【新宿区】
○ 湯殿山 成子天神社
成子富士(西新宿)
○ 月山
湯殿山 羽黒山 坂東 西國 四國 88か所順拝 円照寺(北新宿)
○ 月山
湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 巡拝供養 最勝寺(上落合)
「江戸切絵図」
江戸切絵図に「天満宮」と描かれています。
近隣には「十二社権現」があります。
<表参道>
表参道から参内です。
参道途中には扁額と鬼瓦が置かれています。
<由緒>
(説明板)
「由緒 祭神 菅原道真公
千百年を超える歴史を紡いできた「成子天神社」。
このあたりはその昔柏木村鳴子と呼ばれ、当地にはもともと大神宮(ご祭神天照大御神)が祀られ、松や柏の樹々が茂る清らかな神域が広がっておりました。
平安時代の延喜三年(九○三年)、九州の太宰府で菅原道真公が亡くなられたという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は悲嘆極まりなく、その徳を慕い、洛陽(平安京)より、公の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰りました。そして当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神としてお祀りし当社が設立されたのです。
その後、徳川第三代将軍家光公より春日局に柏木鳴子の地を賜り、局の勧請により天満天神社として社殿を造営。明治二十七年成子神社と改め昭和三年成子天神社と改称。その後戦災焼失、昭和四十一年の再建等を経て、平成二十六年の御造営を迎えました。」
(説明板)
「江戸・東京の農業 鳴子ウリ
成子天神を中心とした地域は、江戸時代マクワウリの特産地でした。
記録によれば、江戸に幕府を開いた徳川家は、元和年間(1615〜24)に美濃の国真桑村から農民を呼び寄せ、鳴子と府中の是政村(現在の府中市)に御用畑を設け、マクワウリを栽培させました。
マクワウリは根が浅く、土の乾燥に弱いので、土に湿り気のある神田川流域の当地は適地でした。
元禄11年(1698)新宿に宿場が開かれたため、栽培は次第に盛んとなり、当時、四谷ウリとか、この地域が鳴子坂と呼ばれていたので、鳴子ウリと呼ばれ、明治にいたるまで特産地として栄えました。
鳴子ウリは長さ四寸(12cm)で、太さは元で一尺八寸(約5.4cm)、末で二寸(6cm)あまりの小型のウリで、外観は緑色で表面に細い緑のすじがあり、熟すと甘い香りとともに黄色く色づく。果肉は緑色で甘味に富んで、当時は甘い物が少なかったので水菓子として貴重な野菜でした。
平成9年JA東京グループ
農業協同組合法施行五十周年事業」
<楼門>
楼門には風神・雷神さまがおられます。
<撫牛/狛犬>
境内に入ると撫牛がお出迎え。次に狛犬(文政13(1830)年)。
<水神社>
井戸には三柱鳥居がかけられています。
<力石> 新宿区文化財
7個の力石があります。新宿区指定有形民俗文化財です。
(説明板)
「新宿区指定有形民俗文化財
成子天神社の力石
所在地 新宿区西新宿八丁目十四番十号
指定年月日 昭和六十一年八月一日
力石は、祭礼などで余興として行われた力くらべに使われた卵型の大きな石です。成子天神社には七個が残っており、社殿前に並べられています。
七個すべてに銘文が刻まれていますが、このうち二個は判読できません。残りの五個には、四十貫(約一五〇キログラム)から五十八貫余(約二一八キログラム)に及ぶ重量や、虎松・喜太郎・亀治郎・市蔵という人名が刻まれています。人名は奉納者または持ち上げることができた人物の名であると思われます。
製作時期は記されておらず不明ですが、江戸時代末から明治時代頃のものと推定され、人名が重複していることから、ほぼ同時期に奉納されたものと考えられます。
平成二十六年十二月 新宿区教育委員会」
<社殿>
「菅公一千年祭擧行之碑」と社殿。
<西参道>
表参道の反対側には西参道。西参道から入ってすぐ右手に成子富士塚があります。
成子富士塚の麓に「湯殿山碑」があります。湯殿山単独の碑です。
福島や栃木では湯殿山単独は一般的ですが、都内では珍しい。
<成子富士> 新宿区文化財
(説明板)
「新宿区登録文化財 史跡
成子天神社の富士塚
所 在 地 新宿区西新宿八丁目十四番十号
登録年月日 平成ニ年六月一日
大正九年(一九二〇)八月に、成子天神社境内にあった天神山という小山に富士山の溶岩を配して築かれたもので、区内で最後に築かれた富士塚です。高さは約十二メートルあり、区内では最大規模となっています。塚の北側には浅間神社の小祠があります。
富士塚は、江戸時代中期より、江戸庶民の間で盛んになった富士信仰の遺跡です。同業者を中心に富士講が組織され、神社の境内に模造富士を築いて崇拝しました。
成子天神社の富士塚は、柏木・角筈地域(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心に組織された丸藤成子講が奉祀していたもので、最盛期には約二〇〇名の講員がいましたが、現在は活動していません。
平成二十六年十ニ月 新宿区教育委員会」
浅間神社には、東日本大震災までは山頂に建っていた木花咲耶姫命の像。
富士塚入口右手に「成子富士浅間神社竣立記念碑」
中腹には浅間神社の小祠があります。山頂には子ども等は登頂禁止。山頂に小祠。
頂上から、夫婦公孫樹の雄木と社殿を見たところ。富士塚は12mの高さがあり、大きな塚です。
医光山円照寺といいます。
創建年代は不詳ですが、理源大師の弟子の貞崇僧都が安置した薬師堂を起源とし、
天慶3(940)年、藤原秀郷が平将門征伐の際に一寺となしたと伝えられます。
慶長年中(1596-1615)に焼失した際には、春日局が施主となり再建されました。
当地は、地頭柏木右衛門佐頼秀の居館跡ともいわれ、右衛門桜が残されていましたが戦災で焼失しています。
「江戸名所図会 鎧明神社 圓照寺」
鎧明神社の別当寺だった円照寺。江戸名所図会では、鎧明神社とともに円照寺が描かれています。
「江戸名所図会 柏木邑 右衛門桜」
挿絵に「柏木恵ゑもんさくら」の看板が見えます。
本文の説明によると「當寺堂前にあり」とあります。
<参道>
参道入口左手に「札所碑」と「柏木右衛門桜ゆかりの地」
右手に圓照寺の寺号標、見た瞬間、江戸時代の墓碑か、板碑型庚申塔かと思いました。
碑陰によると、平成19年の建立で、関東大震災の墓標を山号標に転用しています。
<圓照寺案内>
<山門扁額>
<梵鐘> 新宿区文化財
梵鐘(寛政2(1790)年銘)は、新宿区文化財に指定されています。
(説明板)
「新宿区登録有形文化財 工芸品 圓照寺の梵鐘
所在地 新宿区北新宿三丁目二十三番二号
登録年月日 平成二十六年三月二十六日
圓照寺の中興開山琳伝和尚の発願、柏木村名主川本又四郎を施主として、寛政二年(一七九〇)に鋳造された梵鐘です。
総高一二四センチ、口径六八センチで、江戸鋳物師西村和泉守藤原政時が製作しました。
全体に精巧に仕上げられた梵鐘で、江戸鋳物師の技術的特徴が良く表わされています。また、銘文からは、圓照寺の歴史や梵鐘鋳造の由来などを知ることができ、地域資料としても価値が高いといえます。
区内の江戸時代の梵鐘は、太平洋戦争中の金属供出により現存数が少なく、大変貴重です。
平成二十六年十二月 新宿区教育委員会」
<しだれ桜>
右衛門桜は戦災で焼けてしまい、樹齢1000年以上あると言われているしだれ桜を寺のシンボルにと、
境内の真ん中に、福島の滝桜の苗分けが植樹されています。
他にも、境内には日本全国から多くの桜が植えられています。
(篠山副住職へのラジオ番組のインタビュー記事を参照しました。)
<寺務所>
<本堂>
本堂には戦災を逃れた秘仏の薬師如来像が祀られています。
<閻魔堂>
本堂の横にある閻魔堂には、閻魔大王、奪衣婆が祀られています。
「江戸東京四十四閻魔」の第六番です。
閻魔堂前の桜が右衛門桜としてネットでは紹介されていますが、いまいちよくわかりません。
<無縁塔>
無縁塔があります。
<六地蔵>
無縁塔の脇には、六地蔵が2組あります(天保10(1839)年と年代不詳)。
二十三夜塔は栃木では多く見かけますが、都内では少ないかな、久しぶりに見ました。
「西國坂東秩父廻國供養」
享保18(1733)年。
「月山
湯殿山 羽黒山 坂東 西國 四國 秩父 88か所順拝」
文政9(1826)年。
<大雄山>の碑があります。
<『玉箒木』の囲碁の精>
碁石の精が現れたといわれる円照寺。
江戸の牛込に、囲碁の好きな清水昨庵という者がいた。
昨庵が柏木村円照寺を散歩していると、色白と色黒の2人組が話しかけてきた。
2人と馴染みとなった昨庵が名を尋ねると、色黒の者は山に住む「知玄(ちげん)」、
色白の者は海辺に住む「知白(ちはく)」と名乗り、それきり姿を消してしまった。
昨庵はこの後囲碁の名人となり、江戸中に敵が無くなったとある。
昨庵の出会った2人は、実は碁石の精だったということである。
(ウィキペディアより要約引用)
<巡拝供養塔>
巡拝供養塔が2基あります。
・「四國 西國 秩父 阪東 百十八霊場巡拝供養塔」
立派な巡拝供養塔です。
・「月山
湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 巡拝供養」
文化8(1811)年。「月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國
坂東 巡拝供養為二世安楽也」
<三界萬霊塔/馬頭観世音/庚申塔など>