音無川/滝野川
○ 音無川/滝野川
○ 王子扇屋
○ 音無親水公園
○ 音無橋
○ 王子大堰跡
○ 不動の滝跡
○ 岩屋弁財天跡
王子は当初、岸村と呼ばれていました。扇屋の現在の住所「岸町」にその名残が見られます。
王子権現社が創建され、王子村となります。
王子稲荷、飛鳥山があることから行楽の地として賑わい、扇屋、海老屋といった料亭もありました。
滝野川は蛇行し、渓谷があり、流れも急なことから、滝のような川、滝野川と呼ばれました。
また、音無川とも呼ばれ、熊野神社の前を流れる音無川に由来しています。
渓谷の滝や紅葉など、景勝の地として有名で、江戸名所図会に描かれ、名所として浮世絵にも描かれています。
ホタルの名所でもあり、音無川のホタルは、良い光を放つということで、大奥でも取り寄せていたようです。
落語の「王子の狐」の舞台でもある扇屋。
明治天皇など多くの要人が利用し、渋沢栄一も訪れた料亭ですが、
2005年に料亭は閉店し、現在は名物だった玉子焼きの専門店となっています。
<江戸高名会亭尽 王子>(広重)
歌川広重「江戸高名会亭尽 王子」でも描かれています。
<江戸名所図会 飛鳥橋>
その其一と其二を合成、生け簀が複数見えます。
<絵本江戸土産 王子料理屋 河辺の宴席>(広重)
<店構え>
店構えは「え?!?」て感じでビル1階の通路にあります。
3階で焼いて1階の屋台に運んでいます。
新扇屋ビル(1987年竣工)なんでオーナーさんでしょう。
<燈籠と祠>
江戸時代の燈籠があり昔の料亭の名残が残っています。
燈籠には母狐と子狐が走っているレリーフが施されています。
昔の料亭は対岸にあり、こちらには扇屋の庭がありました。
また燈籠の奥に祠が祀られています。
<音無親水公園>
(説明板)
「音無親水公園
音無川のこのあたりは、古くから名所として知られていました。江戸時代の天保七年に完成した「江戸名所図会」や、嘉永五年の近吾堂板江戸切絵図、また、安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかります。
「江戸名所花暦」「遊歴雑記」などには、一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、谷間の樹木は見事で、実にすぐれていると記されています。
こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和六十三年、北区は、この音無親水公園を整備しました。
たきらせの 絶えぬ流れの末遠く すむ水きよし 夕日さす影
飛鳥山十二景のうち滝野川夕照より
昭和六十三年三月 東京都北区」
<日本の都市公園100選>
「「日本の都市公園100選」は、公園緑地に対する愛護精神を喚起するため、全国から募集した都市公園の中から、勝れた景観、独創的なデザイン、個性的な施設などを総合的に判断して選定したもので、全国の都市公園の模範となるものです。都内では音無親水公園のほかに、国営昭和記念公園、日比谷公園、上野公園、水元公園、代々木公園が選ばれています。
平成二年五月二十三日」
<手づくり郷土賞>
平成2(1990)年に「手づくり郷土賞」を受賞しています。
「江戸名所図会 右の陶板は、江戸名所図会に描かれたこの付近の様子です。」
「江戸名所図会 不動瀧」の図を陶器で焼いています。
色々な説明板見ましたが、陶器の説明板は初めてみました。
ここからさらに上流の場所ではあります。
<地図>
江
<公園内 上流→下流>
<下流→上流>
音無橋は昭和4年12月に起工し、同6年1月に竣工しました。
渋沢栄一は建築や開通式を支援しました。
王子本町1丁目と滝野川2丁目を結んでいます。
(説明板)
「 音無橋
音無橋の名の由来は、架橋されている石神井川に求められる。石神井川は多摩地方から東流し、北区において隅田川と合流するが、王子権現付近より以東の路線はかつて滝野川あるいは、音無川と呼ばれていた。音無川の名は紀州熊野権現本宮の近くにある音無川に因んだものである。
本橋は、昭和5年の架橋以来、周辺の交通の便を確保するとともに、地域の発展の要として機能している。」
「絵本江戸土産(広重作)の音無川」と「完成当時の音無川と音無橋」が添えられています。
歩道脇の欄干にも「絵本江戸土産」のプレートがはめ込まれています。
「王子稲荷社」「音無川の堰」「王子滝の川」「飛鳥山総図」。それぞれ2枚づつ、合計8枚。
「絵本江戸土産」から、欄干と同絵を引用(飛鳥山は其一と其二を合成)
「武藏百景之内 王子瀧の川」(小林清親)
小林清親が、広重の「絵本江戸土産 瀧の川」と同じアングルで、しかも同じ題名で瀧の川を描いています。
「滝の川紅葉の三曲」楊斎延一 明治26(1893)年)
滝の川が3方向に分かれる三曲は、明治時代も紅葉の名所だったようです。
<名所江戸百景>
名所江戸百景の錦絵が、音無橋から階段を下りたところに掲示されています。
階段からさらに親水公園に降りて、王子大堰跡を見通した画です。
「王子大堰」は明暦2(1656)年に築造され、人々は大滝と呼び王子の名所になっていました。
王子大堰から上流へ不動の滝や岩屋弁天へと音無川沿いに名所が展開していました。
石神井川は王子大堰から三手に分流していました。
「名所江戸百景 王子音無川堰タイ世俗大滝ト唱」(広重)「江戸切絵図」
料理屋の扇屋、海老屋あたりから、現在の音無親水公園のやや上流にあった
「王子大堰」の付近を描いた絵図です。
堰の上流、音無川の左岸に王子権現別当寺、金輪寺が描かれ、
対岸の高台には日光御成道に立ち並ぶ茶屋が描かれています。
江戸切絵図には「六コク坂」「此辺料理屋多シ」と記されています。
「江戸名所図会 音無川」
広重と同じアングルから描かれています。
「江戸名所図会の音無川と飛鳥山全図」を合成してみると、全景がよくわかりました。
飛鳥橋も確認できます。
「絵本江戸土産 音無川の堰 世俗大滝と唱」(広重)
浮世絵や江戸名所図会と同じアングルからの絵です。
「瀧の川の図」(小林清親)
滝野川の上の高台の光景が描かれています。
「瀧ノ川紅葉」(井上安治)
清親と同じ構図です。
「花美人名所合 滝の川乃紅葉」(尾形月耕 明治29(1896)年)
こちらも同じ場所かと思います。
<現在の堰跡>
音無橋上から音無川の上流にかつてあった堰は、取り壊されて跡形もありません。
堰は、図の文字入れしたところにありました。
親水公園には、堰がなくなったので、ポンプアップで導水しているのかと思いきや、
石神井川からの取水ではなく、循環ろ過のようです。
<1911(明治44)年出版「東京風景」の瀧の川>
川が3手に分流し、本流はその先に下がっています。右手に飛鳥山が見えます。、
瀧の川の上流から堰方面を撮った写真でしょう。
不動の滝は、正受院の裏手、石神井川沿いに落ちていました。
河川改修により現在はありません。
画像は、1枚目、正受院の不動堂の裏から石神井川を見たところです。
2枚目、不動堂の裏を見上げたところです。
3枚目、石神井川の対岸から不動堂方面を見たところです。
<不動の滝跡>
正受院の参道に、真新しい北区説明板「不動の滝跡」があります。
「不動の滝跡」説明板
「不動の滝跡
王子七滝の一つ「不動の滝」は、泉流の滝とも称され、正受院本堂裏の峽から坂道を石神井川を下った所にありました。『江戸名所図会』は、この地の江戸時代後期の景観を次のように説明しています。
正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として硝壁に趨る、此境は常に蒼樹蓊欝として白日をさゝえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり
室町時代、大和国に学仙坊という不動尊の祈祷を修行する僧侶がいた。ある時、霊夢を見て東国の滝野川の地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創した。この年の秋、石神井川が増水したが、水の引いた川から不動の霊像をすくいあげた。学仙坊は、これを不動尊修法の感得した証と喜び、滝の傍に安置した、と伝えられます。
江戸時代には、病気治癒祈願や涼をもとめる人で賑わいました。
令和二年三月 東京都北区教育委員会」
<緑地内>
(説明板)
「松橋弁財天洞窟跡 北区滝野川四ー二地先
もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所でした。左の絵は、『江戸名所図会』に描かれた「松橋弁財天窟 石神井川」ですが、ここでは「この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。」とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。画面を見ると、岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。
崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。『新編武蔵風土記稿』によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。
また、現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。旧滝野川村付近には滝が多く、夏のこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の『名所江戸百景』や『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれました。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑わっていたのです。
滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は、昭和五十年(一九七五)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます。
平成九年三月 北区教育委員会」
<憩いの水辺>
「江戸名所図会 松橋弁財天窟 石神井川」
松橋弁財天窟の挿絵です。
「江戸名所百景 王子滝乃川」「東都名所 王子滝の川」(広重)
現在の音無もみじ緑地の辺りを描いたもので、滝野川弁天(岩屋弁天)の洞窟が描かれています。
「絵本江戸土産 王子 滝の川 其二 同所滝 岩屋の辨天」
正受院は赤ちゃんの納骨や供養をしていることから「赤ちゃん寺」とも呼ばれています。
<江戸名所図会>
「正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として消壁に趨る、
此境ハ常に蒼樹蓊鬱として白日をささえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり」
<瀧不動尊>
北区説明板「不動の滝跡」が掲示されています。
「滝不動尊」標石があります。
<鐘楼門>
明治35年築の鐘楼門です。下から仰ぐと鐘が見えます。横の説明板には、昔の鐘は戦時供出とのこと。
<慈眼堂ほか>
赤ちゃんの納骨堂ほか、赤ちゃん供養が整っています。
<石造近藤守重坐像>
(説明板)
「 石造近藤守重坐像
正受院本堂前所在
坐像は、現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂府」という標柱を建てた近藤守重の肖像です。
守重は、明和八(一七七一)年、江戸町奉行所与力の次男として生れ、家督を継いで、通称を重蔵、号を正斎と称しました。
寛政十年(一七九八)三月、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、北方交易の海商高田屋嘉兵衛の協力で、石像のように、甲冑に身を固めてエトロフ島に渉り、現地の開発に尽力しました。また、利尻島の探検にも参加し、蝦夷地についての著書も著しましたが、文政五(一八二二)年から九年までの四年間を、正受院の東隣に、瀧野川文庫という書斎を設けて住みました。
石造近藤守重坐像は、この記念に、江戸派の画家として著名だった谷文晁に下絵を依頼して製作したと伝えられます。
平成元年三月 北区教育委員会」
<不動堂>
不動堂の左手に数基の不動明王が並んでいます。
不動堂の裏がかつて不動の滝があった場所です。
<瀧野川の渓流>
不動堂の左裏手に「新東京名勝 選外十六景 瀧野川の渓流」が、ひっそりと建っています。
金剛寺付近は豊島氏の支族滝野川氏の居館である滝野川城跡であるとも言われています。
<山門>
山門の石柱には「紅葉寺」とあります。
山門前に5基の石造物が並んでいます。
「西国三十三所供養佛」「旧蹟 瀧野川七福神」「道標」「水子地蔵」「庚申塔板碑?」
<源頼朝布陣伝承地>
門前左に説明板。
(説明板)
「 源頼朝布陣伝承地
北区滝野川三・八八・一七 金剛寺境内
治承四年(一一八○)八月、源義朝の三男源頼朝は、配流先の伊豆国で兵を挙げました。初戦に勝利するも、石橋山の合戦で敗れて安房国に逃れ、そこから上総国・下総国の諸将を味方につけ、隅田川を渡ります。滝野川・板橋を経て、府中六所明神へ向かい、さらにそこから鎌倉を目指します。そして鎌倉の大倉に本拠を築いた頼朝は、後に鎌倉幕府初代将軍として、その場所に政権を樹立することになるのです。
その途次の十月、頼朝は軍勢を率いて滝野川の松橋に陣をとったといわれています。松橋とは、当時の金剛寺の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って、松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。弁財天を信仰した頼朝は、崖下の洞窟の中に祀られていた弘法大師の作と伝えられる弁財天に祈願して、金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、田地を寄進したと伝えられています。
この地域は、弁天の滝や紅葉の名所として知られていました。現在、金剛寺が紅葉寺とも呼ばれるところに、この頃の名残が見られます。
平成元年三月 東京都北区教育委員会」
<鹿島万平翁之碑>
鹿島万平翁は、明治5(1872)年に民間初の近代的紡績工場の鹿島紡績所を滝野川(反射炉跡→靴製造所跡→鹿島紡績所跡)に創設しました。
現在、跡地は国の重要文化財の赤煉瓦酒造所跡となっています。碑は明治38(1905)年の建立です。
<村雨軒化風句碑>
「白露や無明の夢乃さ免し庵」
<為山句碑>
「由可李那く か流やまこ登の 花の宿 為山」
<柳袋川柳碑>
「落葉盤おしむ那あと耳芽能春支度 二世括嚢舎柳袋 石井玉泉手」
<玄朱亭狂歌碑>
「花笠をぬふ梅や那幾春能もやふを よ勢き連の谷濃戸尓者類鶯乃聲 玄朱亭印肉墨」
<邨山退翁先生高臥圖>
線刻と漢文の碑、不詳。
<仏足跡>
<水子地蔵>
<七福神>
<弁天堂>
新しいです。
<富士講碑>
(説明板)
「富士講先達の安藤冨五郎顕彰碑
富士山は神のやどる霊山として古来から人々による崇拝による信仰をあつめてきましたが、登拝すると数々の災難から逃れられるとも信じられ、富士山参詣による信仰が形成されてきました。冨士講は、これらを背景に江戸時代、関東地方を中心とする町や村につくられた信仰組織です。
ここにある富士山をかたどった記念碑は冨士講の先達として活躍した安藤冨五郎の顕彰碑です。碑の表側には参という文字を丸でかこんだ講紋および「三国の光の本をたちいてて こころやすくも西の浄土へ」という天保八年□月十二日に没した伊藤参翁の和歌の讃が刻まれています。裏側の人物誌によれば、冨五郎は宝暦五年(一七五五)、滝野川村に生れましたが青少年時代から冨士信仰の修行をおこない、丸参講という講組織をつくって冨士信仰を広めるのに努力した。その甲斐もあってか、中興の祖である食行身禄(伊藤伊兵衛)の弟子の小泉文六郎から身禄が姓とした「伊藤」という姓を許されて伊藤参翁と称した。富士への登山・修行は五十回におよび、冨士信仰にかかわる多くの人々から敬われ、八十才を越えてもなお、顔立は早春に野山の枯草を焼く野火や紅色の雲のように活気に満ち、嘘や偽りのない美しさを保っていたとあります。
冨五郎が生きた時代、冨士信仰は、政治・経済の混乱や封建的な身分制秩序による苦難から人々が救われるには男女の平等や日常生活のうえでの人として守るべき規範を実践し、これによって弥勒の世を実現するべきだという信仰思想に触発され人々のあいだに急速にひろまりました。
平成七年三月 東京都北区教育委員会」
<右から5基を順に>
「弘法大師一千百年供養塔」
「富士講歌碑」
「一眠利永き浮世を夢尓左へ 見し白妙能婦し尓ま可勢天
三代目伊藤廣山 樫秀吉謹書也」
「安藤冨五郎顕彰碑」
三角形の石碑です。説明板に詳述。
「金剛寺中興碑」
漢文の大きな碑です。
絵本江戸土産に富士塚が描かれている!と勘違いしました。家の屋根のようです。
浮世絵のほうで確認すると黄色に着色されているので屋根ですね。
<石造物3基>
「辨天堂造営供養塔」(中)、「不動明王像」(左)、「馬頭観音像」(右)
<本堂/釈迦堂>