Discover 江戸史蹟散歩
 

 両国 回向院

  ○ 回向院
  ○ 回向院表門跡



回向院 墨田区両国2-8-10

     
 

<江戸名所図会>

 かつては両国橋に向かって表門がありました。

   
 

(説明板)
「江戸の町 回向院 15
 明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり犠牲者は十万人以上、未曽有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁・人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈愛を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。 墨田区」

    
 

<力塚>

(説明板)
「 相撲関係石碑群<力塚>
 墨田区と相撲の関わりは、明和五年(一七六八)九月の回向院における初めての興行に遡ります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
 天保四年(一八三三)一○月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。
 明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治十七年(一八八四)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして明治四二年に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。
 力塚は、昭和一一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年(一九一六)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。
 現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が七六年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。
  平成一一年三月  墨田区教育委員会 」

     

     

  
 

<説明板4枚・英語説明板1枚>

 「石造明暦大火横死者等供養塔(都指定有形文化財)」「加藤千蔭墓(都指定史跡)」
 「岩瀬京伝墓(都指定史跡)」「岩瀬京山墓(都指定史跡)」

  
 

<本堂ほか>

    
 

<自動販売機>

 自動販売機にも、葵の紋がしっかりと描かれています。

      
 

<馬頭観音堂>

 馬頭観音堂は、4代将軍家綱の愛馬を供養するため馬頭観世音菩薩を祀っています。
 献花台が猫と犬とあります。小鳥供養塔や、三味線の革の供養「犬猫供養塔」(邦楽器商組合)など、
 様々な動物の慰霊・供養碑があります。

    
 

<動物慰霊之碑>

 この碑は東京都世田谷区下代田町陸軍獣医学校内にあったもので 
 40数万に及ぶ戦場に散華した軍用動物の霊を慰めるため、当時の学校長、長岡勝男氏により建立され、
 戦後荒廃していたのを、昭和38(1963)年に回向院に移されたものです。

 「昭和三年三月
  動物慰霊之碑
  陸軍獣医総監 岡田勝男 建立」

  
 

<猫塚>

   
 

<明暦大火横死者等供養塔>

 回向院は、明暦3(1657)年振袖火事による死者十万八千余人を弔うために建立されたので、
 様々な災害による犠牲者を弔う一際大きな供養塔が林立しています。

     
 

<亀学井田長秀之墓>

 獣首で中国の伝説上の生物「贔屓(ひいき)」は、「亀趺(きふ)」として石碑や墓石の土台になっていますが、
 よく見ると、耳はないし、牙もありません。贔屓ではなく、本当のカメです。これは珍しい。
 亀戸天神の「亀井戸跡」碑を背負っているのも、贔屓ではなく亀です。

  
 

<鳥居清長碑>

 浮世絵師、鳥居清長没後200年を記念して、2013年4月に建立。
 
  
 

<鼠小僧次郎吉之墓>

 塩地蔵の先に、鼠小僧次郎吉の墓があります。
 墓石の前には、削り用の「欠き石」があります。
 数年ごとに建て替えられ続け 現在までに数百基にも及んでいるらしい。
 建て替えられたばかりでしょう、形を保っています。

 説明板よると
 「江戸時代 犯罪者には墓を作ることが禁止されていた。
  しかし歌舞伎や狂言での成功によって祈願対象物としての墓の必要性が生じ
  この供養碑が作られたと思われる」

    

    



回向院表門跡 墨田区両国2-8-10

 旧両国橋・広小路跡を東に行くと、両国幼稚園前に、説明板「回向院表門跡」があります。

(説明板)

「江戸の町
 回向院正門跡 25
 回向院の正門は、かつてこの位置にありました。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。
 かつての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができました。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者十万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものともいえます。
 両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画「絵本墨田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれています。
  墨田区」

   
 

「江戸切絵図」

 回向院部分の拡大です。両国橋に向かって、表門があります。

  
 

「江戸名所図会」

 回向院の表門部分の拡大です。

  


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