移転を開始し、今に至っています。
墓域には順正院殿墓、旧唐津藩主小笠原家累代墓所、「江戸名所図会」の挿絵師・長谷川雪旦、雪提父子の墓、江戸後期の随筆「嬉遊笑覧」の著者・喜多村いん庭などの墓があります。
平成三十年三月 世田谷区教育委員会」
<長谷川雪旦/雪堤墓>
「江戸名所図会」の挿絵師・長谷川雪旦、雪提父子の墓があります。
雪旦は「東都歳事記」も著しています。
<長谷川雪旦>
江戸名所図会で、長谷川雪旦自身が描かれているらしい挿絵です。
<喜多村いん庭墓>
「嬉遊笑覧」の著者・喜多村いん庭の墓があるはずです。
喜多村家の墓があり、ここかな?と推定するも、よくわかりません。
<清正公堂>
山門入って右手に加藤清正公を祀る清正公堂があります。
手水鉢には紋が2つ。
奉納者を確認したら、何と新吉原奉納です。
「清正大神祇二百五十遠忌 万治元年」
3個の「さざれ石」が置かれています。
説明板には「昭和五十三年八月吉日」とあり、各地に寄贈された「さざれ石」の中でも比較的早い時期の奉納です。
<旧唐津藩主・小笠原家累代墓所>
小笠原長行の子長生(1867-1958)が、小笠原家家督を継ぎ、
長生によって小笠原家の墓が建てられました。
<力士本町東助碑>
「明治廿五年六月建立 力士本町東助碑 清隆謹書」
<亀趺>
立派な亀趺です。耳があり、牙があり、亀と見誤らない贔屓らしい贔屓です。
<庚申塔>
<その他>
<順性院供養塔>
順性院(家光側室)元和8(1622)年〜天和3年7月29日(1683年9月19日)
順性院は幸龍寺に埋葬、昭和5年に谷中霊園内寛永寺墓地(第一墓地)に改葬、
平成19年10月に寛永寺(常憲院霊廟)に改葬されています。
順性院の墓碑が幸龍寺に残されいます。
「順性院殿妙喜日圓大姉」、天和3年7月29日と刻まれています。
烏山寺町の幸龍寺に来たので、ついでに専光寺の喜多川歌麿墓に寄りました。
(説明板)
「東京都指定旧跡
喜多川歌麿墓
所在地 世田谷区北烏山四の二八の一
専光寺墓地内
指 定 昭和三一年三月三日
喜多川歌麿(一七五三?〜一八○六)は、江戸時代中期の浮世絵師で、浮世絵喜多川派の祖とされています。出生地については、いくつか説があり、出生年も定かではありません。大首絵と呼ばれる美人画で、当時人気を得ました。歌麿の作品は、天明・寛政期の浮世絵版画の黄金期を築きました。また、歌麿の作品は、フランス印象派の画家たちに強い影響を与えたことでも有名です。文化元年(一八○四)に「太閤五妻遊」を描き、入牢に処せられました。文化三年(一八○六)に亡くなり、浅草専光寺に葬られましたが、関東大震災後の区画整理により、昭和三年(一九二八)に現在の場所に墓が移転されました。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」