Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 芭蕉ゆかりの地 関口芭蕉庵等

  ○ 関口芭蕉庵
  ○ 胸突坂
  ○ 駒塚橋
  ○ 水神社
  ○ 旧町名案内「旧関口町」


史蹟 関口芭蕉庵 文京区関口2-11-3

 松尾芭蕉は、延宝5年(34才)から同8年まで、ここに居住して神田上水の改修工事にたずさわりました。
 芭蕉は伊賀国藤堂藩の武士であったことや、藤堂藩(藩祖高虎以来、築城土木、水利の技術に長じていた)が
 当時幕府から上水の改修工事を命じられていたことなど考え合わせると、
 芭蕉が工事監督として、この改修工事に関係していたことも、納得がいきます。
 (神田川沿の説明板より要約しました)

  

 ※芭蕉は俳諧を本業とするも、副業で藤堂藩が請け負った改修工事にも携わりました。
  藤堂藩の武士であった芭蕉が、幕府の隠密も副業としたとも類推されますね。
  江戸時代の文人で、副業をせず生計をたてられたのは、曲亭馬琴ぐらいだったようです。

<説明板>

 説明板が神田川沿の門前にあります。芭蕉林の芭蕉が垣間見えます。

 「関口芭蕉庵  文京区関口2-11-3
  この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修工事に参画し、
 「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。
  享保11年(1726)、芭蕉の33回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。
 その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。
  芭蕉は、早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと言われている。
 そこで、寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を
 埋めて墓とした。この墓を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。
  芭蕉庵の建物は、昭和12年(1937)3月、近火で類焼したが、同年8月再建された。
 しかし、昭和20年(1945)5月の戦災で焼失した。
  敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。
   文京区 教育委員会  平成10年3月」

    

   

<芭蕉庵入口>

 芭蕉庵への入口は、正門ではなく、横の胸突坂側にあります。
  【開園時間】10:00-16:30
  【休園日】 月火・年末年始
  【入園料】 無料
  (年末年始は7日間休みでした)

    

   

<芭蕉庵園内>

 芭蕉庵の入口先に、事務所と休憩所があります。
 燈籠は燃えた痕跡の笠と、修復部品で構成されている印象です。修復に感心します。
 園内は瓢箪池が配され、木々が多い都会とは思えない庭園です。

     

     

    

<湧水>

 裏の崖からの湧水が石桶に注がれています。水量は少ないです。
 この湧水は「東京の名湧水57選」(平成15年1月)に選定されています。

   

<ふる池や かはつ飛こむ みつの音>

 瓢箪池の畔の芭蕉句碑です。昭和48年、芭蕉280回忌に建立。

 (裏面)
 「この碑は芭蕉翁二百八十年遠忌の記念として建立したものである。
  碑面文字は当芭蕉庵伝来の真蹟自画賛を模刻したものである。
         昭和四十八年十月十二日 関口芭蕉庵保存会建之」

    

<さみだれ塚/芭蕉翁之墓>

 瓢箪池の奥、階段を上って右手に「さみだれ塚」があります。
 江戸名所図会でも「五月雨塚」は描かれており、江戸名所の一つだったことがうかがえます。

 (説明板)
 「素堂の弟子馬光が中心となり
   五月雨に隠れぬものや瀬田の橋
  芭蕉の短冊を埋めて墓とした
  寛延3年(1750)」

 「芭蕉翁之墓 夕可庵馬光書」と刻まれた芭蕉翁の墓です。

 裏面「祖翁瀬田のはしの吟詠を以て是を建て仍てさみたれ塚と稱す
    寛延三年八月十二日 夕可庵門生 園露什 酒芬路」

    

   

<芭蕉堂>

 「芭蕉翁之墓」の上方に、芭蕉堂がありますが、
 下から見上げるだけで、立ち入り禁止で近づけませんでした。

 朱楽菅江の狂歌辞世碑
 「執着の心や娑婆に残るらん 吉野の桜更科の月」がこの道の先にありますが、
 立ち入り禁止で近づけません。

   

<ケーブルカー>

 五月雨塚の上からケーブルカーが降りてきて驚きました。
 割烹着の店員さんを見かけました。
 ちょうどこの辺りは椿山荘の庭園内で、そば処「無茶庵」と石焼料理「木春堂」があり、
 両店の食事や食材の運搬用と推測します。
 神田川から見ると無茶庵の裏当たりにケーブルカーがとまっていました。

   

<芭蕉林>

 芭蕉に掲げれらている説明板に芭蕉の句が表示されています。

 「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」
 「鶴の鳴くやその声芭蕉やれぬべし」

    

<カキ/チャ>

 「里古りて柿の木持たぬ家もなし」
  元禄7(1694)年、伊賀上野での句。

 「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」
  貞享元(1684)年、伊賀へ向かう旅での句。

 「しばの戸に茶をこの葉かくあらしかな」
  延宝8(1680)年の句。大川端芭蕉句選にもあります。

 「山吹や宇治の焙炉の匂ふ時」
  元禄4(1691)年の句。

   

<伊藤松宇句碑>

 「喜翁松宇 真中に富士聳えたり国の春」 昭和10(1935)年

 伊藤松宇は明治から昭和にかけての俳人、晩年はここに住んでいました。

   

<夜寒碑>

 「二夜鳴く 一夜はさむし きりぎりす 四時庵 慶紀逸」

 (説明板)
  武玉川の撰者 四時庵慶紀逸の句碑 宝暦3年(1733)

 慶紀逸(1695-1762)は、江戸中期の俳人。

     

<范石湖の詩碑>

 (説明板)
 「范石湖の詩碑 范石湖の碑を石摺により再刻せるもの。田中光顕氏之を建つ。
  明治22年(1889) 」

     

<案内板>

     

「江戸名所図会 芭蕉庵 五月雨塚 駒留橋 八幡宮 水神宮」

 江戸名所図会に描かれている「竜隠庵」です。
 「五月つか」と「はせを堂」も描かれています。
 五月雨塚の横には五月雨の松が見えます。

 現在碑がない場所に碑が描かれています。
 横に細長い瓢箪池もしっかりと描かれています。
 「駒留橋」は、現在の駒塚橋より下流(200mほどか)に描かれています。
 駒留橋の先に、夜寒の松が見えます。
 左手に「八まん」「水神」と描かれ、長い石段の参道も描かれています。

   

「絵本江戸土産 第7編「関口上水端 芭蕉庵 椿山」

 門の左手に、夜寒の松が見えます。
 駒留橋は、夜寒の松の下流に架かっています。

  

「名所江戸百景 せき口上水端はせを庵椿やま」(広重 安政4年)

 門の左手に、夜寒の松が見えます。
 駒留橋は、省略されて描かれてはいません。

  


胸突坂 文京区関口2-11・目白台1-1

<説明板>

 「胸突坂  文京区関口2-11と目白台1-1の間
  目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を
 神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、
 別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
  坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、
 急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
  ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。
   文京区教育委員会  平成10年3月」

    

<胸突坂標石>

  

駒塚橋>

 江戸名所図会や絵本江戸土産では、現在の駒塚橋よりも下流に描かれています。
 江戸切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」で確認した「駒塚橋」です。

    


水神社 文京区目白台1-1-9

 江戸名所図会に描かれています。
 図会の拡大図ですが、「八まん、水神」と描かれています。
 上水沿に鳥居があり、長い石段の参道が描かれています。
 駒留橋は、現在の駒塚橋よりも、もっと下流に描かれています。

 名所図会の八幡宮の記述では、
 「同社地にあり。往古よりの鎮座といふ。下の宮と称し、椿山八幡とも称せり
 (昔は椿多かりし故に、椿山と号くと云ふ。
  祭礼は毎歳八月十五日、上の宮と隔年に執行す。洞雲寺奉祀す)。」

 下の宮は現在はなく水神社のみ残ります。上の宮は現在の正八幡神社です。

  

(説明板)
「水神社  目白台一丁目一ー九
 祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命・応神天皇
 創建の年代は明かでない。
 『江戸砂子』には、「上水開けてより関口水門の守護神なり。」とある。
 わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により、大久保主水が開いた。井頭池からの流れを、目白台下の現大滝橋のあたりに、堰(大洗堰)を築き、水位をあげて上水を神田、日本橋方面に通じた。
 伝えによれば、水神が八幡宮司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり、我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸町ことごとく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。
 上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で、清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後には目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。
  文京区教育委員会  昭和五十八年三月」

     

    


旧町名案内「旧関口町」

 駒塚橋より下流の神田川右岸に「旧町名案内 旧関口町」があります。
 地図によると、関口町は飛び地だらけです。

 さらに下流にもう一つ古い「旧関口町」説明板があります。

 (説明板)
 「旧町名案内 旧関口町
  (昭和41年までの町名)
  正保(1644?48)のころまで関口村といっていた。
  土地の人の伝えに、むかしこの辺りに奥州街道の関所があったので村名としたという。
  また、神田上水を江戸川に分水するため堰(大洗堰)を設けたので、関口の名が起こったという。
 神田上水は、天正18年(1590)ころの開設と伝えられるので、それ以後に関口村の名称が起ったのでは
 ないかといわれる。
  天和(1681?84)以後、町屋が開かれ、享保5年(1720)ころには町並地となり、武家屋敷もおかれた。
  明治5年、目白台の旧武家屋敷地、付近の寺地を合併して関口町となった。
  町が開かれるにつれて飛地ができ、数ヶ町に分かれた。
   文京区」

    

  


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