○ 徳川将軍家墓所
○ 徳川将軍家墓所(拝観)
<明治維新>
明治維新により明治政府に接収された徳川家の資産のうち、墓地は徳川宗家に返却されます。
戦後GHQにより財産税が課される中、宮家は税金の支払いのため、堤康次郎氏へ宮邸宅を売り、
高輪プリンスホテルや赤坂プリンスホテルが建設されました。
<西武鉄道が徳川家から購入>
西武鉄道は、増上寺の南北両側にあった徳川家の墓地を1950年から1954年までに分けて
徳川宗家(第17代当主徳川家正)から購入します。
<学術調査と移転・改葬>
1958年〜1960年1月に、徳川将軍墓学術調査が実施され、増上寺境内に徳川家霊廟が新設され、
墓は現在の墓所に移転・改葬されました。
<遺構と燈籠の移設>
改葬が終わった徳川家南霊廟にはザ・プリンス パークタワー東京が、
徳川家北霊廟には東京プリンスホテルが建っています。
将軍の宝塔は新設された墓所に移転しましたが、
将軍正室、側室や子女の墓は合葬とされ、宝塔は離散しました。
1960年、台徳院霊廟勅額門、御成門、丁子門はユネスコ村に移築(現在の狭山山不動寺:開基堤義明氏)、
燈籠1000基は西武球場付近に移転、その後、西武第2球場が造られることになり、
希望する寺社に寄進されていきました。
<明治40年地図>
「芝公園之図」(東京案内 明治40(1907)年)
増上寺の北側、南側に拡がる霊廟は広大だったことがわかります。
「芝霊廟」(旅の家つと 第29都の巻 光村写真部 明治35(1902)年)
焼失した霊廟ですが、燈籠が林立しています。
「江戸名所百人美女 三縁山増上寺」(豊国・国久)
揚帽子を被った代参の奥女中が描かれています。
<現在の徳川将軍家墓所>
<鋳抜門>(港区登録有形文化財)
徳川将軍家墓所門は、文昭院殿宝塔前の中門でした。
門左に下り龍、右に昇り龍。
<奉献石燈籠>
墓所前右手に3基の石燈籠。「文昭院殿尊前」「文昭院殿尊前」「惇信院殿尊前」
墓所前左手に3基の石燈籠。「文昭院殿尊前」2基、「惇信院殿尊前」1基。
コロナで閉館していましたが再開したので、拝観してきました。
拝観料500円を支払い、チケット「徳川将軍家墓所」、パンフレット「増上寺御霊屋」、
明治時代の地図「大日本東京三縁山増上寺境内全図」、絵葉書「大本山増上寺徳川将軍家旧御霊屋絵葉書」
をいただきました。得した気分になりました。
@台徳院殿(2代秀忠公)霊廟 惣門
寛永9年(1632)造営。旧国宝、現 国指定重要文化財。
台徳院殿霊廟の表門にあたり、奥にみえる勅額門から本殿、奥院へと続く。
戦災による焼失を免れた数少ない建造物。
A台徳院殿(2代秀忠公)霊廟 奥院宝塔
旧国宝。寛永9年(1632)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
奥院、八角の覆堂内部に祀られた宝塔(墓塔)。装飾美麗であり、当時の工芸
美術の粋を尽くしたものであった。
B文昭院殿(6代家宣公)霊廟 拝殿内部
旧国宝。正徳3年(1713)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
本霊廟は増上寺の南半を占めていた。二天門から勅額門、中門を抜け、
渡廊を進むと、霊廟主要部である拝殿、相之間、本殿へ至る。
C文昭院殿(6代家宣公)霊廟 左右廊内部
旧国宝。正徳3(1713)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
第三の門である中門の左右に続く廊内部。中門の内に、拝殿・相之間・本殿
より成る権現造の御霊屋(霊廟主要部)があった。
D文昭院殿(6代家宣公)霊廟 奥院中門
旧国宝。正徳3年(1713)造営。左奥から文昭院殿中門(現存、現
増上寺御霊
屋入口)、右手前が慎徳院殿(12代家慶公)中門。これより点前に昭徳院殿
(十四代家茂公)・静寛院宮(家茂公御正室和宮様)中門と続く。
E文昭院殿(6代家宣公)霊廟 鐘楼
旧国宝。正徳3年(1713)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
勅額門から中門に至る参道の右に鐘楼、左に水盤舎が相対し配されていた。
桁行三間(約5.5m)、梁間二間(約3.6m)、入母屋造、銅瓦葺。
F文昭院殿(6代家宣公)霊廟 奥院唐門
旧国宝。正徳3年(1713)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
本殿横の仕切り門を出て西進すると、奥院前の石段へ至る。奥院は唐門・拝殿、
一段上がって中門(現存)・宝塔(現存)が一直線に配されていた。
G有章院殿(7代家継公)霊廟 中門・左右廊内部
旧国宝。享保2年(1717)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
有章院殿霊廟主要部(拝殿・相之間・本殿)の入口である、中門・左右廊
内部より勅額門を望んだ写真。
H有章院殿(7代家継公)霊廟 勅額門
旧国宝。享保2年(1717)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
勅額門左右の外透塀は、霊廟主要部の左右廊に至るまで百七間(約195m)に
及ぶ。外透塀奥には門内右手にある鐘楼が見える。
I有章院殿(7代家継公)霊廟 水盤舎及び井戸屋形
旧国宝。享保2年(1717)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
本霊廟は、増上寺北廟に、文昭院殿廟と並んで造営された。勅額門を入ると右に
鐘楼、相対して左に水盤舎(写真左)、井戸屋形(写真右)があった。
<脇門>
鋳抜門の左手にある脇門から中に入ります。
<鋳抜門>
入口と出口と両面に龍が刻まれているのですね。
鋳抜門の裏に描かれている、左下り龍、右昇り龍です。
こちらの面のほうが保存状態が良いです。
<全景>
入口〜左手
正面〜右手
鋳抜門方面 左手 右手
<明治期の増上寺御霊屋図(掲示板)>
<旧増上寺御霊屋(掲示板)>
<宝塔/石燈籠>
墓所にある宝塔と石燈籠を左廻りに見ていきます。
石燈籠は総じて保存状態は良く、朱色が残っている葵紋もあります。
<合祀塔>
月光院輝子(7代徳川家継の生母)宝塔(石造)ですが、
改葬後は将軍の生母・側室等の宝塔に用いられています。
合祀塔には、3代家光公第三子で6代家宣公の実父である徳川綱重をはじめ、
3代家光公側室で5代綱吉公の生母桂昌院、11代家斉公正室広大院、6代家宣公側室月光院ら
南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の夫人や子女の多数が埋葬されています。
(石燈籠)
左「有章院殿」 右「有章院殿」
左奥「文昭院殿」 左最奥「有章院殿」
右奥「台徳院殿」(破裂して読みとれないものの石燈籠の形状から推定)
右最奥「惇徳院殿」(読みとれないものの文字の輪郭から推定)
<静観院和宮>
静寛院和宮(14代家茂夫人)宝塔(銅造)です。
宝塔には菊の紋が所々にあしらえられています。
右に14代家茂公の宝塔があり、並んで祀られています。
唯一、菊の御紋があります。
(石燈籠)
左「有章院殿」 右「有章院殿」
右奥「台徳院殿」
<昭徳院殿>
昭徳院殿(14代徳川家茂公)宝塔(石造)です。
(石燈籠)
左「惇信院殿」 右「惇信院殿」
左奥「惇信院殿」 右奥「惇信院殿」
<文昭院殿>
文昭院殿(6代徳川家宣公)宝塔(銅造)です。
改葬後は天英院殿(家宣正室)を合葬しています。
(石燈籠)
左「文昭院殿」 右「文昭院殿」
左奥「文昭院殿」 右奥「台徳院殿」
<台徳院殿/崇源院殿>
崇源院殿(2代徳川秀忠正室)宝塔(石造)です。
改葬後は台徳院殿(秀忠公)を合葬しています。
台徳院殿宝塔は木造であったため戦災で焼失しています。
(石燈籠)
左「台徳院殿」 右「台徳院殿」
左奥「台徳院殿」 右奥「台徳院殿」
<有章院殿>
有章院殿(7代徳川家継公)宝塔(石造)です。
(石燈籠)
左「有章院殿」 右「有章院殿」
左奥「有章院殿」 右奥「有章院殿」
<惇信院殿>
惇信院殿(9代徳川家重公)宝塔(石造)です。
(石燈籠)
左「惇信院殿」 右「惇信院殿」
左奥「惇信院殿」
徳川家重は、歯ぎしりがあり、言語不明瞭とのことなので、アテトーゼタイプの脳性麻痺だったのでしょう。
身体障害があっても、頭脳は明晰だったはずです。
家重の言葉を唯一理解できたのは大岡忠光だけだったとのことで、
わかろうとしないとわからない、わかろうとした側近が1人しかいなかったというのは悲しいことです。
アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は脳性麻痺で車椅子を使用していましたが、
マスコミには車椅子姿の写真は撮らせなかったというのもその時代背景なのでしょう。
<慎徳院殿>
慎徳院殿(12代徳川家慶公)宝塔(石造)です。
(石燈籠)
左「惇信院殿」 右「有章院殿」
左奥「惇信院殿」 右奥「文昭院殿」
<清揚院殿宝塔>
放置されている宝塔ですが、宝塔の口径から推定すると清揚院殿宝塔らしい。
清揚院は合葬塔に改葬されており、合葬塔はこちらの清揚院殿宝塔ではなく、
月光院殿宝塔が用いられています。