Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 鉄砲洲

  ○ 鉄砲洲
  ○ 稲荷橋
  ○ 桜川屋上公園
  ○ 桜川公園
  ○ 鉄砲洲稲荷神社


鉄砲洲 中央区湊

 鉄砲洲の名は砂洲が細長く鉄砲の形をしていたこと、あるいは大砲の試射をしたことに由来すると言われます。
 湊稲荷(現:鉄砲洲稲荷神社)には富士塚が築かれました。
 鉄砲洲の港には各地からの廻船が入港したことから、船乗人の海上守護の神として信仰を集めました。
 明治になってから100メートルほど南西に移転しています。
 

「江戸名所図会 湊稲荷社」

 江戸名所図会に「湊稲荷社」が描かれています。稲荷橋や富士塚が見えます。

 (解説文)
 「此地ハ廻船入津の湊にして 諸国の商船普くここに運ひ 碇を下して此社の前にて積所の品を悉く問屋へ運送す
  此故にや近世吉田家より湊神社の号を贈らるる 当社は南北八丁堀の産土神なり」

   
 

「名所江戸百景 鉄砲洲稲荷橋湊神社」歌川広重

  
 

「江戸自慢三十六興 鉄砲洲いなり富士詣」歌川広重

 富士塚はかなり大きく描かれています。
 富士山の御祭神である木花咲耶姫命は、美人には嫉妬深く、美人がお参りすると雨を降らすといいます。
 富士の中腹に傘を差している人物が見えます。富士詣での帰りの女性は傘を持っています。
 富士詣での土産として、人気を博したのが麦藁細工の蛇で、
 駒込の富士詣が発祥の地で、各地の「お富士さん」の祭礼で売られるようになりました。
 少女は麦藁細工の蛇を手にしています。

    
 

「東都名所年中行事 六月鉄砲洲ふじ詣」(広重)

 富士詣での帰りの女性は傘を持っています。
 少女が肩にかついているのも麦藁細工の蛇でしょう、蛇の目が2つ見えます。

   
 

「江戸名所百人美女 鉄炮洲」(豊国・国久)

 こま絵に鉄砲洲富士が描かれています。
 屋根船には「荒」の提灯と「あらいや」の行火が見えます。
 船中には料理と酒が置かれ、これから船遊びのようです。

   
 

「絵本江戸土産 鉄砲洲湊稲荷境内の不二」歌川広重

 「この稲荷はいと古くして鎮座年暦詳らかならず
  その境内に冨士を造り浅間宮を安置せり」

 この絵も富士塚に描かれている鳥居からすると、かなりな大きさに描かれています。
 江戸湊(東京湾)に廻船の帆柱が多く見えます。

  
 

「江戸切絵図 築地八町堀日本橋南之図」

 江戸切絵図の抜粋です。
 鉄砲の形をしている鉄砲洲、その先端に「イナリ」と書かれた湊稲荷社が見えます。

   


稲荷橋

 「稲荷橋」あるいは「いなりはし」と書かれた橋標が残ります。「八丁堀」の名残です。
 「八丁堀」は京橋川から隅田川への掘割で、長さが八丁あったことからその名がつきました。
 明治期に「櫻川」と名を改め、昭和61年に埋め立てられました。

 橋名の由来となった鉄砲洲稲荷神社は、明治になってから100メートルほど南西に移転しています。
 

<橋標> 中央区湊1-8-15

 「稲荷橋」橋標があります。
 歩道の後ろには、鉢植えに利用されている発掘された土管があります。

     
 

<橋標 中央区八丁堀4-12-11>

 桜橋第二ポンプ所の前にあります。

   
 

<かつての河口>

 鉄砲洲通りの歩道には、亀島川沿に親水空間が設けられています。

     


桜川屋上公園 中央区湊1-1-2

 桜川の埋立地に建つ公共施設の屋上を利用した公園です。
 稲荷橋からはスロープとなっています。

    
 

 目の前には「亀島川温泉新川の湯」。
 屋上には水路と池があります。

     


中央区立桜川公園 中央区入船1-1-1

 桜川屋上公園に続いて、桜川公園も桜川の埋立地です。
 公園入口に「MOON LIGHT STAGE」(月舞台)があります。

   
 

<八丁堀(桜川)跡>

(説明板)
「八丁堀(桜川)跡
  所在地 中央区八丁堀四丁目 新富・入船・湊の各1丁目 地域
 江戸時代初期、京橋川の下流から隅田川へと流れ込む通船のための水路が開削され、この堀割を「八丁堀」と称していました。
 八丁堀の開削年や名称の由来には諸説ありますが、『京橋区史』には、南八丁堀一丁目と本八丁堀一丁目の間より東流し、桜橋、中ノ橋、稲荷橋を過ぎ亀島川に会して海に入る。慶長十七年(一六一二)に漕運の利を謀りこれを鑿つ、当時海口より凡そ八丁(約八七○メートル)なるを以ってこの名ありと書かれています。
 なお、地域名としての八丁堀は、堀を境に北側の地域一帯を本八丁堀(北八丁堀)、南側の河岸地一帯を南八丁堀と称し、広範囲にわたっていました。
 通船堀としての八丁堀は、明治になって「桜川」と改称され、関東大震災後の復興事業を経て新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋が架けられました。
 昭和三十五年から昭和四十一年頃には、中ノ橋から稲荷橋までを残して桜川の上流が埋め立てられ、その後、桜川は完全に埋め立てられました。
 埋立地の一部は、桜川公園として整備され、この辺りに堀割があったことをしのばせています。
  平成十七年三月  中央区教育委員会」

   
 

<入一観音菩薩> 中央区入船1-1-26

 公園入口脇に「入一観音菩薩」があります。
 「むしば祈祷石」が置かれています。

    


鐵砲洲稲荷神社 中央区湊1-6-7

<大鳥居 社号標など>

 狛犬の表情が愛嬌あります。

(説明板)
「鐵砲洲稲荷神社  所在地 中央区湊一ー六ー七
 鐵砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。
 神社は、寛永元年(一六二四)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(一八六八)現在地に移転し、今日に至っています。
 関東大震災により被害をうけた境内は昭和十年(一九三五)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向かい合うように配置され、境内西南隅に神楽庫が設けられています。また、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。むかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なものでした。
 境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残りをとどめている点から、共に中央区民文化財に登録されています。
  平成五年三月  中央区教育委員会」

     

    

    
 

<百度石>
 大正14(1925)年の造立。

  
 

<神楽殿> 

  
 

<手水舎>

   
 

<天水桶>
 「六番組」

  
 

<二宮尊徳像>
 「平成十四年正月奉献」。新しいのは珍しいですね。

   
 

<社殿>

 地階のある社殿です。

   
 

<摂社八幡神社>

 左から、天満社・三輪社・浅間社・八幡神社・琴平神社・住吉社

     

      
 

<和平神繆斌顕彰碑>

 知りませんでしたが歴史の一コマ。

    
 

<東久邇宮・蒋介石使者繆斌談笑画像碑>

   
 

<針塚>

   
 

<2個の力石> 中央区民有形民俗文化財

 力石が社殿に向かって右側にあります。
 「力石」「三十貫」「享保十九年正月」などの刻銘。

   
 

<富士浅間神社>(鐵砲洲富士) 中央区民有形民俗文化財

 移転の度に小さくなったようです。

     

      

     


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