Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 芝公園

  ○ 銀世界(梅林)
  ○ 芝丸山古墳
  ○ 伊能忠敬測地遺功表


銀世界(梅林) 港区芝公園4-8-10
 

<銀世界の梅>

 東照宮の脇から銀世界(梅林)へ下りる階段手前に芝公園サービスセンターの説明板があります。

(説明板)
「銀世界の梅
 この梅林は、江戸時代に「梅屋敷銀世界」として、新宿角筈(現西新宿三丁目)にあった梅に由来します。明治41年〜42年ごろ16号地グランド西側に移植されましたが、首都高速芝公園ランプ建設に伴い、昭和41年にこの1号地に移されました。
 銀世界の梅は、当時梅屋敷に咲く白梅のようすからその名がつけられ、市民に親しまれていたといいます。
  芝公園サービスセンター」 

    
 

<白銀の花 梅屋敷銀世界>

 梅林に説明板がもう一つあります。

    
 

<銀世界碑>

 梅屋敷内にあった石碑で、琉球の棟応昌の筆。天保3年。

 「天保3年」
 「銀世界 中山樂師棟應昌」

   
 

<四谷新町>(絵本江戸土産 歌川広重)

 説明文
 「四谷新町に梅園あり。
  如月の比盛りにいたれば只ひと面に白銀の花の咲るが如くなれハ世俗銀世界とハ言ふ」
 とあります。

  
 

(参考)
 「銀世界稲荷神社」(こちらで記載


芝丸山古墳 港区芝公園4-8

 前方後円墳で、東京都指定史跡です。
 全長106m、後円部径約64m、くびれ部分の幅22mという都内では最大級の規模です。

(説明板)
「東京都施設史跡 芝丸山古墳
  所在地 港区芝公園四丁目 都立芝公園内
  指定 昭和五四年三月三一日
 全長一○六メートル前後、後円部径約六四メートル、前方部前端幅約四○メートル、くびれ部幅約二二メートルほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約一六メートルの台地端に位置し、前方部を南南西に向けている。
 江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治三一年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。
 前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵の有数の族長の墓だったと考えられる。
  平成二年一二月二七日 再建  東京都教育委員会」
 
    
 

<丸山貝塚>

(説明板)
「丸山貝塚
 丸山貝塚は明治時代から知られていましたが、長い間、正式な調査は行われず、貝塚の範囲や形成時期、貝塚を構成する貝種などはわかっていませんでした。
 平成八(一九九六)年、公園内で行われた工事の際に良好な貝層が発見されたため、翌年、範囲等の確認調査が行われました。その結果、丸山古墳が築造された台地の裾の緩やかな傾斜地に、マガキを主体とする貝塚が形成されていたことが明らかになりました。
 土器などの遺物が少ないことが、この貝塚の特徴でもあリますが、わずかに出土した土器片から、貝塚の形成時期は縄文時代中期末から後期である可能性が高いと考えられます。  昭和四十八年三月(令和二年一月建替) 港区教育委員会」

    
 

<円山随身稲荷大明神>

(説明板)
「円山随身稲荷大明神
 円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。
 随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時桑名よりお迎えした御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります。
  大本山 増上寺」

    

     
 

<大野伴睦句碑>

 昭和38(1963)年6月調理師法施行5周年にあたって、調理師会の名誉会長として尽力した
 政治家大野伴睦氏の労に謝するため贈呈されたものです。

 「鐘がなる春のあけぼのゝ増上寺」
  「昭和38年(1963)6月 調理師会」

   
 

<古墳碑>

 上部に「瓢形大古墳」と刻まれてます。
 矢穴があるので、江戸城か見附の石垣、あるいはお台場の石垣の石を代用している可能性があります。

     
 

伊能忠敬測地遺功表>

  伊能忠敬の測量の起点となったのが、芝公園近くの高輪の大木戸であった関係で、
 東京地学協会が その功績を顕彰して遺功表を建てました。
  明治22(1889)年に高さ8.58mの青銅製の角柱型のものが設置されましたが、
 昭和19(1944)年9月に戦時中の金属回収によつて失なわれたため、昭和40(1965)年に現在のものが再建されました。

    

(碑文)
「伊能忠敬先生は一七四五年(延享ニ年)上総國に生れて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後五十歳の時江戸に出て高橋至時のもとで天文暦數の學を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は一八○○年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び一八一八年(文政元年)江戸八丁堀で七十四歳をもって歿するまで不屈の精神と不斷の努力とによって續けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った
 その偉業は引きつがれて一八ニ一年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである
 東京地学協會はその功績を顕彰して一八八九年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った 仍つて今回各方面の協賛を得てこの碑を再建した次第である
  一九六五年五月
  社団法人 東京地学協會 會長 細川護立」

  
 

<旧測地遺功表>

 「伊能忠敬」(大谷亮吉編著 岩波書店 大正6年 国立国会図書館蔵)に掲載の旧測地遺功表です。

 


戻る