Discover 江戸史蹟散歩
 
 梅若塚 梅若公園/満蔵寺

  ○ 梅若塚 梅若公園
  ○ 梅若塚 満蔵寺

   ※梅若塚は、墨田区と埼玉県春日部市にあります。
 
 榎本武揚

  ○ 銅像榎本武揚像
  ○ 榎本武揚旧居跡
  ○ 榎本武揚夫妻の墓
  ○ 榎本武揚追弔碑(円通寺)
  ○ 榎本武揚一族之墓(保元寺)


梅若公園 墨田区堤通2-6-10

 墨堤通り沿いに、梅若公園があります。

    

梅若塚>

 梅若塚があった元の場所です。
 展示が工夫されていて、梅若山王権現堂が立地しているように見ることができます。

    

     

<梅若塚説明プレート>

 梅若塚の手前右手にある説明プレートです。

(説明プレート)
「梅若塚
 梅若塚は、謡曲「隅田川」で知られる「梅若伝説」に登場する伝説上の人物である梅若丸の墓であると伝えられます。
 梅若丸は、京都北白川の「吉田少将これふさ」と美濃野上の長者の一人娘「花御せん」の子で、父の死後、7歳で比叡山に入り修行に励みます。梅若丸の秀でた才能は評判になりますが、松若丸という同じく優秀な同輩との争いが原因で、みちのくの人商人(人買い)、信夫の藤太にかどわかされてしまいます。
 奥州に連れて行かれる途中、なれない長旅の疲労により重い病にかかり、藤太は梅若丸を隅田川のほとりに置き去りにしてしまいます。里人たちの看病もむなしく、「たづね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはらの 露と消えぬと」という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。」

  

<梅若塚と木母寺/梅若塚と妙亀塚/梅若権現御縁起/隅田川物>

(説明プレート)
「梅若塚と木母寺」
 木母寺は梅若塚の傍らに建てられた草庵が梅若寺と呼ばれるようになったのが始まりとされます。その後「梅」の字を分けて「木母」となったと言われます。
 木母寺は当該地周辺にありましたが、白髪東地区防災拠点建設に伴い、現存する梅若堂、梅若塚と共に現在の場所に移転しています。

「梅若塚と妙亀塚」
 妙亀塚(都指定旧跡)は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求めこの地まで来た母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩堤を弔うために庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅か原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園(台東区橋場) 内にあります。

「梅若権現御縁起
「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現御縁起 附 漆箱二匣」(墨田区指定有形文化財)があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が、延宝7年(1679)3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起物です。
 原本は保存のため非公開ですが、すみだ郷土資料館で複製を所蔵しており、展示されています。

「隅田川物」
 謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。
「隅田川物」とは、この梅若伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで様々な作品が生まれました。」

    

<明治期の木母寺境内>

 梅若塚の左手後方にある説明プレートです。

(説明プレート)
「明治期の木母寺境内
 江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりをうけ木母寺は荒廃し梅若神社となりました。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々な人の支援を受け、明治22年(1889)に寺院への復帰を果たしました。
 現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に焼失を免れたものです。
 「木母寺境内之図」は、梅若堂が当地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。
 画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、梅若堂を中心とした木母寺境内の様子が描かれた一枚です。」

   

<東京都指定旧跡 梅若塚>

 梅若塚手前左手にある東京都の説明板です。

(説明板)
「東京都指定旧跡
 梅若塚
   所在地 墨田区二の六 区立梅若公園
   標 識 大正九年三月
   指 定 昭和三○年三月二八日
 梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。
 木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた隅田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚防災団地建設に伴い現在地に移転しています。
  平成二四年三月 建設  東京都教育委員会」

  


銅像榎本武揚像 墨田区登録有形文化財

「榎本武揚肖像」
 天保7年8月25日(1836年10月5日)〜明治41(1908)年10月26日)

    近世名士写真頒布会より抜粋    近代日本人の肖像(国立国会図書館)
    

「函館戦争」(実写奠都五十年史 大正6年)

 写真左「松平定敬」、写真右「榎本武揚」、写真下「軍艦開陽丸」

  

<銅像榎本武揚像>

 大正2年5月に木母寺境内に建立、木母寺と梅若塚は移転しましたが、榎本武揚像はここに残っています。
 墨堤通りに平行して立ち、南の皇居方面を望んでいるようです。

    

「墨田区登録有形文化財
 銅像榎本武揚像
「榎本武揚」
 榎本武揚は天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所 (昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。
 武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制転換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年(1869)降伏しました。
 その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
 明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農商務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。
 晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。」

   


榎本武揚旧居跡 墨田区向島5-12-14(ライオンズマンション言問)

 銅像から旧居跡まで、1,7kmです。
 墨堤を毎日徒歩ではなく、馬で散歩していたそうなので、
 健康目的より下町情緒を楽しんでいたのでしょうね。

(説明板)
「榎本武揚旧居跡 13
 父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱万次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3(1856)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
 戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て、文部大臣、外務大臣などを歴任した。
 明治38(1905)年から、73歳で没する同41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。」

    


榎本武揚夫妻の墓 文京区本駒込3-19-17 吉祥寺

 榎本武揚は、橋場の郷士で、保元寺に「榎本武揚一族之墓」があります。こちらで記載
 榎本武揚と夫人の両名のみ改葬され、文京区吉祥寺に墓があります。
 「陸軍中将子爵榎本武揚墓」「元帥海軍大将伊東祐享書」と彫られた立派な墓です。
 隣は夫人の墓です。

(説明板)
「榎本武揚の墓
 天保七年ー明治四十一年(一八三六〜一九○八)。江戸の生まれ。通称、釜次郎。江戸末期の幕臣、政治家。蘭学をはじめ広い学識をもち、オランダ留学後海軍奉行、海軍副総裁となったが倒幕軍江戸入城にあたり幕府海軍を率いて函館五稜郭で反抗した。その後、時代の変化もあって海軍中将、ロシア駐在特命全権公使、海軍卿、文相、枢密顧問官、外相、農商務省などを歴任、子爵となる。
  東京都文京区教育委員会」

    

    

    


満蔵寺 春日部市新方袋253

 満蔵寺入口には「史蹟梅若塚 天然記念物御菓付銀杏 満蔵寺入口」と刻された石碑が立っています。
 満蔵寺の裏は、古奥州街道で、古隅田川の堤跡となっています。
 山門入口右手に梅若伝説にかかる梅若塚があります。

     

<梅若塚>

    

 梅川塚碑「梅若丸千年供養 昭和四十四年四月十五日 柳桜会 山口亨」
     

(説明板)
「梅若伝説と梅若塚
         所在地 春日部市新方袋二六六
 今からおよそ千年前、京都の北白川に住んでいた吉田少将帷房卿の一子梅若丸は七歳の時父に死別し、比叡山の稚児となった。十二歳の時、宗門争いの中で身の危険を思い下山したが、その時に人買いの信夫(現在の福島県の一地域)の藤太にだまされて東国へ下った。やがて、この地まできた時、重病になり、藤太の足手まといとなったため隅田川に投げ込まれてしまった。幸いに柳の枝に衣がからみ、里人に助けられて手厚い介護を受けたが、我身の素性を語り
    尋ね来て 問わば答えよ 都鳥
        隅田川原の 露と消えぬと
 という歌を遺して生き絶えてしまった。時に天延二年(九七四)三月十五日であった。里人は、梅若丸の身の哀れを思い、ここに塚を築き柳を植えた。これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる梅若塚である。
 一方、我が子の行方を尋ねてこの地にたどり着いた梅若丸の母「花子の前」は、たまたま梅若丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知り、出家してしまった。名を妙亀と改め、庵をかまえて梅若丸の霊をなぐさめていたが、ついに世をはかなんで近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投げしてしまったという。これが、有名な謡曲「隅田川」から発展した梅若伝説であるが、この梅若丸の悲しい生涯と、妙亀尼の哀れな運命を知った満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫ってその胎内に梅若丸の携えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。
 これが、安産、疱瘡の守護として多くの信仰を集めてきた子育て地蔵尊(満蔵寺内)である。
  昭和六十一年三月  埼玉県 春日部市」

  

<梅若塚の由来>

 由来説明の石板もあります。

   

<石橋供養塔/道標>

 梅若塚入口に道標を兼ねた石橋供養塔(文政7(1824)年)があります。
 古隅田川にかかっていた石橋の供養塔です。
 「奉建立石橋十五カ所」
 「かす可べ」「ジおんじ道」。摩耗激しく他はわかりません。

     

<梅若塚社>

 「令和元年六月修繕記念碑」があります。
 修繕したてで、真新しいです。

    

    

<宝生九郎の記念碑>

   

<お葉付イチョウ>

 境内にある埼玉県指定天然記念物です。

    

   

<庚申塔4基>

 本堂向かって左手に庚申塔が4基あります。
 左から3基と、ひとつおいて1基。

   


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