Discover 江戸史蹟散歩
 
 両国 回向院

  ○ 回向院
  ○ 回向院表門跡


回向院 墨田区両国2-8-10 HP

 回向院は、明暦の大火(明暦3(1657)年)の犠牲者を弔うために建立されました。
 その後、牢死者・刑死者・安政大地震の犠牲者なども葬られます。
 全国各地寺院の諸仏の御開帳の場にもなりました。
 天明元(1781)年から境内で勧進相撲が行われ、明治42(1909)年に旧両国国技館ができるまで続きました。
 江戸の人々にとって回向院を訪れる目的の一つが、勧進相撲を見ることでした。

    

「江戸名所図会 回向院」「江戸名所図会 回向院開帳参」

 かつては両国橋に向かって表門がありました。

   

「江戸切絵図」

 回向院部分の拡大です。両国橋に向かって、表門があります。

  

「名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋」(広重)

 勧進相撲の開幕を知らせる相撲櫓が大きく描かれています。櫓の上には御幣と櫓太鼓が見えます。
 相撲櫓から打ち鳴らされる櫓太鼓の音によって、江戸の人々は勧進相撲の始まりを知りました。
 隅田川の向こう岸には薬研掘に架かる元柳橋と橋の袂に大きな柳が見えます。遠景には富士山です。

   

「東都名所 両国回向院境内全図」(広重 都立図書館蔵)

 表門の外に立てられた相撲櫓と、境内の参道右手によしず張りの巨大な建物の相撲小屋が見えます。

  

「東京開化狂画名所 東両国 回向院相撲狂人」(月岡芳年 都立図書館蔵)

 熱狂的な相撲ファンは他人の服まで剥いで投げたようです。多くの服が飛んでいます。

  
 

<江戸の町 回向院>

(説明板)
「江戸の町 回向院 15
 明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり犠牲者は十万人以上、未曽有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁・人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈愛を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。 墨田区」

    
 

国技館(大鉄傘)跡>

 初代の国技館(大鉄傘)は、辰野金吾の監修による設計です。

(説明板)
「国技館(大鉄傘)跡
  所在地 墨田区両国二丁目八・九番
 相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、天保四年(一八三三)から国技館に開催場所が移されるまでの七十六年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。
 国技館は、この回向院の境内に明治四十二年(一九○九)に建設されました。三十二本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、一万三千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。
 相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和五十八年(一九八三)に解体されました。そして昭和六十年(一九八五)、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北川の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。
 大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。
  平成二十年三月  墨田区教育委員会」

  

「東京風景 国技館」(小川一真出版部 明治44年)

   

「絵葉書 両国国技館」(都立美術館蔵)

  

<相撲関係石碑群(力塚)>

(説明板)
「相撲関係石碑群<力塚>
 墨田区と相撲の関わりは、明和五年(一七六八)九月の回向院における初めての興行に遡ります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
 天保四年(一八三三)一○月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。
 明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治十七年(一八八四)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして明治四二年に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。
 力塚は、昭和一一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年(一九一六)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。
 現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が七六年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。
  平成一一年三月  墨田区教育委員会 」

     

     

  
 

<説明板4枚・英語説明板1枚>

 「石造明暦大火横死者等供養塔(都指定有形文化財)」「加藤千蔭墓(都指定史跡)」
 「岩瀬京伝墓(都指定史跡)」「岩瀬京山墓(都指定史跡)」

  
 

<本堂ほか>

    
 

<自動販売機>

 自動販売機にも、葵の紋がしっかりと描かれています。

      
 

<馬頭観音堂>

 馬頭観音堂は、4代将軍家綱の愛馬を供養するため馬頭観世音菩薩を祀っています。
 献花台が猫と犬とあります。小鳥供養塔や、三味線の革の供養「犬猫供養塔」(邦楽器商組合)など、
 様々な動物の慰霊・供養碑があります。

    
 

<動物慰霊之碑>

 この碑は東京都世田谷区下代田町陸軍獣医学校内にあったもので 
 40数万に及ぶ戦場に散華した軍用動物の霊を慰めるため、当時の学校長、長岡勝男氏により建立され、
 戦後荒廃していたのを、昭和38(1963)年に回向院に移されたものです。

 「昭和三年三月
  動物慰霊之碑
  陸軍獣医総監 岡田勝男 建立」

  
 

<猫塚>

   
 

<明暦大火横死者等供養塔>

 回向院は、明暦3(1657)年振袖火事による死者十万八千余人を弔うために建立されたので、
 様々な災害による犠牲者を弔う一際大きな供養塔が林立しています。

     
 

<亀学井田長秀之墓>

 獣首で中国の伝説上の生物「贔屓(ひいき)」は、「亀趺(きふ)」として石碑や墓石の土台になっていますが、
 よく見ると、耳はないし、牙もありません。贔屓ではなく、本当のカメです。これは珍しい。
 亀戸天神の「亀井戸跡」碑を背負っているのも、贔屓ではなく亀です。

  
 

<鳥居清長碑>

 浮世絵師、鳥居清長没後200年を記念して、2013年4月に建立。
 
  
 

<鼠小僧次郎吉之墓>

 塩地蔵の先に、鼠小僧次郎吉の墓があります。
 墓石の前には、削り用の「欠き石」があります。
 数年ごとに建て替えられ続け 現在までに数百基にも及んでいるらしい。
 建て替えられたばかりでしょう、形を保っています。

 説明板よると
 「江戸時代 犯罪者には墓を作ることが禁止されていた。
  しかし歌舞伎や狂言での成功によって祈願対象物としての墓の必要性が生じ
  この供養碑が作られたと思われる」

    

   

(説明板)
「鼠小僧供養墓「墨田区民俗文化財指定(平成十四年五月二十九日)
  ※墓石の高さ 一○○センチ 幅 七一○センチ 奥行き 五五センチ
  ※台石の高さ 三十五センチ 幅 一一六センチ 奥行き 七八センチ
  ※石組の墓壇の高さ 六五cm 幅 一五○センチ 奥行き 一三○センチ
  を測る(安山岩製)
碑の正面には「天保二年八月十八日」「俗名 中村 次良吉之墓」
「教覚速善居士」「道一書」
   裏面には「大正十五年十二月十五日建立」
   左側には「永代法養料金 五拾園也 細川 仁三」と刻まれている
 鼠小僧は寛政九年(一七九七)生まれの実在の盗賊であり「武江年表」によると天保三年(一八三二)八月十九日に浅草で処刑されている
 「甲子夜話」によれば 武家屋敷にのみ押し入ったため 庶民からは義賊扱いされていると記されている 後に幕末の戯作者 河竹 黙阿弥が 権力者である大名家に自在に侵入し被権力者側である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき演劇界においては 現在まで続く当り狂言の一つとなった
明治十二年一月の「朝野新聞」によると歌舞伎の市川一門の一人である 市川 団升が 狂言が当った礼として碑と永代供養料10円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており 施主として刻まれ 墓の横にも石灯籠を寄進している
細川 仁三とは市川 団升のことであるとみる説もある
文学界においても 芥川龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と三度題材に取り上げるなどとしており 虚構の鼠小僧の人気は高い
江戸時代 犯罪者には墓を作ることが禁止されていた しかし歌舞伎や狂言での成功によって 祈願対象物としての墓の必要性が生じこの供養碑が作られたと思われる
※他方 供養墓の前にある小さな供養碑は正面に供養墓同様「教 覚 速 善 居 士」と刻まれているが別名「欠き石」とも呼ばれるものである
鼠小僧の墓石を欠き 財布や袂に入れておけば 金回りが良くなる あるいは持病が治るとも言われ 成就した人々の奉納した欠き石は数年ごとに建て替えられ続け 現在までに数百基にも及んでいるという
発生時期は不明であるが 明治十八年(一八八五)に初演された 河竹木阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中で この信仰の事が触れられている
「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり ここには また庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」(墨田区史より)」

 


回向院表門跡 墨田区両国2-8-10

 旧両国橋・広小路跡を東に行くと、両国幼稚園前に、説明板「回向院表門跡」があります。

(説明板)
「江戸の町
 回向院正門跡 25
 回向院の正門は、かつてこの位置にありました。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。
 かつての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができました。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者十万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものともいえます。
 両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画「絵本墨田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれています。  墨田区」

   

「江戸名所図会 回向院」(抜粋)

 回向院の表門部分の拡大です。
 かつては両国橋に向かって、表門がありました。

  

「東都名所 両国回向院境内全図」(抜粋)(広重 都立図書館蔵)

 広重の「両国回向院境内全図」から、表門と相撲櫓部分の抜粋です。

  


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