Discover 江戸史蹟散歩
 
 出羽三山信仰

 【下目黒】
  ○ 行人坂
  ○ 太鼓橋/夕日の岡
  ○ 勢至堂
  ○ 大圓寺
  ○ お七の井戸/明王院跡


行人坂 目黒区下目黒1-3-15

 行人坂の下に説明板があります。
 行人坂の途中に大円寺があります。

(説明板)
「行人坂
 行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、1624(寛永年間)この辺りに巣食う、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、
徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人「大海法師」を勧請して開山した。
その後不良のやからを一掃した功で、「大円寺」の寺号を与えられた。
当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。
  ホテル雅叙園東京」

    
 

<富士見茶屋と夕日の岡>

 行人坂の上のほう、ホリプロのビルの横に「富士見茶屋と夕日の岡」の説明板があります。
 富士見茶屋は名所で、浮世絵にも数々描かれています。

 「目黒区みどりの散歩道●不動コース
  富士見茶屋 と夕日の岡
  江戸時代、この辺には「富士見茶屋」があり、大勢の参詣客や旅人がここで一服、
  秀麗な富士の眺めを楽しんだ。
  また、坂の周辺は夕日と紅葉が見事で、夕日の岡と呼ばれていた。」

    
 

<江戸名所図会 夕日の岡 行人坂>

    
 

<江戸名勝図会 行人坂(広重)>

 行人坂、富士山、茶屋と描かれています。

  
 

<江戸自慢三十六興 目黒行人坂 富士(広重)>

 太鼓橋もしっかりと描かれています。

  
 

<廣重東都坂盡 目黒行人阪之図(広重)>

  
 

<絵本江戸土産 富士見茶屋(広重)>

  


太鼓橋/夕日の岡

 「太鼓橋」とも「雁歯橋」とも言いますが、現在は「太鼓橋」とされています。

(説明板)
「太鼓橋
 太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人達が資材を出し合って1764(宝暦14)年から6年の歳月を経て完成した。広重はこの太鼓橋を浮世絵に描いており、こうしたアーチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、目黒の欧風文化の第一号とさえいわれたが、1920(大正9)年9月1日豪雨により石橋は濁流にのまれたため、 1932(昭和7)年架設された。現在の橋は、目黒川流域の都市整備計画により、1991(平成3)年11月に完成した。
  ホテル雅叙園東京」

     

    
 

<江戸名所図会 太鼓橋>

   
 

<絵本江戸土産 目黒 太鼓橋 夕日の岡(広重)>

  
 

<名所江戸百景 目黒太鼓橋夕日の岡(広重)>

  


目黒川架橋供養勢至菩薩石像

 大円寺山門の東脇に勢至堂があり、堂の脇に弁財天の石像があります。
 目黒区説明板が2段になっており、上段が勢至菩薩の由来説明、下段が行人坂の説明となっています。

(説明板)
「目黒川架橋供養勢至菩薩石像
 小堂の中にある石造物は3段の台石を含め総高190cmで、一番上は蓮華座の上で合掌し、右膝を立てて座る勢至菩薩像です。小堂の前を通る行人坂を下りた先には目黒川がありますが、江戸時代中期の目黒川架橋について台座石の前面と両側面に銘文が刻まれています。
 銘文は宝永元(1704)年のもので、西運という僧が目黒不動尊と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中で人々から受けた寄進により、川の両岸に石壁を築き、雁歯橋を架けたということが書かれています。目黒川架橋の歴史を示す、貴重な文化財です。
  平成31年3月  目黒区教育委員会」

「行人坂
 寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。しだいに多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。
  平成11年11月  目黒区教育委員会」

     

   

    


大圓寺 目黒区下目黒1-8-5

 「滝泉寺(目黒不動)の方角から目黒川に架かる太鼓橋を渡り、長さ約140mの急坂行人坂を登って行くと、
  右手に明王院、大円寺と続き、坂の上左手には茶屋があった。
  太鼓橋は享保(1716-1736)の末、木喰上人が、八丁堀の商人達の援助を受けて完成させたもの。
  行人坂は、寛永(1624-1644)の頃、出羽三山の一つ湯殿山の大海法印という行人(行者)が
  この地で修行を始め、次第に多くの行人が集まり住むようになったことが名前の由来。
  大円寺は、江戸三大火事の一つ、明和9(1772)年の「目黒行人坂の火事」の火元と言われており、
  犠牲者供養のために約50年かけて石工が完成させた釈迦三尊像及び五百羅漢像約520体が
  境内の三方を囲んでいた。」
  (「錦絵でたのしむ江戸の名所 太鼓橋・行人坂」(国立国会図書館)より引用)
   蛇足:国立国会図書館の職員は優秀だなぁと思います。要点を欠かさず簡潔にまとめているのに感心。

    

(説明板)
「大円寺(天台宗)  下目黒1-8-5
 この寺は「松林山大円寺」といいます。寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切り開き、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりと伝えられています。
 本寺には“生身の釈迦如来”と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)、「木造十一面観音立像」(区指定文化財)、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。
 明和9年2月(1772)、本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大円寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀如来三尊像」(区指定文化財)や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。
 境内には「行人坂敷石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。
 江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。
  平成3年3月  目黒区教育委員会」

 「大圓寺の指定文化財
  ◎鎌倉時代(国重文)
  ・生身の釈迦如来立像(一躰)
  ・白銅菊花双雀鏡(一面)
  ・結縁交名断簡(三片)
  ◎江戸時代(都重文)
  ・石佛群五百羅漢像(五二四躰)
  ◎江戸時代(区重文)
  ・行人坂敷石造道供養碑(一基)
  ・阿弥陀三尊像(三躰)
  ・目黒川架橋供養勢至菩薩像(一躰)
  ◎藤原時代(区重文)
  ・十一面観音立像(一躰)
  ●八百屋お七、吉三の墓碑 ●江戸裏鬼門守護開運大黒天
  ●新東京百景指定(東京都指定)
  文化財は国民の財産で世界の文化遺産です。
  皆で守りましょう。」  

   
 

<本堂>

 本堂には木造十一面観音立像が祀られています。
 本堂前には薬師如来座像があります。体の悪い部分に金箔を貼るので全身金仏となっています。

(説明板)
「木造十一面観音立像
  目黒区指定有形文化財 彫刻
  昭和五十九年三月三十一日 指定
 この像は一木彫刻で、表面がかなりやつれ、面相も衣文線も制作当初の鋭い彫りの調子を失っているが、造法も作風も古様を伝えている。
 やや面長な面相、伏眼がちの眼の表現、細身で長身な体躯等いずれも藤原時代の特色を示し、区内の彫刻の中では最も古い遺品の一つと推定される貴重なものである。
  昭和五十九年八月  東京都目黒区教育委員会」

     
 

<大円寺石仏群>

 五百羅漢像が圧巻です。

 釈迦三尊像  3体  
 十大弟子像  10体  
 十六羅漢像  16体  
 五百羅漢像 491体

(説明板)
「東京都指定有形文化財(歴史資料)
 大円寺石仏群
 明和9年(一七七二)、江戸市中を焼く大火があり、火元と見られたのが大円寺であった。この火事は「行人坂の火事」と呼ばれ、明暦三年(一六五七)の振袖火事、文化三年(一八○六)の車町の火事と並び、江戸三大火事の一つに数えられている。『新編武蔵風土記稿』には、大円寺境内の五百羅漢は行人坂の火事で亡くなった人々を供養するために建立されたと記されている。
 大円寺境内の北東側斜面に、五二○体の石仏群が安置されている。左右に文殊菩薩・普賢菩薩を配した釈迦三尊像を十大弟子と十六羅漢が囲み、背後に四九一基の羅漢像が並ぶ。造立年代は、五百羅漢の中に宝暦十三(一七六三)の刻銘もあるが、多くは釈迦如来の刻銘天明元年(一七八一)以降の造立と思われる。嘉永元年(一八四八)に大円寺が再興された時、これらの石仏もここに安置されたと考えられる。
 像高は、釈迦三尊像が一四七〜一五五cm、十大弟子像が五五〜一二六cm、十六羅漢が九五cm、五百羅漢像が三七cm前後。判読できる銘文によると、行人坂の火事以外の供養も含まれているようである。また、広く勧進を募り、時間をかけて今の石仏群が作られたことも読み取れる。江戸災害史の貴重な資料である。
  平成二十三年三月 建設  東京都教育委員会」

     

    
 

<とろけ地蔵>

 漁師が海から引き揚げた地蔵ですが、行人坂の大火でとろけたらしい。

    
 

<釈迦堂>

 釈迦如来像。開帳日は、わりと多いかと思います。

    

(説明板)
「釈迦如来立像(国・重要文化財)
 本尊は、京都嵯峨の清涼寺に伝わる釈迦如来立像を模して作られた像です。原像である清涼寺の本尊(国宝)は、東大寺の僧が寛和2年(九八六)に中国から請来したもので、請来当初から摂関藤原兼家以下の朝野の尊崇を集め、やがて多くの模刻が作られました。
 現在こうした清涼寺式の違例は各地に数多くありますが、その中でも大円寺の像は、嵯峨の原像に相似し、よくその趣を伝えています。両耳孔には水晶珠をはめ込み、頸際まできっちりとつけた衣には、同心円状の衣文を刻み、各衣紋に沿って截金線が入っているなど他の像に比べて全てが細かに模されています。
 昭和32年(一九五七)に行われた解体修理の際、胎内から白銅製の菊花双雀鏡、女性の髪、紙片、木札などが発見され、それらに書かれた陰刻や墨書から建久4年(一一九三)に制作されたとされます。
 原像に勝るとも劣らない巧みな刀技で、四肢、五体の均衡に至ってはより自然味を増した優品であるとともに、制作年代もはっきりした貴重な文化財です。」

  
 

<旧太鼓橋の石材>

(標柱)
「目黒川の太鼓橋に使用された石材
 八百屋お七の恋人吉三はその後名を西運と改めお七の菩提を弔うため江戸市民から寄進された浄財を元に行人坂の石畳、太鼓橋を石の橋にした」

    
 

<阿弥陀堂>

    
 

<八百屋お七と吉三(西運)>

 西運の1万日念仏行の碑です。

    

(説明板)
「八百屋お七と吉三(西運)
 江戸時代、本郷駒込町に住む八百屋の娘お七は、天和2年(一六八二)の火事の際、しばらくの間近くの円林寺に仮住いしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六才、吉三が十八才でした。
 しかし、短い避難生活のこと、やがてれ離れ離れになってお七は吉三に会いたさゆえに乱心し、自宅に火を放ったのです。大事には至らなかったものの、当時は放火は火あぶりの大罪。お七は江戸中引き廻しの上、大井・鈴が森の処刑場で火刑に処せられました。
 その後、恋人吉三は剃髪し、西運と名を改めて、お七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国巡礼を行脚しました。その後、江戸に戻った西運は、大円寺の坂下にあった明王院(現ホテル雅叙園東京)に阿弥陀三尊仏を祀り、身を寄せながら隔夜日参一万日という念仏行を始めました。浅草寺までの道のりを雨の日も雪の日も休むことなく、鉦をたたき念仏を唱えながら、一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げました。その夜、お七が夢枕に立って成仏した事を告げたのですが、そのお姿が今現在も阿弥陀堂に祀られているお七地蔵になります。
 西運は集った浄財で行人坂の石畳を直し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、社会活動の数々を行いました。そのことを伝える当時の石碑があり、現在文化財指定となり、寺に伝えられています。」

  
 

<行人坂敷石造道供養碑>

(説明板)
「行人坂敷石造道供養碑(区指定文化財) 大円寺境内
 この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)キリーク.(阿弥陀)サ.(観音)サク.’(勢至)が刻まれています。
 下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊や浅草観音に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。
 施主は西運で元禄16年(1703)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です。
  平成3年3月  目黒区教育委員会」

   
 

<庚申塔など>

    

 庚申塔が三基あります。
 左から、寛文7(1667)年、貞享元(1684)年、寛文8(1668)年と並んでいます。
    


お七の井戸/明王院跡 目黒区下目黒1-8

(説明板)
「八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。
 吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、
 往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。
 明王院という寺院は、現在の雅叙園東京エントランス付近から庭園に架け1880(明治13)年頃まであった。
 この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、
 水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。
   ホテル雅叙園東京」

    


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