Discover 江戸史蹟散歩
 
 築地外国人居留地跡

  ○ 築地外国人居留地跡
  ○ 新島原遊郭
  ○ 築地ホテル館
  ○ シーボルト像
  ○ カトリック築地教会聖堂

  ○ 浅野内匠頭屋敷跡
  ○ 芥川龍之介生誕の地

  ○ 築地川公園
 
     


築地外国人居留地跡 中央区明石町1-15

 明治2(1869)年に築地鉄砲洲(現在の中央区明石町一帯)に、外国人居留地が設けられました。
 この場所を発祥の地とするキリスト教系の学校も数多く設立されました。

 明石小学校の角地に居留地跡碑があります。
 居留地時代のレンガ塀遺構とガス街灯が残っています。

    

(説明板)
「築地外国人居留地跡  所在地 中央区明石町地区
 安政五年(一八五八)六月、江戸幕府はアメリカと修好通商条約・貿易章程に調印し、これを原型として同年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスともそれぞれ締結しました(安政五カ国条約)。
 この条約に基づき、箱館(函館)・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の五港を開港し、江戸・大坂(大阪)の開市を取り決めました。日本における外国人居留地は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区として開港場・開市場の土地に設けられました。
 江戸(東京)の開市は、明治元年十一月十九日、明治新政府のもとで実現し、現在の明石町地区に築地外国人居留地が設定されました。
 築地外国人居留地は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。
 このため、築地外国人居留地で発祥・開設されたキリスト教系の学校も多く、現在も校名や所在地を変えながら発展を続けており、当地区内には発祥を記念した石碑が数多く建てられています。
 文教地区として大きな特徴を持っていた築地外国人居留地は、条約の改正によって明治三十二年に廃止されるまで、日本の近代化に多大な影響を与えた一地区を形成していました。

居留地時代のレンガ塀遺構
 右にあるレンガは、イギリス積みで積まれた築地外国人居留地時代のレンガ塀遺構の一部です。明治期
に居留地の五十二番(明治十一年〜三十二年:聖パウロ教会)と四十二番(明治九年〜二十二年:新栄女学校、明治二十八年〜三十二年:東京中学院)の地境に建てられて以降、関東大震災や空襲による戦禍を免れ、現在の明石町一番二十三号と明石町十五番(明石小学校)の地境にあたる場所に残されてきました。
 このレンガは、平成二十四年七月に竣工した明石小学校の整備にあわせてここに移設したもので、明治期の当地域に外国人居留地があったことを物語る貴重な遺構として保存しました。

ガス街灯の柱
 このガス街灯の柱は、コリント風の様式で上部にある左右二十センチメートルの腕金や下部に施された帯状の操り形など、特徴的な装飾が見られる鋳鉄製の柱です。照明ランプ部分は、電気灯として使用されていたランプを修復した上で、後年に取り付けたものです。
 柱部分は、形状や材質などから判断して、明治末年頃のガス街灯のものであると推定されます。明治情緒を偲ばせるガス街灯の柱からは、文明開化の象徴として輝いていた頃の様子が想像されます。

(「東京築地鉄砲洲景 歌川国輝画」を掲示)
  平成二十五年三月  中央区教育委員会」

  

「東京築地鉄炮洲景」(歌川国輝 明治2(1869)年)

 説明板に掲示されている「東京築地鉄炮洲景」(国立国会図書館蔵)です。
 築地居留地一帯の様子を細かく描写した6枚続の錦絵です(6枚を連結しています)。
 明治元(1868)年、東京は開市しました。
 左に「新島原遊廓」、その右上に「築地居留地」、中央に15ヶ国の国旗が翻り税関にあたる事務所、右奥に「築地ホテル館」が描かれています。
 下段には、内外語の日常会話が加えられています。
 明治5(1872)年の大火後も、教会・学校・病院などが次々と建てられました。

  

新島原遊郭 現:中央区新富一丁目〜銀座一丁目

 「東京築地鉄炮洲景」から「新島原遊郭」部分の抜粋です。
 築地居留地が設けらるのに伴い、居留地の外国人の利用を当て込んで設けられたのが「新島原遊郭」です。
 四方を塀で囲み、中央の大通りは「仲ノ町」と名付けられています。
 明治4年7月に廃止されました。

  

築地ホテル館 現:中央区築地6-20

 「築地ホテル館」部分の抜粋です。右手に「波除稲荷社」(赤○印)が見えます。
 築地居留地の設立にあわせて外国人のためのホテル「築地ホテル館」(現:中央区築地6-20)が、
 慶応4(1868)年に完成しました。完成からわずか4年後の明治5(1872)年に焼失しました。
 東京の新名所として多くの見物人が訪れ、錦絵にも多々描かれました。

  


シーボルト像 中央区築地7-2(中央区立あかつき公園)

 中央区立あかつき公園は、明石堀を昭和45(1970)年に埋め立て昭和46(1971)年に設置された公園です。
 扇形だった明石堀の名残で、公園敷地は扇形となっています。公園内に「シーボルト像」があります。

「江戸切絵図」

 江戸切絵図から、明石堀(築地川)部分の抜粋です。

  

<シーボルト像>

(碑文)
「Een Borstbeeld de Siebold(シーボルトの胸像)
 この胸像は、オランダのライデン大学とイサーク・アルフレッド・エリオン財団から日蘭修好を目的として、朝日新聞社の尽力によって中央区に寄贈されました。
 昭和63年6月18日」

(説明板)
「シーボルト (一七九六〜一八六六)
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医院として文政六年(一八二三)七月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。
 同九年正月、商館長と共に江戸へ向かい、三月四日、日本橋の長崎屋に止宿し、四月十二日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、同十一年(一八二八)九月シーボルト事件が発生し、十二月に日本から追放された。後に安政六年(一八五九)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。
 彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。
  中央区教育委員会」

    

    

「シーボルト肖像」(国立オランダ図書館蔵)

  

「楠本イネ」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 文政10年5月6日〜明治36年8月26日(1827年5月31日〜1903年8月26日)
 シーボルトの娘。日本最初の洋方産科女医。文久元(1861)年長崎で開業。
 明治3(1870)年上京し、明治10(1877)年まで築地で産科を開業しました。
 娘の高子は、メーテル(銀河鉄道999)のモデルとされています。

  


カトリック築地教会聖堂 中央区明石町5-26

 中央区教育委員会説明板「カトリック築地教会聖堂・銅製洋鐘」があります。
 ギリシャ神殿を思わせる様式ですが、なんと石造りではなく、木造モルタル塗の建物です。

    


浅野内匠頭屋敷跡 東京都旧跡 中央区明石町10

 聖路加国際大学の敷地内、築地川公園に面して「都旧跡 浅野内匠頭邸跡」石碑が建っています。
 寛文7(1667)年、浅野内匠頭長矩はこの地で生まれ、
 元禄14(1701)年、松の廊下で刃傷事件を起こし、即日切腹、お家断絶となりました。

(説明板)
「東京都指定旧跡
 浅野内匠頭邸跡
  所在地 中央区明石町一番(一部)・一○番・一一番地区
 常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)藩主であった浅野長直(官職名・内匠頭)は、正保二年(一六四五年)に領地替えによって、播磨国赤穂藩(赤穂郡とその隣接地を含めた五万三五○○石の所領)へ入封しました。そして、長直の子・長友(官職名・采女正)の代に所領の一部を親族へ分知与して五万石となります。延宝三年(一六七九年)には、父・長友から家督を継いだ長矩が赤穂藩第三代藩主となり、後に祖父と同じ官職名の内匠頭を与えられました。
 江戸時代に鉄砲洲と称されていた当該地には、江戸中期頃まで赤穂藩浅野家の上屋敷が置かれていました。当時の赤穂藩邸は西と南の二面が川(堀割)に面した広大な敷地(およそ八九○○坪)であったことが古地図からも確認できます。
 しかし、元禄十四年(一七○一年)三月十四日、勅使御馳走役(饗応役とも)を務めていた浅野内匠頭長矩が、江戸城の松之大廊下において儀式・礼儀を司る高家職の吉良上野介義央に対して刃傷におよんだため、即日切腹を命ぜられました。この事件によって江戸上屋敷や所領は没収され、赤穂藩主浅野家は断絶となりました。
 なお、浅野家旧臣たちは、主君の仇を討つため元禄十五年十二月に本所・吉良邸へ討ち入った事件は、後の世にも語り継がれる歴史的事件の一つとして知られています。
 本懐を遂げた浪士たちは、浅野家の菩提寺である泉岳寺へ向かう途中で旧上屋敷付近を通ったとも伝えられており、当該地は赤穂事件に関係する縁の地の一つとして東京都の旧跡に指定されています。
  平成三十一年三月  中央区教育委員会」

   


芥川龍之介生誕の地 中央区明石町1-25

 説明板「芥川龍之介生誕の地」があります。平成31年3月の説明板です。
 これまで設置されていた場所(明石町10-1)から居留地通りに移転しています。

  

<芥川龍之介生誕の地>

(説明板)
「芥川龍之介生誕の地  所在地 中央区明石町一〇番付近
 明治十六年(一八八三)ごろ、この付近(当時の京橋区入舟町八丁目一番地)に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。
 作家芥川龍之介(一八九二〜一九二七)は、明治二十五年三月一日、その経営者新原敏三の長男として、ここに生まれました。
 龍之介は誕生後七ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国三丁目)に移り、明治三十七年(一九○四)、芥川家の養子になりました。
 東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、第四次「新思潮」に発表した「鼻」が夏目漱石に評価され、文壇に出ました。『羅生門』、『地獄変』、『河童』、『歯車』など、多くの名作を遺しました。
  平成三十一年三月  中央区教育委員会」

     


築地川公園 中央区明石町・築地

 築地川を埋め立ててできた公園です。こちらで記載


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