Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 渋沢栄一

  ○ 第一国立銀行
  ○ 東京証券取引所
  ○ 渋沢栄一ゆかりの赤石
  ○ 渋沢栄一邸(渋沢事務所)
  ○ 渋沢栄一ゆかりの赤石(KABUTO ONE)
 
 前島密

  ○ 郵便発祥の地


銀行発祥の地  中央区日本橋兜町4-3 みずほ銀行兜町支店

 みずほ銀行兜町支店の外壁に銘板「銀行発祥の地」がはめ込まれています。

 「この地は明治6年6月11日(1873年)
  わが国最初の銀行である第一国立銀行が
  創立されたところであります
            明治38年6月建立」

    

   

「東京開化三十六景 第一国立銀行」(三代広重)

 第一国立銀行の行章は、星形を2つ重ねた「二重星(ダブルスター)」でした。
 「朝に星をいただいて出勤し、夕に星を眺めて帰る」という勤勉さを表したものだったそうです。
 錦絵に「二重星(ダブルスター)」の旗が描かれています。

  

<株式会社第一銀行>

 ガスミュージアムに展示されていた写真です。

   

「明治大正建築写真聚覧 第一国立銀行」(建築学会編 昭和11年)

 建築学会の写真が残っています。海運橋と第一国立銀行が写されています。
 2枚目は銀行部分を拡大。

   

<兜町歴史地図>

 西の外壁に説明パネルが設置されています。

   

<渋沢栄一と建物の歴史>

 4枚の説明パネルが設置されています。
 こちらに詳細が紹介されています。
 清和総合建物 > 兜町ビルの歴史ー銀行発祥の地ー

  

「銀行発祥の地」

(パネル文)
「渋沢栄一翁
 渋沢栄一翁は幕末の慶応3(1867)年に渡欧し、最先端の経済制度や科学技術を学びました。帰国後はその知識を活かし、明治政府において新生日本の基盤となる制度作りに力を発揮しました。その後実業界に転じ、生涯を通じて約500にものぼる株式会社の設立・育成を行うとともに、学校や病院など約600の社会・公共事業の育成・推進にも力を注ぎ、近代日本社会・経済の基礎作りに大きな貢献をしました。
 中でも、渋沢翁が中心となって明治6(1873)年にこの場所に開業した「第一国立銀行」は、日本最初の近代的な銀行として有名です。この地周辺にはその後日本で最初の株式取引所(現東京証券取引所)や数多くの会社が次々と設立され、兜町は日本経済の中心地として発展していきました。」

   

初代建物(第一国立銀行)」

(パネル文)
「初代建物(第一国立銀行)
 日本最初の近代的な銀行である「第一国立銀行」(現みずほ銀行)は、明治6(1873)年にこの場所で誕生しましたが、その本店として使用されたのが明治5(1872)年に竣工した写真の建物です。
 日本初となる銀行建築を請け負った清水組(現清水建設)二代清水喜助は、外国人の手を借りず、設計施工すべてを自分達で手掛けました。木骨石造、ベランダ、日本屋根、塔を組み合わせた和洋折衷の建物は、擬洋風建築の最高峰といわれ錦絵にも度々描かれた東京の名所でした。」

「設計者:二代目清水喜助(1815-1881)
文化12(1815)年富山生まれ。
 生地井波は宮大工輩出の地として知られ、幼少期から社寺建築に親しむ環境の中で育ち、大工となりました。近郷出身の清水組創始者初代清水喜助を頼り江戸に出て、幕末には横浜開港に伴う幕府御用の工事を手がけて事業を大きく発展させ、近代建設業の基礎を整えました。
 本建物の他、我が国初の大規模和洋折衷建築と言われる築地の外国人旅館(通称築地ホテル)など彼の作った建物は、明治初期に全国各地に建設された擬洋風建築に大きな影響を与えました。」

     

二代目建物」(辰野金吾設計)

(パネル文)
「二代目建物
 国立銀行制度の終了に伴い、明治29(1896)年第一国立銀行は株式会社第一銀行となりましたが、その本店の二代目建物として明治35(1902)年に竣工したのが写真の建物です。
 後に東京駅舎で有名となる辰野金吾の設計によるもので、外壁は石造ですが鉄棒で補強し、床は耐火構造、シャッター、消火栓等、当時としては最新の防災設備を備えていました。
 大正12(1923)年の関東大震災では、地域全体に広がった火災により大きな被害を受けましたが、建物自体は堅牢な作りで崩壊を免れ、その後も使われ続けました。」

「設計者辰野金吾(1854-1919)
 嘉永7(1854)年佐賀生まれ。
 明治6(1873)年工学部工学寮(後の工部大学校、現在の東京大学工学部)に第一回生として入学。同校造家学科を首席で卒業後、官費留学生として英国に留学しました。帰国後は工部大学校の教授に就任し、後には帝国大学工科大学学長や建築学会会長などの要職に就きました。
 建物の重圧で堅牢なイメージから「辰野堅固」とも言われたという彼の作品には、日本銀行本店や東京駅駅舎など、現在でも重要文化財などに指定されて残っているものが多数あります。」

   

「三代目建物」(西村好時設計)

(パネル文)
「三代目建物
 二代目建物は、昭和5(1930)年に第一銀行本店が当地から丸の内に移転した後も、同行の兜町支店として使われていましたが、その役割は昭和11(1936)年に三代目となる写真の建物に引継がれました。鉄骨鉄筋コンクリート造の建物は、銀行・証券会社の立ち並ぶ兜町の中でもひと際目立つ堂々とした風格を備えていました。 その後昭和51(1976)年に、第一国立銀行以来四代目となる現在の建物が建てられ、現在もみずほ銀行の兜町支店として百数十年に亘る歴史を繋いでいます。」

  


東京証券取引所  中央区日本橋兜町2-1

 東京証券取引所の前身である「東京株式取引所」は、
 明治11(1878)年に、渋沢栄一らにより設立されました。

   

「明治大正建築写真聚覧 東京株式取引所」(建築学会編 昭和11年)

  


渋沢栄一翁ゆかりの赤石(佐渡赤石)  中央区日本橋兜町1-10

 ※「赤石」は、令和3(2021)年に「KABUTO ONE」に再移設されました。

 日証館(平和不動産株式会社本店)は、旧渋沢栄一兜町邸宅の跡地に、1928(昭和3)年に建てられました。

 1階エントランスに渋沢栄一翁ゆかりの赤石が展示されています(平日7:00-18:00開館)。
 渋沢栄一翁が、1888(明治21)年に兜町邸宅を建設した際に、縁起石として設置したものです。

 赤石は、昭和24(1949)年に孫の渋沢敬三が柳橋の懐石料理亭「亀清楼」(閉業)に寄贈したものを、
 平和不動産70周年記念事業の一環として、2017(平成29)年に本赤石を譲り受け、
 日証館エントランスに展示したものです。

(説明パネル)
「渋沢栄一ゆかりの赤石
 渋沢栄一翁は、明治6年(1873年))に、ここ日本橋兜町に日本で最初の株式会社である第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立。
明治11年(1878年)には東京株式取引所(現東京証券取引所)を設立し、日本経済・金融の礎を築きました。
本赤石(佐渡赤石)は、明治21年(1888年)に渋沢栄一翁が兜町邸宅(現日証館所在地)を建てた際に、日本経済の繁栄を祈念した縁起石として当地に設置されました。
 その後、渋沢栄一翁は明治41年(1908年)に三田綱町邸宅(後に大蔵大臣公邸、現財務省三田共用会議所所在地)を建て移り住む際にも移設するなど本赤石を生涯大切にしていました。本赤石は、昭和24(1949年)に渋沢栄一の孫である渋沢敬三(元日本銀行総裁、元大蔵大臣)によって渋沢栄一翁が明治の元勲である伊藤博文や桂太郎らとの会談場所として足繁く通った柳橋の料亭「柳ばし亀清楼」に寄贈されました。
 平成29年(2017年)に平和不動産株式会社創立70周年記念事業の一環として、渋沢栄一翁の意志を受け継ぐべく、本赤石を譲り受け我が国資本主義発祥の地である「日本橋兜町」に設置するに至りました。」

     

    

渋沢栄一邸(渋沢事務所>

「渋沢栄一邸宅」(銀行の発祥地説明パネル)

 「日本橋川沿いに建つ渋沢栄一邸。
  ベネチアンゴシック様式の建築は辰野金吾の設計です。」

  

「明治大正建築写真聚覧 兜町澁澤邸」(建築学会編 昭和11年)

 竣工・明治21年4月 経過・大正12年9月焼失 設計者・辰野金吾

  

<兜町澁澤事務所正面>

 「渋沢男爵実業講演 帝国図書出版 大正2年」に掲載されていた、
 「兜町澁澤事務所正面」の写真です。

  


○渋沢栄一ゆかりの赤石(KABUTO ONE) 中央区日本橋兜町7-1

 日本橋兜町に「KABUTO ONE」が2021年8月に開業しました。
 宙に浮いているようなキューブ型大型LEDディスプレイ「The HEART」が目を見張ります。
 「国際金融都市の要ー「KAUTO ONE」に刻まれた歴史。」が掲示されています。
 地下鉄茅場町駅に直結しています。

     

 「渋沢栄一ゆかりの赤石」が日証館(渋沢栄一兜町邸宅跡)から移設されています。

    

(説明パネル)
「渋沢栄一ゆかりの赤石
 渋沢栄一翁は、明治6年(1873年)に、ここ日本橋兜町に日本で最初の株式会社である第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立。明治11年(1878年)には東京株式取引所(現東京証券取引所)を設立し、日本経済・金融の礎を築きました。
 本赤石(佐渡赤石)は、明治21年(1888年)に渋沢栄一翁が兜町邸宅(現日証館所在地)を建てた際に、日本経済の繁栄を祈念した縁起石として当地に設置されました。
 その後、渋沢栄一翁は明治41年(1908年)に三田綱町邸宅(後に大蔵大臣公邸、現財務省三田共用会議所所在地)を移した際に本赤石をそこに移設するなど本赤石を生涯大切にしていました。本赤石は、昭和24(1949年)に渋沢栄一の孫である渋沢敬三(元日本銀行総裁、元大蔵大臣)によって渋沢栄一翁が明治の元勲である伊藤博文や桂太郎らとの会談場所として足繁く通った柳橋の料亭「柳ばし亀清楼」に寄贈されました。
 平成29年(2017年)に平和不動産株式会社創立70周年記念事業の一環として、渋沢栄一翁の意志を受け継ぐべく、本赤石を譲り受け我が国資本主義発祥の地である「日本橋兜町」に設置するに至りました。
 2021年、兜町の新たなシンボルである「KABUTO ONE」に、日本経済のさらなる躍動を祈念して、本赤石が設置されました。」

  


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