<ホテル椿山荘東京の歴史>(ホテルHP及び庭園のご案内資料よりまとめ)
すでに南北朝時代には椿が自生する景勝の地で「つばきやま」と呼ばれていました。
神田上水の水役として出府した松尾芭蕉が1677年から4年余り、
ホテル椿山荘東京に隣接する関口竜隠庵(のち関口芭蕉庵)に住んでいました。
江戸時代は、この地は上総久留里藩黒田豊前守の下屋敷でした。
山縣有朋が、明治11(1878)年に「つばきやま」を購入し庭、邸宅をつくり、「椿山荘」と命名しました。
大正7(1918)年、藤田組の二代目当主「藤田平太郎男爵」が、山縣有朋の意志を受け継ぎました。
昭和20(1945)年の空襲で、記念館や大邸宅、樹木の大半が殆ど灰燼に帰してしまいます。
昭和23(1948)年、椿山荘は藤田鉱業(旧藤田組)から藤田興業の所有となります。
藤田興業の創業者となった小川栄一は名園椿山荘の復興に着手します。
<庭園>
神田川沿の「冠木門」から入園(入園無料)、「庭園のご案内」をいただき簡単な説明を受けます。
裏には史蹟・景勝の説明が記されていてわかりやすいです。
庭園内は、各地からの移築・移転が中心ですが、元々あったものもあります。
樹齢500年の御神木、椿山、古香井、庚申塔です。
<御神木>
「当庭園における最古の樹木として保存されています。
樹齢500年 高さ20m 根元周囲4.5m」
<椿山>
「椿山のあるこの場所は、南方に早稲田田圃、西方に富士山を望むことができた展望の良い高台で、
椿の自生する景勝の地であることから南北朝時代の頃より「つばきやま」と呼ばれていました。(以下略)」
<古香井>
水量多く湧き出ています。
鉄分で茶色になっています。
柵で立ち入れず味見できないのが残念です。
<庚申塔>
ホテルHPによると、
「嘉永6年(1853年)の古地図「江戸切絵図」によると現在ホテル椿山荘東京のある地は
上総久留里藩三万石黒田豊前守ほか複数名の土地で、区画にあたり公道が一本通っていました。
山縣公は、早稲田から関口台へ抜けるこの公道も併せて買い入れたと言われており、
この庚申塔は、元々この公道に造られていたものであったと言われています。」
寛文9(1669)年4月の庚申塔。
三猿が刻まれているのが一般的ですが、こちらは猿と鳥2羽で珍しい。
供養塔は、昔からここにあったとのこと。
江戸切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」を見ると、道がしっかり描かれています。
<六地蔵>
庚申塔の横には六地蔵供養塔の一部と思われるものが置かれています。
六地蔵はお顔がもげていて破損が激しい。
これまで見てきた六地蔵供養塔からすると、笠と台座が失われています。
<庭園めぐり>
<椿山荘の碑>
山縣有朋公爵が明治11年に椿山荘と命名した際の感慨を刻んだ碑です。
<大正天皇皇太子時代の御手植え松の碑>
今上陛下在東宮時、明治42年の椿山荘への行啓の際のお手植え松の碑とのこと。
内容から大正時代の建立です。
<筆塚>
筆塚はもろい石で、草が生えて、文字が崩れています。
(説明板)
「筆塚
昭和33年(1958年)11月に出版 美術家連盟の皆様によって除幕式が行われた筆供養の碑。
「筆に明け筆に生涯を送る私達の伴侶を芭蕉ゆかりの地に祀り筆塚とす」と説明文に記されています。
(高さ85cm、周囲4m50cm)」
<椿山荘の八福神>
七福神に、ニワトリの庭の神が加わり、八福神。
※以下は他地からの移転・移築です。
<白玉稲荷神社>
大正13(1924)年、京都下鴨神社にあった社殿を移築。
<三重塔「圓通閣」>
広島の篁山竹林寺から大正14(1924)年に移築。国指定有形文化財。
<般若寺式石灯籠>
鎌倉後期の石灯篭です。
<丸型大水鉢>
京都の日ノ岡峠からの移転です。
<伊藤若冲 羅漢石>
京都伏見の石峰寺に置かれていたものです。
<五丈滝>
滝の裏に回り、裏見の滝を体験できます。
熊本藩主・細川家の江戸下屋敷跡にある文京区の施設です。
公募により2017年3月18日、「新江戸川公園」から「肥後細川庭園」へと改称されています。
<松聲閣>
2階展望所「山茶花」、休憩室「椿」は観覧・休憩無料となっています。
細川家に伝来する歴史資料や美術品等の文化財を管理保存・研究、一般に公開しているのが永青文庫です。