Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 浅草猿若町

  ○ 浅草猿若町
  ○ 「旧・浅草猿若町」「旧浅草猿若町(旧町名由来案内)」
  ○ 藤波小道具株式会社
  ○ 中村座跡
  ○ 江戸猿若町市村座跡
  ○ 浅草猿若町碑
  ○ 猿若町会会館
  ○ 江戸猿若町守田座跡


浅草猿若町

 浅草猿若町は、江戸時代末期の芝居町です。
 江戸時代初期以来、堺町(中村座)・葺屋町(市村座)・木挽町(森田座)にあった官許の歌舞伎、
 操人形の興業小屋が、天保の改革によって天保12(1841)年にこの地へ強制移転を命じられました。
 町名は、江戸歌舞伎の創始者とされる猿若(中村)勘三郎の名にちなみます。
 芝居茶屋が並び、座元・役者ら芝居関係者がこの地に定住し、一大歓楽街を形成しました。
 明治の初年まで繁栄しましたが、その後芝居小屋の移転が相次ぎ、芝居町は失われました。
 (国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」を参照しました。)

 浅草猿若町の以下の説明板は、猿若町ではなく山谷堀に建てられています。

(説明板)
「山谷堀ヒストリカルツアー 浅草猿若町
 浅草猿若町は、現在の浅草六丁目辺りを指す町名で、江戸歌舞伎の始祖・猿若勘三郎の名からつけられ、江戸末期の芝居町として栄えた。
 天保の改革により、風紀を乱すという理由から、天保13(1842)、江戸市中の葺屋町(現在の中央区)にあった中村座、市村座、河原崎座(守田座)の江戸三座をはじめ、芝居小屋はこの地に移されることとなった。芝居関係者がこの地に住み、また、芝居茶屋や土産物屋なども立ち並び、歓楽街として明治の初期まで繁盛した。」

     
 

「名所江戸百景 猿わか町よるの景」(広重)

 説明板の中で触れられている「名所江戸百景 猿わか町よるの景」(広重)です。
 夜空に浮かぶ満月は、帰路につく人々や犬に月影を投影しています。
 ゴッホの「夜のカフェテラス」に影響を与えたと言われています。
 森田座の看板が見えます。

   
 

「絵本江戸土産 猿若町」(広重)

 こちらの絵図には、浅草寺の五重塔も描き込まれています。   

  
 

「江戸名所百人美女 猿若町」(豊国・国久)

 お金に余裕のある歌舞伎の見物客は、
 浅草猿若町に到着すると芝居茶屋で一服し、白い鼻緒の福草履に履き替えて、
 芝居茶屋に案内されて、芝居小屋の枡席や桟敷席に着きました。
 幕間には茶屋に戻って料理を食べ、1日がかりで芝居を楽しみました。
 描かれている美女は、白い鼻緒の福草履に履き替え終わったところです。

  


旧浅草猿若町 台東区浅草6-5-1

 言問通りに「旧・浅草猿若町」があります。

(説明板)
「旧・浅草猿若町〔さるわかまち(ちょう)〕
         現在は浅草六丁目の一部
 江戸時代に歌舞伎は大衆に支持される一大娯楽となったが、幕府は風紀の乱れを恐れ様々な規制を設けて、統制を強めてきた。老中・水野忠邦の「天保の改革」の際に芝居小屋廃止を打ち出すことになったが、遠山左衛門尉影元(遠山の金さん)の「庶民の娯楽を奪うことは、却って人心の安定に役立たない」との献策を受け、日本橋周辺にあった幕府公認の芝居小屋を江戸城郊外に当たる当地へ強制移転させることにした。
 一八四二年(天保一三年)当地に新しく芝居町が造られ、江戸歌舞伎の始祖である猿若勘三郎(のちの初代中村勘三郎)の名から「猿若町」と命名された。ここには芝居小屋、芝居茶屋、役者や芝居関係者の住まいなどが造られ、大勢の江戸の人々が「猿若三座」の歌舞伎や人形浄瑠璃を見物するため繰り出したと言われている。
 のちに住居表示の実施により、一九六六年(昭和四十一年)浅草六丁目の一部となった。」

   

 言問通り猿若町の入口に旧猿若町の旧町名由来案内あります。

(案内板)
「旧 浅草猿若町
 この地はその昔、丹波国(現在の京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保十二年(一八四一)、徳川幕府は天保の改革の一環として、この屋敷を公収し、その跡地に境町・葺屋町・木挽町(いずれも現・中央区)にあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は、天保十三年から翌四年にかけて当地に移り、猿若町はできた。芝居小屋の移転とともに猿若町は、一丁目から三丁目にわけられ、一丁目には中村座および薩摩座、二丁目には市村座および結城座が移った。そして、三丁目には河原崎座が移転してきた。このうち中村座、市村座、河原崎座が世にいう「猿若三座」である。
 町名は、江戸芝居の始祖といわれた猿若勘三郎の名をとってつけたという。」

     

    

 現在の旧浅草猿若町

   


藤波小道具株式会社 台東区浅草6-2-6

 小道具は、各座で専従の小道具師を備えるようになっていましたが、
 1885(明治18)年からは初世藤波与兵衛(藤浪与兵衛とは、歌舞伎小道具方の名跡)が
 各座の小道具製作を一手に引き受け、その後、藤浪小道具株式会社に発展、
 小道具貸出しの専業として今日に至っています。

   


中村座跡 台東区浅草6-4-12

(説明板)
 「猿若三座の一 「中村座跡」 現在は浅草六丁目の一部
  中村座の定式幕は、左から「白」「柿色」「黒」三色の引幕であった。
  「白」は、幕府から特に許されて中村座だけが使用していた。」

 浮世絵は「東都繁栄の図(中村座)広重」より

    


江戸猿若町市村座跡 台東区浅草6-18-13

(説明板)
 「猿若三座の一 「市村座跡」 現在は浅草六丁目の一部
  市村座の定式幕は、左から「黒」「萌葱(緑)」「柿色」三色の引幕であった。
  現在国立劇場が同じ定式幕を使用している。」

    
 

(江戸猿若町市村座跡碑文)昭和39(1964)年11月建碑
 「猿若三座由来記
  天保期、一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に河原崎座(のち守田座となる)があって
  わが國始めての芝居町を形成していた。
  これがいわゆる猿若三座である。猿若は江戸役者の始祖猿若勘三郎に因んだ甼名で
  江戸歌舞伎の王國としてこの地は華美を誇り、殷賑を極めたのである。」

   

「東都繁栄の図(市村座)広重」より

  


浅草猿若町碑 台東区浅草6-19-4

 説明板はなく、「浅草猿若町碑」のみあります。

   


猿若町会会館 台東区浅草6-20-4

 「猿若町会会館」に、猿若町の名称が残っています。

  


江戸猿若町守田座跡 台東区浅草6-26-11

(説明板)
 「猿若三座の一 「守田座跡 現在は浅草六丁目の一部
  守田座の定式幕は、左から「黒」「柿色」「萌葱(緑)」三色の引幕であった。
  現在、歌舞伎座他ほとんどの劇場が同じ定式幕を使用している。」

   

 道路反対側に碑があります。

    
 

○河原崎座

 河原崎座はのち守田座となります。

<東都繁栄の図(河原崎座)広重」より

  


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