【葛飾区】
○ 月山 湯殿 羽黒 三山大権現
光増寺(東金町)
○ 湯殿山供養碑 浄慶庵(堀切)
○ 月山 湯殿山 羽黒山 路傍(東四つ木)
○ 出羽三山供養塔道標 路傍(立石)
○ 出羽三山神社 川端諏訪神社(東立石)
○ 出羽三山神社 奥戸天祖神社(奥戸)
〇 出羽三山神社 路傍小社(新小岩)
当地は旧水戸街道沿いにあたり、水戸徳川家の立ち寄り所となり、葵の紋が使用されています。
多くの石碑、墓などが祀られています。
本堂の扁額には「光増教寺」とあります。
<出羽三山大権現>
道標の後ろにある太子堂の横に、出羽三山大権現碑があります。
「月山 湯殿 羽黒 三山大権現」
「金町村講中」
安永3(1774)年。
<舟形地蔵道標> 葛飾区文化財
(説明板)
「区登録有形文化財
舟形地蔵・道標 所 在 地 葛飾区東金町六丁目20番17号
登録年月日 平成3年3月25日
元禄7年(1694)7月に建てられたもので、中央に地蔵の浮彫、その左側に(そうか迄二里半」、右には(ミキいわつきしんおんしミチ)とあります。以前はここより30m南の街道ぞいにありました。
岩槻慈恩寺、坂東三十三観音霊場の第十二番札所として知られ、江戸川ぞいの人々の信仰をあつめていました。この道は岩槻慈恩寺道と呼び、舟運が発達するまでは行徳の塩を運ぶ陸路として利用されました。その後慈恩寺へお参りにいく人々の道として賑わいました。「金町村 同行弐百三十五人」と彫られていることから、多くの信仰をあつめていた様子が伺えます。 葛飾区教育委員会」
<俳人 鈴木松什の墓> 葛飾区史跡
(説明板)
「葛飾区指定史跡
俳人 鈴木松什の墓 所 在 地 東金町六丁目20番17号
指定年月日 昭和52年3月19日
鈴木松什は、寛政10年(1798)柴又村に生まれ通称を安五郎、俳名を無有庵松什といいました。瓦の製造を生業としていましたが、若くして俳諧の道に入り、当時江戸の俳諧師として名の知れてた寥松のもとで学びました。松什は俳句のほか書画にも優れ、中央の俳壇までその名を知られていました。
「気も散らで 暮れに及ぶや蓮の花」 松什
彼の編集した、句集「芭蕉翁発句類題集」などは著名なもので、嘉永6年(1853)松什没後も柴又を中心に俳句が盛んに作られました。鈴木松什は当区の生んだ文人の先覚として、この地域の文化に寄付した顕彰すべき人物です。
墓は鈴木家の墓地の左側、法名は「無有庵俊誉松什禅士」
葛飾区教育委員会」
<庚申塔など>
参道右に石造物が並んでいます。
右から2基目が庚申塔。宝歴5(1755)年12月。
<釈尊成正覚相>
<倶会堂>
<宝篋印塔>
<馬頭観音>
天明4(1784)年銘と、大正6(1917)年銘の馬頭観音です。
<他>
<彰徳碑>
浄慶庵は、正王寺所属の庵室です。荒綾八十八ヶ所霊場の掛番札所です。
逆修供養の湯殿山供養碑があります。葛飾区有形登録文化財となっています。
他に、葛飾区有形民俗文化財「明暦2年銘庚申塔」があります。
<湯殿山供養塔>
(説明板)
「葛飾区登録有形文化財 湯殿山供養碑
所在地 堀切六丁目30番24号
登録年月日 平成4年2月5日
浄慶庵は下千葉村の郷士相川重右衛門の創立といわれ、この供養碑は子孫である相川文右門夫妻が生存中の善根(功?)として、寛文4年(1664)
の彼岸の日に、逆修供養(生前自分の死後の冥福を祈って仏事を営むこと)したものです。
出羽三山のうち 湯殿山のみを供養の対象とし、種字(仏の姿を梵字を組み合わせて表したもの)で主尊(中央)
脇侍(左右) の三尊の形を表し、配列なども希なものです。
出羽三山は、山形県の中央に連なる月山、羽黒山、湯殿山のことで、また修験道道場として、6世紀ごろに開山したとされています。特に信仰の中心は湯殿山ですが、出羽三山に参詣して五穀豊饒、海上安全、家内安全、無病息炎を祈願しました。
葛飾区教育委員会」
<庚申板碑など>
(説明板)
「区登録有形文化財 明暦二年銘庚申塔
所在地 堀切六丁目30番24号
登録年月日 平成5年2月19日
60日に一度めぐってくる庚申の日に、長寿を願ってみんなで集まり夜明かしをすることを、守康中、庚中待といいます。このような庚申信仰が各地に広がり、庚申講が作られました。その供養、記念のために廃申塔が作られました。
この康申塔は明暦2年(1656)の銘をもち、板碑型の康申塔として、江戸時代初期の典型的な形態をとどめたものです。
板碑型の康申塔は 18世紀初頭の享保年間(1716?1735) 頃まで造られました。13世紀の初めから17世紀にかけて、荒川流域を中心に多数造立された板碑の名残をとどめています。
葛飾区教育委員会」
<出羽三山供養塔(薬師道標)>
宝暦4(1754)年10月建立の出羽三山供養塔で、薬師道の道標を兼ねています。
(正面)「き祢川 みぎ」「やくしみち」
(右面)「奉供養諸願成就」
(左面)「月山 湯殿山 羽黒山 摂待堂講中」
<出羽三山供養塔道標>
「羽黒山大權現 湯殿山大權現 月山大權現 奉供養大日講中」
「右 江戸みち 左 おくとみち まかりかねみち 渡しば道」
<地蔵尊・馬頭観音・道しるべの由来>
子育地蔵尊と馬頭観音が祀ってあります。
(説明板)
「立石諏訪自治会史跡
地蔵尊・馬頭観音・道しるべの由来
この地蔵尊は、貞享二年(一六八五年・江戸初期)に念仏講によって建造されたものです。建立当時は、現在の橋際の堤防内にあわもち屋という家があり、その前に在ったということです。昭和初期、本奥戸橋架橋の時、現在地の向側に移転し、五十数年後の現在、掛替え工事の為現在地に再度移転しました。
地蔵尊は、民間信仰として庶民のあらゆる願い事をかなえてくれる仏として信心され、特に育児についての守り仏として強く結びつき、子育ての精神的なよりどころとして女性に多く信仰されていたものです。地域では老若男女多くの方が、子供達の幸せを願っておまいりしています。
となりの馬頭観音は江戸時代の半ば以降に、農耕馬や運送馬が普及してしてから馬の保護仏として広く信仰されたものです。現在は、地域の交通安全の守り神となっております。建造は安政二年(一八五五年、江戸大地震の年)です。
道標(みちしるべ)は、出羽(今の山形県)三山(月山・湯殿山・羽黒山)の信者の人々の講中が参詣の記念に、宝暦五年(一七五五年)旅人たちの役に立てようと建造したものです。
「・・・橋際に地蔵尊と道しるべの石あり、右江戸みち 左おくと渡し場道・・・と刻したり。・・・」永井荷風『断腸亭日乗』より
昭和六十一年四月十三日 地蔵尊等保存会」
記念碑「立石」があり、ペスタロッチの言葉が刻まれています。
昭和63(1988)年8月21日本奥戸橋改架完成を記念して建てられました。
「立石 母の愛」
「人間の知・徳・体の諸能力の調和的発展の基礎は家庭及び万人就学の小学校での基礎陶治にあり、
その方法は直観・自発活動・作業と学習の結合に基づく ペスタロッチ」
(掲示)
「由来
祭神 建御名方命 例祭日 九月二十七日
当神社の創立は、「新編武蔵風土記稿」川端村の条に諏訪社 村の鎮守なり天正元年勧請」とあり、すなわち、旧本田川川端町一帯を氏子とし天正元年(西暦一五七三年)に村の鎮守として創立されたものです。
社伝によれば、その昔、村内で社地が幾度か移動するごとに悪疫が流行したので、氏子から離れた飛地(旧本田川端町七九三番地)現在の東四つ木四丁目二十四番 白髭神社と向い合う社地に遷され産土神として篤く崇敬されておりました。
古来から幾多の変遷を経て、大正九年十二月木造による社殿が再建されましたが、老朽化が進み境内工作物がいちじるしく荒廃したので、有志が現境内地を寄進し氏子一堂の発意と協賛により昭和四十八年五月この地に社殿を造営、御遷座いたしましたものであります。なお末社として境内に八幡(祭祀出羽三山、三峯)、社地外に稲荷、水神の三社が祭祀されています。
旧境内跡地は、葛飾区東四つ木諏訪児童公園として現存されております。
昭和六十二年五月吉日 川端諏訪神社」
<出羽三山神社>
境内に出羽三山神社(八幡神社、三峰神社)があります。
「出羽三山神社 羽黒山 月山 湯殿山」
奥戸天祖神社は、大しめ縄神事と奥戸連句碑が葛飾区指定文化財となっています。
境内社が7社あり、その中に出羽三山神社があります。
<出羽三山神社>
「月山 湯殿山 羽黒山 大権現」「安永8年」(1779年)
<境内社>
境内社6社の共通鳥居があります。
「出羽三山神社」「風雨神社」「大六天神社」「浅間神社」「御岳神社」「諏訪神社」の6社です。
本堂反対側に「稲荷神社」があります。
<力石>
境内社の前に、力石が表・裏と、ずらっと並んでいます。
<奥戸天祖神社>
<東参道>
<奥戸連 句碑>
(説明板)
「区登録有形民俗文化財
奥戸連 句碑
本体の高さ159cm、幅(下幅)50cm、奥行11cm。台石の高さ22cm、幅66cm、奥行43cm。
題字は「趣長辞短」で、その下を4段に区切り、奥戸を中心とした人々の俳句を各宗匠撰別に列挙してあります。
右下の欄外に「明治二十年亥一月吉辰」、左下の欄外に「関 清太郎謹書・当村石工 遠田清吉彫刻」とあり、この地域に俳句が
盛んであったことをしのぶことができます。 葛飾区教育委員会」
<日露戦役等碑>
説明板によると、「武蔵御嶽神社」「道祖神」「出羽三山神社」とあります。
出羽三山神社は、供養塔ですね。
「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」(文政10年4月)