Discover 江戸史蹟散歩
 
 谷中と寺社A

  ○ 瑞輪寺
    ・大久保主水墓
    ・大久保主水忠記の井戸

  ○ 祖師堂七面堂


瑞輪寺  台東区谷中4-2-5

 山門に「全国潮師法縁本部」、石標「慈雲山瑞輪寺」

   
 

<説明パネル>

 日新上人は徳川家康公が幼少の頃、学問教育の師範でありました。
 徳川家康公は、天正19(1591)年に瑞輪寺本堂を創建しました。

    
 

<本堂>

 平成16(2004)年に大修復。屋根には葵紋。

    

   
 

<鐘楼堂>

 当初の鐘楼堂は、徳川家光が寄進しています。

  
 

<庫裡>

    
 

<客人稲荷大明神>

    
 

<河鍋暁斎之墓>(台東区史跡)

   
 

大久保主水墓>(東京都旧跡)

 大久保主水の墓は、鐘楼を案内に従って左に行き、八角井戸の脇を通って突き当たると、
 標石「大久保忠行之墓」があります。

 大久保忠行(藤五郎)は、もと徳川家康の家臣であり、神田上水の開発や幕府儀礼の創始など、
 多くの事蹟を残した人物です。

(説明板)
「大久保主水墓(都旧跡)
    台東区谷中四丁目二番五号 瑞輪寺
 名は忠行、または藤五郎と称す。三河国の武士で、徳川家康に仕え三百石を給されていた。一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし、以降、家康に菓子を献じたという。
 天正十八年(一五九○)家康は江戸に入り町づくりを始める。用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功した。これを神田上水といい、江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。
 この功により、家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を務めた。元和三年(一六一七)没。
 なお、墓への通路脇にある八角形の井戸「大久保主水忠記の井戸」は、天保六年(一八八五)十代目忠記が、忠行の業績を顕彰したものである。平成二十三年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
    平成二十七年三月  台東区教育委員会」

    
 

 主水の墓は一番左で、標石「従五位 主水忠行之墓」が左脇に立っています。

    

 主水の墓から順に右へ、「清浄院殿蓮乗法修日富」「蓮台院月宝尼墓(忠行の妻)」
 「宝乗院殿墓(2代大久保忠元)「寿天院殿長古日照居士墓(3代大久保忠辰夫婦)」
 「久成院殿道寿日長居士墓(4代大久保忠武夫婦)」

    
 

大久保主水忠記の井戸> 台東区文化財

 江戸幕府の御用菓子屋を務めた大久保主水家の10代忠記が、
 忠行の業績を顕彰し天保6(1835)年に寄進しました。
 八角柱の石造井筒で、上面には八卦、側面には銘文が刻まれています。

   


飯匙祖師堂 台東区谷中4-2-46

 道灌山の由縁に太田道灌と関道閑がありますが、関道閑ゆかりの飯匙祖師堂に参詣。
 最初瑞輪寺に行って、祖師堂が見当たらず、恥ずかしながら社務所で聞きました。
 瑞輪寺本堂から離れた敷地にあります。
 瑞輪寺境内から一端外に出て左に進み、通りを左折すると道沿に祖師堂があります。

 左門柱に「除厄安産 江戸十大祖師 飯匙(しゃもじ)祖師」、右門柱に「東京七面山」とあります。

    

   

 
<飯匙祖師堂>

 文永11年(1274)3月、関善左衛門の妻が難産で日蓮聖人に救いを請うと、
 飯匙に御本尊をしたため産婦にいだかせたところ安産し、
 関氏は聖人の御尊像を彫み、善性寺を建立しその尊像を安置しました。

 御尊像は、後に感應寺(現:天王寺)に移され、元禄11(1698)年、感應寺破却に際して
 瑞輪寺に移遷されました。
 (善性寺HPでは、善性寺が日蓮宗に復帰した時に保管していた瑞輪寺から善性寺に戻され、
 その後江戸末期に瑞輪寺に移されたとしています。)

 善性寺のホームページでは、
 「善性寺の開基を「関善左衛門」とする説もありますがこれは誤りで、感応寺とともに
 関小次郎長耀入道道閑が開基にあたりました。」とあります。
 関善左衛門と関長耀(出家後道閑あるいは道観)は別人物としていますが、伝承内容がほぼ同じです。
 

<祖師堂のしゃもじ>

 壁2か所にシャモジが奉納されています。

     

(説明板)
「江戸十大祖師
 安産飯匙の祖師由来
 文永十一年(一二七四)三月十三日
日蓮聖人佐渡配流、赦免となり鎌倉に向かうの途路、武蔵国粂川の辺りに関善左衛門という者あり、その妻難産に苦しみ救いを請う、聖人その家に入り、飯匙ありたるに御本尊をしたため産婦にいただかせ給うに、たちどころに安産して母も子もつつがなし、一家一門その感応を拝みて入信、かしこみて聖人の御尊像を彫みて武州谷中(現在東日暮里)に善性寺を建立しその尊像を安置す。
のち谷中感王應寺(現在の天王寺)に移す。
以来安産救護の利益あらたかに多く庶民の信仰を得、元禄十一年(一六九八)十一月十二日、感應寺改宗を命せられし折り、御尊像を瑞輪寺に勧請、利益昔に変わらず。
    平成二十一年五月吉日
      瑞輪寺第五十七世
        井上日修代」

  
 

<祖師像>

 祖師像の両脇にシャモジがあります。

   
 

<関善左衛門位牌>

 祖師像右側に、関善左衛門の位牌が安置されています。

  
 

東京七面山> 台東区谷中4-2-45

 昭和34(1959)年に本堂から現在の地に七面堂を新築し勧請されています。

   
 

<鳥供養の包丁塚>

 施主に「日本全鳥調理師司」と刻されています。
 「鳥供養 庖丁塚」「日本全鳥調理師司処 日本全鳥割烹調理師連盟」(右)「包潤協会」(左)
 「百度石」がすぐ脇にあります。

   

     


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