【於竹大日如来】
○ 史蹟 於竹大日如来井戸跡
○ 小津史料館
○ 心光院 お竹大日如来水板
○ 善徳寺 お竹大日如来の墓
<於竹大日如来とは>
江戸へ奉公にでていた山形庄内出身の女中「於竹」は、羽黒山へ参詣する行者の夢のお告げにより、
「生きた大日如来である。」とされました。
於竹の没後、奉公先の夫婦は於竹の等身大の大日如来を作り供養しました。
「於竹大日如来」は、江戸庶民の間で一大ブームとなり、芝居、小説、講釈、錦絵などに描かれたといいます。
数度にわたる羽黒山行者により、出開帳も行われました。
五代将軍 徳川綱吉の母「桂昌院」も於竹如来を信仰した1人で於竹を歌に詠んでいます。
小林一茶の俳句にも詠まれ、坪内逍遥によっても上演されました。
日本橋本町の「小津和紙店」に「於竹の使った井戸」と称される旧蹟跡があります。
奉公先の夫婦(佐久間家)の菩提寺である心光院には於竹の遺品、水盤があります。
奉公先の親族(馬込家)の菩提寺である善徳寺には、於竹のものと伝えられる墓があります。
羽黒山正善院黄金堂には、於竹の奉公先夫婦によって作られ、後に江戸から移されたとされる
於竹の等身大の大日如来が安置されています。
於竹の命日とされる5月19日に於竹をまつる各種行事がとり行われています。
(山形県ホームページ「於竹大日如来のお墓と井戸跡」を短縮、微修正しました。)
小津本館ビルの一角に「史跡 於竹大日如来井戸跡」があります。
ここは、小津和紙の創業の地ですが、創業者小津清左衛門の主人佐久間善八の屋敷でもありました。
<史蹟 於竹大日如来井戸跡>
「史蹟
於竹大日如来井戸跡
建昭和46年5月吉祥之
題 新高野山第4世弘之」
<於竹大日如来縁起>
(説明プレート)
「於竹大日如来縁起
於竹大日如来は 寛永十七年(十八才の時)山形県庄内よりでて 当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなる。その行いは何事にも誠実親切で 一粒の米 一きれの野菜も決して粗末にせず貧困者に施した。そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという。出羽の国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である。」とつげた。主人は驚き勝手仕事をやめさせ 持仏堂を造り その後念仏三昧の道に入る これが江戸市中に拡がり於竹さんを拝まうと来る人数知れずと言う
於竹さんの詠んだ歌に
手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏
口と心のひまにまかせて
延宝八年五月この世を去る 行年五十八
五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に
ありがたや光と共に行く末は
花のうてなに於竹大日
於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった
昭和四十六年五月吉祥 史蹟 於竹大日如来保存会」
「江戸名所図会 竹女故事」
江戸名所図会では、竹女故事が紹介されています。
「お竹大日如来稚絵解」(十返舎一九作 歌川国芳画)
お竹如来昇天の図など盛りだくさんです。
<小林一茶>
小林一茶がお竹如来を詠んでいます。
「雀子やお竹如来の流し元」
「守るかよお竹如来のかんこ鳥」
「雪の日やお竹如来の縄だすき」
<川柳>
「知らぬが仏竹々とこき使い」
碑の脇には、和紙の原料となるコウゾ、ミツマタ、ガンピなどが植えられています。
(碑文)
「小津の起源
伊勢商人、小津清左衛門長弘は、当時江戸随一の商業地であった大伝馬町(現在地)に
承応2年(西暦1653年)創業しました。
爾来、幾多の事業の変遷を経て 「紙商小津」として現在に至って居ります。」
「江戸買物独案内」(文政7(1824)年)
江戸時代の買物案内書に掲載されています。
思いの外、充実した史料館です。
於竹大日如来コーナーの史料も充実しています。
撮影禁止が残念です。1階に撮影スポットはありますけれどもね。
住所が東麻布ですが、東京タワーの駐車場出口にあり、東京タワーの真下にあります。
表門と本堂は、国の登録有形文化財。
於竹堂の裏には、大きな葵の紋。桂昌院が寄進したお竹大日如来水板を納める箱にも葵の紋。
本堂の正面のガラスにも葵の紋。
徳川2代将軍・秀忠公の愛馬「布引」が供養されています。
「江戸名所図会 赤羽 心光院」
江戸名所図会にも描かれている寺院です。
<於竹堂>
「於竹堂」(平成29年再建)には、綱吉の母・桂昌院が寄進した
「お竹大日如来水板」(港区有形民俗文化財)と「お竹如来像」が祀られています。
江戸名所図会で心光院の紹介のほか、竹女故事が紹介されています。
(説明板)
「お竹堂
お竹如来像と流し板をまつる。
秋田県能代市出身の神成志保氏により 昭和41年に一堂が建立され
平成29年にこれを再建した。
寛永年間、江戸大伝馬町の名主 佐久間勘解由家の見習子お竹は、庄内(山形県)出身にして生まれつき慈しみの心が深く、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網をおいて、洗い流しの飯が溜まったものを食料とした。信仰厚く常に念仏を怠らず、大往生をとげたという。
この話を聞いた五代将軍綱吉の生母・桂昌院は、心を動かされ、金襴の布に包まれた箱にお竹の流し板をおさめて、増上寺別院であった心光院に寄進し、その徳をたたえられた。
(桂昌院の御詠歌)
ありがたや光と共に行く末は
花のうてなにお竹大日」
<龍王堂>
(説明板)
「龍王堂
昭和41年、神成志保氏による金色に輝く蛇の霊夢から当地へ勧進、龍王堂として建立された。御神体は神成澪氏の作(註:神成志保氏の娘で人形・陶芸作家)。
平成29年に、御神体は当初のまま、この龍王堂を再建した。」
<馬頭観音>
(説明板)
「馬頭観音(中央)
徳川二代将軍・秀忠公の愛馬「布引」を当院にてで供養した観音像」
<阿弥陀如来座像とお念仏の庭>
阿弥陀如来座像(江戸中期)と墓誌群です。
境内には、大伝馬町の名主「馬込家の墓所」や、馬込家が菩提を引き継いでいた
日本橋の豪商佐久間家の奉公人で、大日如来の化身とされた於竹を祀るお竹如来があります。
<お竹大日如来の墓>
山門入って境内左手に「お竹大日如来の墓」があります。
「お竹大日如来尊影
延宝八年五月十九日 上天せらる」
<富士見坂>
門前は富士見坂です。
(説明板)
「富士見坂
この坂を富士見坂という。このあたり、昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。江戸時代の「遊暦雑記」には、「左右只渺茫たる高みの耕地にして折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る、此景望又いうべき様なし」と記されている。
かつてこの近くに周囲五○○余メートルといわれる大塚古墳(円墳)があったが、いまはみられない。
昭和五十九年三月 東京都」
<門前/寺号標>
大きな岩の寺号標です。
<境内>
子育地蔵尊などがあります。
<本堂>
<馬込家墓>
馬込家墓は、本堂左手から奥へ入った墓地にありますが、説明板は門前にあります。
(説明板)
「馬込家墓 北区赤羽西六ー十五ー二一 善徳寺墓地内
善徳寺の墓域内には、江戸時代、大伝馬町の御伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があります。
御伝馬役とは、江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が五街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々、この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にある名主家とともに、名字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見が許されていました。
馬込家は、遠江国敷智郡馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由と称していました。馬込という家名は元和元年(一六一五)五月、大坂落城の後、浜松宿の馬込橋まで徳川家康を迎えた時、五00人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。
最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は、善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和二年(一九二七)四月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。
平成八年三月 東京都北区教育委員会」