Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 芝公園

  ○ 妙定院


○妙定院 港区芝公園4-9-8
 HP:http://www.myojoin.or.jp/

 開基 徳川9代将軍徳川家重公
 開山 妙誉定月大僧正(増上寺46世)

 妙定院は宝暦13(1763)年、惇信院殿(9代家重公)の御中陰の尊牌(白木の位牌)をお守りするため、
 寺社建立厳禁の当時に、官許により家重公の霊牌所として創建されました。
 その後、浚明院殿(10代家治公)の尊牌も安置されました。

 本堂や山門など、2008(平成20)年12月に新築・竣工しています。清水建設が担当です。
 HP記載の住職の言葉は情熱がほとばしっています。
 ザプリンスパークタワー東京と東京タワーがセットで見えます。

<徳川9代将軍家重公とアテトーゼタイプの脳性麻痺>

 徳川家重公は、歯ぎしりがあり、言語不明瞭とのことで、アテトーゼタイプの脳性麻痺がうかがえます。
 身体障害があっても、頭脳は明晰だったはずです。
 家重公の言葉を唯一理解できたのは大岡忠光だけだったとのことで、
 わかろうとしないとわからない、わかろうとした側近が1人しかいなかったというのは悲しいことです。
 アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は脳性麻痺で車椅子を使用していましたが、
 マスコミには車椅子姿の写真は撮らせなかったというのもその時代背景なのでしょう。

<徳川家重公真筆 松島日之出図>

 HPを見ると「徳川家重公真筆 松島日之出図」を所蔵されています。
 家重公が絵の作品を遺していて驚きました。
 アテトーゼタイプの脳性麻痺で手肢が思い通りに動かなかったと推測される家重公が、
 作品を仕上げるにはかなりの時間を要したはずで、努力の人であったと推測します。

<徳川家重肖像>(狩野英信画、徳川記念財団蔵)

 江戸幕府の御用絵師であった狩野英信画「徳川家重像」をみると、
、首を前方に突き出し、眉間を寄せ、唇をねじ曲げていて、不随意運動がうかがえます。
 右手の酌を持つ手がですね、手のひらが開いていてよく見ると酌を持っていません。
 腕と体で挟んで酌を立てています。
 アテトーゼタイプの脳性麻痺だったのが、肖像画からも推測されます。

 江戸城から上野寛永寺への道中に、排尿障害のため23カ所も便所を設けさせ、
 悲しいかな「小便公方」と揶揄もされました。死因は尿路感染症、尿毒症と推定されているようです。

<定月大僧正>

 家重公の遺言により定月大僧正が葬儀の大導師を務めたとのことで、
 定月大僧正も脳性麻痺の家重公の発語を理解した数少ない1人であったことと思います。

     

     

(妙定院説明板)
「妙定院は、徳川九代将軍家重公の大導師を勤めた、増上寺四十六世妙誉定月大僧正によっ
て家重公菩提のため「御中陰の尊牌」を安置して、宝暦十三年(一七六三)、幽水閑雅だったこの地に開創された。増上寺の別院として位置づけられ、明藏(一切経)を有し仏典研究の中心的存在でもあり、のち浄土宗の准檀林の寺格を持つ、念仏道場・学問研究の名刹として知られてきた。
 法然上人御直作で、熊谷直実の念持仏と伝える法然上人像をまつり、「円光大師(法然上人)東都二十五霊場」の第一番とされた。
 また十代将軍家治公の尊牌も納められるなどその後の幕府の帰依も厚く、多くの什宝物が寄進された。『法然上人伝絵詞』など現在文化財に指定されているものも多く、「熊野堂」「上土蔵」の二建造物は、国の登録有形文化財となっている。
 元伯爵・万里小路家、明治の殖産興業の先駆者・前田正名翁などの墓所がある。」

   

<港区文化財標柱>

 「港区指定有形文化財・絵画 琴棋書画図屏風 狩野深雪筆
  昭和六十一年十月二○日指定」

 「港区指定有形文化財・彫刻
  銅造阿弥陀如来及両脇侍立像
  昭和六十一年十月二○日指定」

    

<奉献石燈籠>

 惇信院殿(9代将軍徳川家重公)尊前石燈籠2基が、
 平成20(2008)年に、この地に戻り本堂尊前に奉納されています。

   

 左石燈籠
 「奉献石燈籠一基
  武州増上寺
  惇信院殿 尊前
  宝暦十一歳辛巳六月十二日
  従五位下兵部少輔大炊頭源朝臣松平長喬」

    

 右石燈籠
 「奉獻 石燈籠両基
  武州増上寺
  惇信院殿 尊前
  宝暦十一歳辛巳六月十二日
  肥前唐津城主
  従五位下大炊頭源朝臣土井利里」

     
 

「圓光東漸大師霊場」「第壹番」「南方廿七番勝軍地蔵尊」(天明2年7月銘)

     

<熊野堂>(国登録有形文化財)

 「日本第一 大空険河 熊野三社 大権現」の扁額です。

 (説明文)
 「熊野堂
  寛政八年(一七九六)当院第三世定観上人により建立。
  熊野三社権現を祀る鎮守。
  二○○六年に境内南奥より解体修理移築。」

    

<浄土蔵>(国登録有形文化財)

 (説明文)
 「浄土蔵(上土蔵)
  文化八年(一八一一)当院第四世宝観上人により建立
  当寺の収集品を長く伝えてきた。
  二○○六年に境内南奥より解体修理移築。」

   

<仏足石>

 (説明文)
 「仏足石
  お釈迦様の足の裏の形(千幅輪相)を石にが彫り、長らく拝まれてきた。
  側面には経典が刻まれている。
  定月大僧正百回忌(一八七○年)に製作された。」

   

<練塀>

   

【墓域】

 山門入って右手に墓地があります。
 墓地に入ってすぐ左手と正面に歴代住職の墓。

   

<妙定院開山増上寺四十六世妙誉定月大僧正塔>

 墓地入ってすぐ正面の歴代住職の墓が並ぶ右端に、妙誉定月大僧正の墓があります。

     

<宝珠之塔>

 (石柱説明)
 「この宝珠は、天明二年(一七八二)に建立された経蔵の屋根の頂に置かれていたものである。
  経蔵は、昭和四十二年(一九六七)、都道拡幅のために解体されたが、
  宝珠同様に古くからあった石積台座に安置された。」

     

<明治の殖産興業の先駆者 前田正名翁之墓>

  

<南無阿弥陀仏>

 「公園南渓旧墓地無縁諸精霊」

   

【境外】
<災除地蔵尊>

 境内の外にあります。

(説明板)
「 災除地蔵尊縁起
 延命子育災除地蔵尊は、古くより『江戸南方四十八所地蔵尊参』の第二十七番として列せられ、戦災に遭うまで、木造丈六の大像で本院境内の地蔵堂に祀られ、霊験あらたかで、災除・安全・延命・子育を祈る善男善女の参拝が絶えなかった。
 大戦後、その焼失を惜しむ声多く、唯一焼け残った同地蔵尊の守護札版木をもとに石像として再建立され、境内別
所にあったものを、台座の改築を経て、より多くの方々にそのご加護あらんと、此地に移遷座されたものである。
 往来の道すがら、合掌され、地蔵尊のお慈悲に触れられんことを願うものである。
    妙定院 」

    

  


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