Discover 江戸史蹟散歩
 
 出羽三山信仰

 【北区】
  ○ 月山 湯殿山 羽黒山      地福寺(別頁)
  ○ 出羽神社 月山神社 湯殿山神社 十条富士神社
  ○ 荒沢不動尊           荒沢不動尊
  ○ 羽黒山 月山 湯殿山       柏木神社
  ○ 巡拝塔            路傍(岩淵)
  ○ 出羽三山等 巡拝紀念之塔   正光寺(岩淵)(別頁)
  ○ 月山 湯殿山 羽黒山 供養塔   宝幢院

 【日光御成道(岩槻街道)】
  ○ 中十条公園
  ○ 西音寺


十条富士神社 北区中十条2-14-18

 2023年7月の状況です。
 「富士塚再整備工事」は、令和5年8月2日までです。

     

 石碑復旧工事は終了したようです。

    

    

 スペースが狭くなったので、富士塚と直接関係がない出羽三山供養塔が復旧されるのか関心がありましたが、
 無事に復旧されています(黄色○印)。

  
 

 2021年4月の状況です。以前見た時より、塚が削られています。
 現在は文化財調査期間で、令和3年7月頃から石碑復旧・造園工事が行われる予定です。

  
 

 2020年7月から「十条富士塚の再整備」(現状変更)が始まっています。
 石碑の移設が終了したところで、これからは古墳の調査が始まります。

    

    

    
 

(以下は解体前の訪問時の記録です)

 古墳と推定される塚を利用した富士塚です。
 小御岳神社の祠もあります。

     

     

    

(説明板)
「北区指定有形民俗文化財 十条富士塚
    北区中十条二ー一四?一八
 十条冨士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。
 現在も、これを信仰対象として毎年六月三十日・七月一日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは冨士講の信仰習俗の特徴のひとつです。
 塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、三十数基あります。銘文によれば遅くとも、天保十一年(一八四○)十月には冨士塚として利用されていたと推定されます。
 これらのうち、鳥居や頂上の石祠など十六基は明治十四年(一八八一)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の百五十回忌に当りました。石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
 形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
  北区教育委員会」

  
 

 <出羽三山供養塔>

  どれが出羽三山供養塔か、とてもわかりにくいです。
  中学生の調査(HP改編で消失)を参考に、ようやくわかりました。感謝。

  「出羽神社 月山神社 湯殿山神社
   上十条羽黒〜(埋まっていて先が読めない)
   先達 世話人 (5名のお名前)」

      

     
 

 <伊藤元講>

  碑の多くが伊藤元講による建碑ですが、敬神講や大雄山永久元講の碑があります。

      


中十条公園 北区中十条2-12-12

 「歴史と文化の散歩道 中十条公園」案内板があったので寄ってみました。
 左に「富士講と富士塚」、右に「日光御成道」の説明が掲示されています。

   

  


西音寺 北区中十条3-27-10

 山門から先は、檀家以外は進入禁止となっています。
 門前左に宝篋印塔、延享5(1748)年。
 門前右に六地蔵搭、宝暦2(1752)年。上部に阿弥陀三尊、下部に六地蔵。
 地蔵、豊嶋八十八ヶ所霊場第30番札所の碑と続いて並んでいます。

 崖下の「荒沢不動尊」の鳥居には「無量山 西音寺」と書かれています。

   

    


荒沢不動尊 北区中十条3-35-26

 江戸時代、羽黒山の荒沢不動を勧請したのが十条の荒沢不動尊です。不動明王が祀られています。
 「荒沢不動尊」と「荒沢不動の池」の元の場所(馬坂碑の下)が線路となり、当地に移転安置されています。

 鳥居には「羽黒山 荒沢不動」「無量山 西音寺」

    

    
 

<湧水池>

 湧水の水垢離場があり、金魚の池となっています。

    
 

<崖下湧水> 北区岸町2-11-17

 崖下では、他にも湧水が見られます。

   
 

<馬返> 北区中十条3-34-23

(説明石碑)
 「昔は低地の村村から板橋宿へ通じる急坂で、坂下に荒沢不動の池があった。
 この道は姥ヶ橋地蔵尊の付近で王子へ通じる稲荷道と交差し、御成橋を経て板橋宿に至る。
 坂の名は豊島村馬場の「馬」に関係があるように思われるが、坂の地形が馬の背に似ていたからともいう。
 以前は農家の耕地への往復にも役立っていたが、付近の都市化と環状七号線の開設で役割も形状も
 著しく変化してしまった。
  旧道は平和橋手前を右に下っていた。」

    

    


柏木神社 北区神谷3-55-5

     

  
 

<出羽三山碑>

 稲荷社の奥に出羽三山の碑があります。
 「羽黒山 月山 湯殿山」

    
 

<石祠 扁額 石塔>

  
 

<日露戦役紀念碑>明治40年4月

   


巡拝塔 北区岩淵町22-17

 巡拝塔(天保15(1844)年)と2基の庚申塔(道標を兼ねる)があります。

 巡拝塔の正面は「奉順禮 西國 秩父 坂東 出羽三山 身延山 六阿弥陀」
 台座正面に「右下村」
 中央が折れて修復されています。

     

    

   


宝幢院 北区赤羽3-4-2

     

(説明板)
「宝幢院は医王山東光寺と号し、真言宗智山派に属する寺院で、本尊は薬師如来像です。寛正二年(一四六一)宥鎮和尚によって開山され、約百五十年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興しました。「新編武蔵風土記稿」には、慶安二年(一六四九)に三代将軍家光から赤羽根村内に十石余の年貢・課役免除の朱印を付されたことが記されています。寺伝や浮間の古老の言い伝えによれば、かつてこの寺は、浮間村西野(現在の浮間四丁目にほぼ相当)にありましたが、荒川の氾濫による洪水を避けて赤羽に移転し、跡地は宝幢院屋敷と呼ばれたそうです。
 境内には、区内最古の寛永十六年(一六三九)霜月十八日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔があります。板碑型の石塔本体正面には、阿弥陀如来立像と二猿が線刻され、「山王廿一社」の文字を見ることができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿のところがニ猿であるために、この塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には、庚申信仰と山王信仰の結び付きを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結び付いて造立されたようです。
 その他に馬持講中(当時馬を飼っていた資力のある村民)の人名を刻んだ馬頭観音塔や、出羽三山供養塔などがあり、この地の歴史を知る上で貴重なものとなっています。
  平成十五年七月  北区教育委員会」

  
 

<出羽三山供養塔>

 文政11(1828)年の出羽三山供養塔です。

 正面には「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」
 側面には「東叡山御支配 先達 」

     
 

<宝幢院前の道標>

     

(説明板)
「宝幢院前の道標  宝幢院所在
 門に向かって右側の道標は、江戸時代の中期、元文五年(一七四〇)一二月に了運という僧侶によって造立されたものです。
 宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道 日光岩付道」・「西 西国富士道 板橋道」・「南江戸道」と刻まれています。日光・岩付道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光の廟所のある日光に社参するための専用の街道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は、西国へと向かう中山道や八王子から冨士山北麓の登山口へと向かう富士道へ通じていました。
 道標は、各々の方向からきた人々が、まず、自分の歩いてきた道を確認し、つぎに、これから訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られたものです。
  平成三年三月  北区教育委員会」

  
 

<六地蔵>

  
 

<南無馬頭観世音(馬持講中)>

 「馬持講中」による明治41年の建立です。

  
 

<阿弥陀如来線刻庚申塔>

 庚申塔が2基並んでいます。

 左 庚申塔 寛永16(1639)年。
   中央に阿弥陀如来立像、下に2猿が描かれています。
   下右に岩渕赤羽根村、下中央に宝幢院裕真。
   北区最古の庚申塔です。
   足立区にある正覚院の東京都区部最古の庚申塔(元和9(1623)と様式がとても似ています。

 右 庚申塔 延宝8(1680)
   地蔵菩薩立像。右脇「奉待庚申供養成就処」
   3猿が刻まれています。

  
 

<庚申塔>

 庚申塔が他にもあります。

   
 

<信州善光寺参拝記念 本堂落成記念碑 四国西国秩父坂東百八十八ケ所参拝>

  
 

<不明の碑>

 文字が全く見えません、

  


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