Discover 江戸史蹟散歩

 築地 波除神社


○波除神社 中央区築地6-20-37 HP
 
 晴海通りの案内板です。

  
 

<鳥居/社号標>

    
 

<奉納吉野家>

 鳥居をくぐって、すぐ右手に「奉納吉野家」があります。
 2016(平成28)年8月31日造立。
 吉野家の碑ができていたとは気がつきませんでした。
 
 築地場内では寿司大や大和寿司で食べ、場外ではすし好でテイクアウトしていたので、
 吉野家築地1号店では数度食べただけでした。人多くてどこも写真撮れないし。
 2018(平成30)年10月6日閉店です。

  「ここ築地の地に、
  牛丼の吉野家の創業店がありました。
  吉野家の歴史は、かつて栄えていた日本橋の魚河岸で、
  明治三二年に開業したのが始まりです。
  屋号は、創業者・松田栄吉の出身地である
  大阪・吉野町より名づけられたと伝えられています。
  その後、関東大震災の影響により、
  大正一五年、魚河岸とともにこの地に移転いたしました。
  東京大空襲によって店舗は焼失しましたが、
  終戦後、すぐに屋台の営業を再開。
  そして昭和三四年、「築地一号店」を開店したのです。
  当初、具材には季節の旬な食材と豆腐なども、
  盛り込まれていましたが、
  市場で働く人々が牛丼を注文するのは、
  牛肉が食べたいからなのです。
  二代目社長、松田瑞穂は、
  そんな想いに応えてメニューを改良。
  より多くの牛肉と、味わいを深めるための玉ねぎだけを使った
  シンプルな牛丼を生み出しました。
  この牛丼は市場で大いに愛され、
  またたく間に各地へとひろがり
  日本人のお腹を満たす国民食となっていったのです。
  平成二八年、再び市場の移転にともない、
  「築地一号店」も移転することになりました。
  この地で永きにわたり多くの方々に、
  ご愛顧いただいてまいりました
  「はやい、うまい、やすい」
  吉野家の牛丼は、
  まさにこの土地で育まれた味なのです。」

    

<かつての吉野家築地1号店>

    

<奉納魚がし碑> 大正14年4月

 吉野家の隣に、奉納魚がし碑があります。

  
 

○海産物の碑

 市場関係者奉納の海産物の碑が境内左手に並んでいます。
 弁天社脇に、玉子塚、末社、すし塚(すし塚の由来)、海老塚(奉納 海老の大丸)、鮟鱇塚、活魚塚、
 蛤石、おきつね様、昆布塚とあります。

   

<玉子塚> 平成5年11月

   

<すし塚> 昭和47年11月

   

<海老塚> 昭和48年9月

  

<鮟鱇塚> 昭和48年7月

   

<活魚塚> 昭和59年5月

  

<蛤石>

  

<おきつね様>

  

<昆布塚>平成28年12月

  

<大獅子頭新調・大御輿修理>

  
 

<波除稲荷神社説明板>

(説明板)
「波除稲荷神社
   所在地 中央区築地六丁目二○番三七号
 波除稲荷神社の創建は万治年間(一六五八〜一六六一)と伝えられています。築地一帯の埋立てが進められた万治年間、波浪により工事が難航を極めた際、海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が治まり、埋立て工事が無事完了したと言われています。「波除」という尊称はこの故事に由来するもので、江戸時代以来、航海安全や災難除け・厄除けなどの神として人々に篤く信仰されてきました。
 波除稲荷神社の祭りは、江戸時代から獅子祭りとして知られ、祭りの際には数多くの獅子頭が町をなり歩きました。獅子頭の多くは震災・戦災などで失われましたが、現存する嘉永元年(一八四八)製作の獅子頭一対(中央区民文化財)は社宝として本殿に安置されています。なお、現在でも毎年六月の「つきじ獅子祭」では、「厄除け天井獅子」や「弁才天お歯黒獅子」が巡行されることがあり、獅子祭りの伝統を伝えています。
 また、本殿前にある天水鉢二基(中央区民文化財)は、尾張藩船からの積荷の陸揚げに従事した小揚たちが天保九年(一八三八)に奉納したものです。江戸時代、旧築地市場の南半分には尾張徳川家の蔵屋敷があり、米穀や尾張の特産品などが運び込まれていました。船の無事を祈って奉納したこの天水鉢は、波除稲荷神社への信仰を伝える貴重な文化財です。
 平成二十二年三月  中央区教育委員会」

   
 

<案内図>

   

  
<御本社>

   
 

<摂社弁財天社>

 「お歯黒獅子」は江戸時代に東都名物。
 手水鉢は昭和12年4月奉納。

   
 

<獅子殿>

   
 

<七福殿>

  


戻る