Discover 江戸史蹟散歩
 
 出羽三山信仰

 【世田谷区】
  ○ 羽黒山 湯殿山 月山 供養塔  奥沢神社(奥沢)
  〇 出羽三山神社        太子堂(太子堂)


〇奥沢神社 世田谷区奥沢5-22-1

    

<奥沢神社>

 (説明板)
 「奥沢神社
  祭神 誉田別命宇賀魂命
  世田谷城主吉良氏の家臣、大平氏が奥沢城を築くにあたり守護神として勧請したと伝えられる。
  例祭の九月十四日・十五日に、江戸中期より伝えられている「厄除の大蛇」の特殊神事が行われ、
  境内の「八幡小学校発祥之地」の碑は、かつて八幡小学校々舎があったからである。
  社殿は昭和十五年に完成し、尾州檜材を用い、室町期の様式を採用したもので、都内においても他に類を見ない。
   昭和五十四年三月  世田谷区教育委員会」

 (追加掲示)
  「九月大祭の日程は変更しています
   九月第二土曜日と翌日日曜日の二日間です
   「厄除大蛇」は第二土曜日
   午前十時〜十二時半町内お錬り」

   

<奥沢神社の大蛇お練り行事>

(説明板)
「東京都指定無形民俗文化財(風俗習慣)
 奥沢神社の大蛇お練り行事
     伝 承 地 世田谷区奥沢地区
     保持団体 奥沢神社氏子中
     指  定 平成二十八年三月十一日
 奥沢神社の大蛇お練り行事は、毎年九月第二土曜日に、氏子に担がれた藁製の大蛇が奥沢神社を出発し、半日かけて氏子町内を練り歩くもので、厄除けの大蛇として地域に親しまれています。
 その由来は、江戸時代に疫病が流行した際、名主の夢枕に八幡様が現れ、「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させよ」とのお告げがあり、そこで藁蛇を巡行させると疫病が治ったので、村人はその藁蛇を神社の鳥居に掲げたといわれています。
 藁蛇の長さは約九メートル、胴の直径は約二十五センチメートル、重さ約百五十キログラムで、祭の一週間前に約四十人が一日がかりで作り上げます。
 「ワッショイ」と掛け声をあげ、まるで蛇が道を這うかのように左右に激しく大蛇を動かしながら担ぎます。その脇では、沿道の見物客や氏子に疫病除けの藁が配布されます。
 厄除け等の祈願のために藁縄で編んだ蛇を祀る行事は都内に数例残っていますが、その蛇を担いで氏子町内を練り歩くのは都内ではここだけで、都民の生活文化の特色を示すものとして重要です。
  平成二十九年三月 建設  東京都教育委員会」

  

<鳥居>

 鳥居に大蛇を祀っています。目立ちますね。

     

如意輪観音/出羽三山百番 道標>

 天明6(1786)年。
 正面:如意輪観音半跏坐像
 「右 品川ミち」「左 めくろミち」

     

 裏面:「羽黒山 湯殿山 月山 奉納 秩父 四国 坂東 百番供養塔」
 「右 ふすまミち」「左 九ほんぶつ道」
 道標を兼ねた「出羽三山 百番供養塔」です。順番が羽黒山が先に刻まれています。
 彫がしっかりしていて、保存状態が良いです。

     

    

<狛犬>

 雄々しい狛犬です。

    

<奥沢開発三百年記念碑>

 300年記念事業として狛犬ならびに石燈籠を献納した記念碑です。
 昭和37(1962)年。氏子中。

  

<拝殿>

 拝殿内には「大蛇お練り行事」で使われた大蛇が納められています。
 一年後に鳥居へ移されます。

    

<神楽殿>

  

<供養庚申塔/道標>

 享保13(1728)年。
 正面「奉供養庚申之塔」
 右面「こ連より右江 九保ん仏道」
 左面「これより左江 ぬま遍道」

     

<べんてん道>

  

「井戸?」
 龍の口があるので、井戸口かな?

  

「子育延命地蔵尊」

 享保20(1735)年11月。

    

「庚申塔など」
 「享保3(1718)年8月」庚申塔
 「南無大師遍照金剛」「下沼部村密蔵院現住廣照」「文政3年」
 「安永8(1779)年10月」庚申塔

    

     

「八幡小学校発祥之地」

  

「奥沢弁才天社」

    

     

<南参道鳥居>

  

<日清・日露戦役紀念碑>

  


太子堂八幡神社 世田谷区太子堂5-23-5

 源頼義・義家(八幡太郎)が戦勝祈願、酒宴を催し休憩したと伝えられています。

     

     

     

(説明板)
「太子堂八幡神社略記
  御 祭 神 誉田別命
  大  祭 十月 第二日曜日
  社殿改築 昭和十二年八月十日
  御由緒及此地の沿革
 当社の鎮座年歴不詳なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦一五九二〜六年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征伐に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられていることから少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。
 太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。
 此の鎌倉道の付近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村一二一〜二番地の辺を(五丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器などこの地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。
 真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の号をとりて部落の村名とした。
 以上は、古老の伝承、武蔵風土記稿等を参照したものである。」

  

出羽三山神社>

 境内左手に「出羽三山神社・鹽竈神社」の合祀殿があります。

    

   

 裏にはうさぎがいます。

   

<弁天社>

 鳥居手前左手に弁天社。

   

<記念碑>

 弁天社の右手に日露戦役の記念碑があります。

  

<太子堂稲荷神社>

  

<御神木>

 稲荷神社の手前に御神木の案内があります。
 社殿の奥に御神木の大楠があります。

    


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