巣鴨
○ 本因坊歴代の墓(本妙寺)
パイオニアINNの角に、本因坊屋敷跡の説明板があります。
(説明板)
「本因坊屋敷跡 43
ここに本因坊屋敷跡がありました。本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋士を輩出してきました。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来しています。
もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたため、その代地として元禄元年(一六八八)、この場所が屋敷となりました。江戸期を通じて、常に囲碁四家元(他に安井家、井上家、林家)の筆頭の地位にあり、道策、丈和、秀和、秀策などの棋士を生んでいます。特に江戸末期の秀策は、史上最強の棋士として「棋聖」と呼ばれました。
現在は、実力制で争われるタイトル戦のさきがけとして名が残っています。
墨田区」
<馬車通り>
説明板から歩道に目をやると、芥川龍之介のモニュメント、芥川龍之介生育の地でもあります。
馬車のモニュメントが続いています。前の道路は、「馬車通り」で、昔は乗り合い馬車が走っていました。
本妙寺は、広大な染井霊園の北にあります。
史跡案内板に史跡一覧が掲示されています。境内図に史跡の場所が示されています。
墓地内に案内板もあり、わかりやすい。
染井霊園にも案内図があります。
<本因坊歴代の墓>
本因坊家の墓の前には日本棋院の説明板があります。
三世の道悦までは京都の寂光寺に葬られていますが、
四世の道策から二十一世の秀哉まで歴代本因坊は本妙寺に葬られています。
中央:「秀哉」本因坊の名跡を日本棋院に寄付、本因坊の称号はタイトルとなりました。
左;「秀栄」 右:「秀元」
「丈和」「烈元」
「伯元 秀和」(2名はひとつの墓) 「秀策 道知 道的」(3名はひとつの墓)
「道策」「丈策 秀伯 知伯」(3名はひとつの墓)
「察元 秀悦」(2名はひとつの墓) 「秀甫 元丈」(2名はひとつの墓)
「小岸壮二の墓」
二十一世本因坊秀哉の後継者と期待され二十二世本因坊となっていたかもしれない
小岸壮二は27歳で夭逝、歴代本因坊の墓地に葬られています。秀哉の墓と向き合っています。
「土屋家の墓」
秀和の後、息子の秀悦、秀栄、秀元の3人も本因坊家当主となっています。
歴代本因坊家の墓所は秀和の子孫の土屋家により管理されています。
秀和の孫、土屋半七(長男・万吉の子)も棋士でしたが、1952年に32歳で夭折。
土屋家の墓には、土屋半七の俗名も刻まれています。
「本因坊以外の墓」
わからなかった墓々ですが、烏鷺光一の「囲碁と歴史」に情報がありました。
・本因坊烈元の妻の墓
左手奥は、本因坊烈元の妻の墓だそうです。
・奥貫智策の墓
真ん中辺りの墓。
奥貫智策は十一世本因坊元丈門下で、元丈の跡目として期待されていましたが
27歳で夭逝。智策の死により丈和が跡を継ぎます。
・宮重策全の墓
手前の墓。墓石の下段に「宮重氏」と刻まれています。
宮重策全は十一世本因坊元丈の実子です。
<明暦三年大火供養塔(振袖火事)>
(本妙寺HPに掲載の説)
「明暦三年(1657)1月18日未刻(午後2時頃)に出火し、折からの強風に煽られて、江戸城本丸・二の丸をはじめ江戸市中の6割余りを焼きつくし、死者約十万人に達した大火が「明暦の大火」です。
そして火元となったのが本妙寺で、原因は本妙寺の檀家の娘の供養のために燎火に投じた振り袖が舞い上がって本堂の屋根に飛火したことによるものとされ、俗に「振袖火事」といわれています。
しかしこれは伝説で、火元が本妙寺であるということに関しても不審が多く、「本妙寺火元引き受け説」も語られています。
この大火の後、江戸の町は市街地が整備され、今日の東京の町並みの原型ができました。そうした中で移転させられた寺も多くありましたが、火元といわれた本妙寺は本郷丸山を動かず、罰も受けずに復興し、寛文七年(1667)には幕府から日蓮聖人門下勝劣派の触頭に任ぜられました。」
江戸後期の北町奉行、遠山金四郎景元墓(東京都指定旧跡)。
説明板は山門脇にあります。
標柱「名奉行 遠山金四郎景元の墓」
(説明板)
「東京都指定旧跡 遠山景元墓
所在地 豊島区巣鴨五の三五の六本妙寺墓地内
標識 昭和三年三月
指定 昭和三○年三月二八日
遠山景元(一七九三ー一八五五)は、江戸時代後期に長崎奉行を務めた遠山景普の子として生まれ、通称を金四郎といいます。小目付、小納戸頭取、小普請奉行、作事奉行、勘定奉行などを歴任した後、天保一一年(一八四○)、北町奉行に任ぜられ、天保一四年(一八四三)、天保の改革の進行中に大目付に転じた後、弘化二年(一八四五)、南町奉行となり、以後七年間にわたり務めました。
下情に通じた江戸時代屈指の名奉行として、さまざまな伝説が伝わっています。景元の功績として、例えば、天保の改革の際、芝居町の取り壊し策を場所の移転でとどめ、芝居を存続させたことがあります。嘉永五年(一八五ニ)の隠居後は、悠々自適の生活を送っていましたが、安政二年(一八五五)に病没、本郷丸山の本妙寺に葬られました。その後、明治時代に寺の移転に伴い、現在の場所に改葬されました。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」
<千葉周作墓>
江戸後期の剣聖、千葉周作墓。
<棋聖天野宗歩墓>
棋聖天野宗歩墓。
墓標が将棋の駒になっています。
<森山多吉郎の墓>
日本最初の通訳、森山多吉郎の墓。
<関宿藩主久世大和守歴代の墓>
墓域には大きな墓が連なっています。
下総関宿城主
・初代 久世広之
・2代 久世重之
・3代 久世暉之
・4代 久世広明
・5代 久世広誉
・6代 久世広運
・7代 久世広周
・8代 久世広文(墓は谷中霊園)
・9代 久世広業
<慰霊塔>
清水建設は文化元(1804)年に創業し、清水家の菩提寺は本妙寺です。
清水建設の慰霊塔があります。
<山門「高麗門」>
建て替えが平成27年7月に完成(設計施行:清水建設株式会社)。
八双金物は、鋭い形で千葉周作の剣を、そして『碁石』と同じ寸法の黒・白石を埋め込むことにより、
本因坊の囲碁を表しています。
<本堂ほか>