浅草寺の随身門(二天門)を左手に見て、北に向かう道が馬道です。
遊客が馬を利用して新吉原へ通う道であったことから起ったとの江戸時代からの俗説がありますが、
馬道は家康が江戸入城前から存在しています。
馬道が駕籠道になる繁盛さ(川柳)
馬道で横ぞっ方へ手を合わせ(川柳)
<旧町名由来案内「旧浅草馬道」>(二天門交差点の角に設置 台東区花川戸1-15)
(説明板)
「「馬道」という町名は相当古くからあり、「御府内備考」によるとすでに江戸時代初期には南馬道町、北馬道町の名があった。ちょうど浅草寺境内から二天門を通り抜けた左手に南馬道町、その北隣りあたりが北馬道町である。享保十五年(一七三○)には二天門の右手に南馬道新町ができるなどして浅草寺の東側一帯に浅草寺子院街として発展したが、明治十年(一八七七)この付近が整理統合され浅草馬道町ができた。そして昭和九年(一九三四)さらに浅草馬道町は隣接する幾つかの町を合併して町域を広げるとともに、町名を浅草馬道に改めた。
町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。 台東区」
上記旧町名由来案内では、
「町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおり
この付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。」としています。
下谷・浅草町名由来考(台東区)でも、
浅草寺の僧が、北方にある「僧正ヶ馬場」へ乗馬練習に通った道だからとしています。
「江戸名所図会 馬市 藪の内」
「馬市
藪の内といへるにあり 毎歳十二月なかばのころ
南部駒三歳立なるを ここに出して売買す。」
挿絵には、馬を購入前に試乗する武士と馬が躍動しています。
「江戸切絵図」
「俗ニ藪之内ト云」とあります。現在の花川戸2丁目辺りです。