○ 不忍池弁天堂
○ 聖天島
○ 浮世絵に見る不忍池
○ 明治初期の不忍池
○ 上野不忍池競馬
「江戸名所図会 忍はすの池 中島弁財天社」
江戸名所図会に描かれています。
全掲「東叡山黒門前忍川三橋」と繋がっており、合成した図会です。
「江戸名所図会 不忍池蓮見」
蓮の名所で、茶屋では蓮飯を出しました。
○不忍池弁天堂
ユニークな石碑の多い弁天堂です。
【参道右手】
<中根半僊碑>
江戸時代の医師・書家の碑。
<不忍池由来碑>
碑の裏に「不忍池由来記」が記されています。
<めがねの碑>
徳川家康が所持していためがねがデザインされています。
<長谷川利行歌碑/利行碑>
日本のゴッホとうたわれた長谷川利行の碑です。
【弁天堂前】
<宇賀神>
<琵琶の碑>
青銅の琵琶碑です。
【参道左手】
<芭蕉翁>
句が刻まれていないので、芭蕉塚でしょうか。
<ふぐ供養碑>
岸信介謹書
<長唄碑>
長唄中興の祖である杵屋六三郎を賛辞する碑。
<八橋検校顕彰碑>
<地蔵尊>
<扇塚>
<スッポン感謝之碑>
「スッポン感謝之碑 蘇叟九十二」
徳富蘇峰氏92歳の時の揮毫です。
裏には、スッポンへの感謝が書かれています。
<いと塚> <五輪塔>不詳
いと塚は、三味線の糸の供養塚です。
<東京自動車三十年会記念碑>
<真友の碑>
上田碩三(電通社長))とマイルス・ボーンUPI副社長が
東京湾の突風で亡くなったことを悼み建てられた記念碑。
<暦塚>
「暦塚」の題字は、中曽根康弘内閣総理大臣による揮毫、昭和58(1983)年の建立。
「太陽が人間に「時」を教えた」
「人類が最初に知った科学は天体のうごきかたであった」
<藤棚下>
【弁天堂裏】
<筆塚>
<包丁塚>
<蓮華の歌碑>
不忍池の蓮花を詠んだものです。文政11(1828)年の建立。
<鳥塚>
弁天島で一番大きな碑です。
東京食鳥鶏卵商業協同組合及び東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合の組合員有志が
昭和37(1962)年に建立したものです。
<奥の院>
平成元年9月改築。
鉄柵は施錠されていますが、巳の日には開錠されるようです。
<幕末之剣豪櫛淵虚仲軒之碑>
○大黒天堂
参道右手に大黒天堂があります。
<魚塚>
聖天島は、弁天島から突き出た円形の小島です。
普段は施錠されていますが、巳の日限定で開放されます。
2021年最初の初巳は1月9日(土)です。
<手水鉢>(延宝八年(1680)七月)
三猿が刻まれた庚申手水鉢。
<庚申供養塔>(元禄三年(1690)二月)
青面金剛像(上部破損)と3猿(台石)。
<役の行者石像(髭地蔵)>
男根象は後姿で、表は高下駄を履いた修験道の開祖・役小角の像です。
<御嶽山碑など>
「東都名所 上野山王山 清水観音堂花見 不忍之池全図 中島弁財天社」(広重)
「絵本江戸土産 其二 不忍池全図中島辧天之社」(広重)
「東都三十六景 不忍池」(二代広重)
「江戸名所道戯尽 六 不忍池」(歌川広景)
男性は、花見で酔っぱらったのでしょう、ドブに落ちたようで、
泥まみれの草履を片手に持ち。左半身が泥だらけです。
「泥田棒」(北斎漫画 北斎)
北斎の絵が元ネタのようです。
「江戸名所百人美女 しのはず弁天」(豊国・国久)
こま絵には、弁天島や対岸に茶屋が並んでいます。
本来は、蓮を鑑賞するために設けられた茶屋ですが、出会茶屋で有名になりました。
襦袢姿の女性は、「片はずし」と称される髪型から御殿女中であることがわかります。
裾部分に柄のない白一色の中着は大奥女中の典型のようです。御簾紙を口に咥えています。
寛永寺に将軍や御台所の代理で参拝に来た大奥女中は、帰りに弁天様にお参りするとして、出会茶屋に入ったようです。
「池の端花火」(小林清親)
弁天堂がシルエットで浮かびあがっています。
「不忍池雨中図」(小林清親)
不忍池の南から弁天堂を眺めた光景です。
「池の端弁天」(小林清親)
不忍池の西から弁天堂を眺めた光景です。
「池の端雪」(井上安治)
「東京開化狂画名所 不忍辨才天 雷蓮池へおちる」(月岡芳年 都立図書館蔵)
不忍池は雷が落ちることが多かったのですかね、
雷を落としすぎて雷さま自身も落ちてしまったようです。
上野不忍池競馬は、明治17(1884)年から明治25(1892)年まで、
上野不忍池の周回で行われていました。
明治17(1884)年、競馬場の完成を記念する秋季競馬が11月1日から3日間にわたり開催されました。
明治天皇や皇族も観覧に訪れました。
(こちらで記載)