○ 装束稲荷神社
○ 王子稲荷神社
○ 王子稲荷の坂
○ 王子神社
○ 名主の滝公園
「名所江戸百景 王子装束ゑの木大晦日の狐火」(広重)
広重の名所江戸百景に描かれている「王子装束ゑの木大晦日の狐火」です。
多くの狐が榎木に集まっています。
「江戸名所道戯尽十六 王子狐火」(歌川広景)
狐火と左手に王子稲荷が見えます。
大名行列ごっこを楽しむ狐たち。狐に化かされた人も、狐の担ぐザルに乗ってお殿様気取りでご満悦です。
行列は、「挟み箱」の代わりにカボチャを担ぎ、毛槍の代わりにトウモロコシをつけた竹竿を持っています。
「東京名所三十六戯撰 王子」(昇齋一景 明治5(1872)年)
大きな榎木が見えるので、装束稲荷の前でしょう。
狐が二匹見えますが、二人の美女も狐で、尻尾が見えています。
多くの狐火が見えます。
<装束畠 衣裳榎>
江戸名所図会の「装束畠 衣裳榎」です。狐火が多く描かれています。
<狐の行列パンフレット>
狐の行列は復活して定着しているようです。
<装束稲荷神社>
(説明板)
「王子の狐火と装束榎
北区王子二ー三〇ー一四 装束稲荷神社
かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。
毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は装束榎と呼ばれていました。狐たちがともす狐火によって、
地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。
江戸の人々は、商売繁盛の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も盛んになっていました。やがて、王子稲荷神社の名とともに王子の狐火と装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、左の広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。
昭和四年(一九二九)、装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後に、この榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成五年(一九九三)からは、王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって、王子「狐の行列」が始められま
した。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。
平成九年三月 東京都北区教育委員会」
<石碑「装束榎」と「御神木榎」>
石碑の裏には榎が植えられています。
<狛狐>
狐が咥えているのはカギです。
<大田南畝句碑>
「いざあけん かぎ屋扇屋とざすとも 王子の狐 かぎをくはえて 南畝」
扇屋は今も玉子焼きを販売しています。こちらで記載。
<御手洗>
大晦日の夜に、関東一円の稲荷神社から狐たちが集まって、参詣したという伝承があります。
正面に惣門があり、本社まで参道が続いています。
一の鳥居の右手に「市杵島神社」が祀られています。
<額面著色鬼女図>
<市杵島神社>
階段参道手前右手に、市杵島神社があります。
<脇参道>
王子稲荷神社は、境内に幼稚園があり、平日は惣門が閉じられているので、
惣門の左手を進み、坂を上った先にある鳥居から神社へ入ることとなります。
<狛犬/狐>
狛犬や狐も、赤や白などマスクをしています。中にはマスクをしていない狐がいます。
<常夜燈兼道標>
南側参道に道標を兼ねた常夜燈があります。
寛政3年(1791)11月造立。中山道に立っていたものを昭和32年に移築。
中央「王子 稲荷大明神」
左「古礼与り王子ミち」
右「これより王子みち
<本宮>
拝殿の右手に通路が続き、突き当りに王子稲荷神社の本宮があります。
扁額は亀田鵬斎の揮毫です。
<亀山稲荷神社/嬉野森稲荷神社/北村稲荷神社>
本宮の右手に通路が続いており、その先に3社が合祀されています。
左から亀山稲荷神社、嬉野森稲荷神社、北村稲荷神社です。
<御石様>
三社の左に、願いごとをかなえてくれると言う御石様があります。
<石祠/狐穴>
階段を上ると、その上に石祠と狐穴があります。
<千種庵霜解歌碑>
「加くて古そ 以の流加ひ安連 衣食住 奈尓くら可らむ 三つの燈火 千種庵霜解」
<古帳庵句碑>
「苗代や飛鳥は滝の川つゞき 古帳庵
のぼる日に露のむ稲のはらみかな 古帳女」
天保12(1841)年正月の建立。
「江戸名所図会 王子稲荷社」
江戸名所図会に描かれた王子稲荷社です。
垢離場が現在はいなり幼稚園になっています。
狐穴に上がる階段が、現在は反対側についています。
「東都三十六景 王子稲荷」(広重)
浮世絵に描かれた王子稲荷神社です。
「名所江戸百景 王子稲荷乃社」(広重)
遠景に筑波山が見えます。惣門の参道方向を見た図です。
「絵本江戸土産 王子稲荷社」(広重)
「武藏百景之内 王子稲荷社」(小林清親 明治17年)
広重と同じ構図で王子稲荷社を描いています。
「東京開化狂画名所 王子稲荷女異人の時参り」(月岡芳年 都立図書館蔵)
ご婦人は頭にロウソクを3つ差し、右手に金づちをもっています。
時参りで、藁人形を神木に打ちつけようとするところ、なぜか神狐が邪魔しています。
白装束ではないことを咎めているのか、人に見られてはいけないのに男に見られているためか。
作者の意図がわかりません。
(標柱)
「王子稲荷の坂
この坂は、王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前がつけられています。また江戸時代には、この坂を登ると日光御成道があり、それを北へ少し進むとさらに北西に続く道がありました。この道は姥ヶ橋を経て、蓮沼村(現板橋区清水町)まで続き、そこで中山道につながっていました。この道は稲荷道と呼ばれ、中山道から来る王子稲荷神社への参詣者に利用されていました。
平成五年三月 北区教育委員会」
源義家が奥州征伐(前9年の役)の際には当社で金輪仏頂を修法し、凱旋の日には甲冑を奉納したと伝えられています。
王子という地名は元亨2(1322)年に領主豊島氏が熊野より王子大神を勧請した事に由来します。
熊野信仰の拠点として尊崇を集めています。
徳川家康は天正19(1591)年に朱印地二百石を寄進、将軍家祈願所と定めらました。
徳川家光は社殿を新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせ奉納しています。
徳川吉宗は 出身である紀州ゆかりの熊野信仰の拠点であった王子権現社を大いに崇敬し、
多大な庇護を行っています。元文2(1737)年に飛鳥山を寄進、桜を多く植えて庶民遊楽の地としました。
<社号標/鳥居/社殿>
社号標には「元准勅祭王子神社」と刻まれています。
社殿は戦後の再建です。
<由来>
(由来)
「王子神社(由来)
御祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大御神、速玉之男命、事解之男命
元亨二年(一三二二)、豊島郡を支配していた萱島氏が、熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子宮として祀られるようになりました。これにより、村名が岸村から王子村に改められ、王子という地名の由来となりました。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州の地名に擬したとの説があります。
王子神社は、豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進をうけ、江戸時代には、徳川家康が社領として二〇〇石を寄進しました。これは、王子村の村高の三分の二にあたります。別当寺は、王子神社に降接していた禅夷山金輪寺で、将軍が日光社参や鷹狩の際に休息する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と関係が深く、三代将軍家光は社殿新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も析願に訪れ、その後も、五代綱吉、十代家治、十一代家斉が社殿の造営修繕をし、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も十七社を数えました。
紀州徳川家の出であった八代吉宗は、紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。この後、花見の名所となった飛鳥山や王子神社周辺は、江戸近郊の名所として多くの人が訪れるようになります。特に、七月十三日に行われた王子神社の祭札は「槍祭」とよばれ、小さな槍を買い求める人や田楽躍を見物する多くの人でにぎわったことが見物記などからうかがえます。
明治時代にはいると明治元年(一八六八))、准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされました。
戦前の境内は「太田道瀧雨宿りの椎」と呼ばれた神木をはじめ、多くの樹木が茂っていましたが、戦災で焼失したため、境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは、戦災を逃れた貴重な文化財です。戦後は、氏子一同により権現造の社殿が再建され、現在の景観にっています。
末社 関神社 蝉丸法師を祭神とし、理容業者により信仰されている全国でも珍しい「髪」の祖神です。
平成二十五年六月 東京都北区教育委員会」
(説明プレート)
「北区指定有形文化財(歴史史料)
「若一王子縁起」絵巻(模本)」
寛永18(1641)年、徳川家光は林羅山に命じて「若一王子縁起」三巻を作成させ寄進しています。
「東京都北区指定無形民俗文化財 王子田楽
王子田楽は、豊かな実りと無事を祈って、毎年8月、王子神社の例祭で、神前に奉納される伝統芸能です。花笠をつけ、鼓・筅・太鼓方が笛に合わせて踊る、全国でも数少ない芸能です。しばらく絶えていましたが復元され、王子田楽衆と王子田楽式保存会によって保存・伝承されています。
東京都北区教育委員会」
<東京十社>
准勅祭社に指定された十二社のうち、東京23区内の神社が現在の「東京十社」です。
<神輿>
平成29(2017)年に奉納された本社神輿です。
<関神社(髪の祖神)>
「髪の祖神」が祀られ、御祭神は蝉丸公。昭和34年に再建されています。
「「髪の祖神」関神社由緒略記」があります。
境内には毛塚も建てられています。
(掲示)
「髪の祖神」関神社由緒略記
御祭神 蝉丸公 神霊
逆髪姫 神霊
古屋美女 神霊
「これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも逢坂の関」の和歌で有名な「蝉丸公」は延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又 髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社
」として、ゆかりの地 滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代 ここ「王子神社
」境内に奉斎したのが、当「関神社 」の創始なり。 昭和二十年四月十三日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け浄財を募り昭和三十四月五月二十四日これを再建せり。
王子神社 宮司
毛塚の由来
釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝き世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。
毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和三十六年五月二十四日「関神社」境内に毛髪の塔を建立し永く報恩の一助とする。
関神社奉賛会
東京人毛商工組合
東京床山協会
東京かつら協会
関西かつら協会」
「毛塚」「関神社再建碑」「関神社 新社殿御造営費奉納者 昭和45年9月」
「江戸名所図会 王子権現社」
江戸名所図会の王子権現社は3枚に渡って描かれています。
「江戸名所図会 王子権現社 祭礼」
<東照大権現>
江戸名所図会には多くの境内社が見られ、その数は17社にも及びます。
戦災で焼失し、再建されたのは関神社のみです。
図会では裏手の高台に家康を祀った「東照大権現」が描かれています。
家光の日光社参では、王子通過時は「下に下に」は言わずに通過したと
古老が伝唱しているらしいです(王子田楽のサイトで拝見)。
<康家清光合社>
康家清光合社という、室町時代に当社を庇護した豊島康家清光を祀る末社も祀られています。
「清光康家」の記載が見えます。
「名主の滝」は、男滝・女滝・独鈷の滝・湧玉の滝の4つの滝からなります。
現在は男滝のみ稼働しています。池の水をポンプで汲み上げ流していて稼働時間は10:00-16:00です。
(掲示)
「名主の滝公園案内
本園は嘉永年間(一八四八年?一八五四年)王子村の名主畑野孫八が自邸に開いた江戸情緒豊かな庭園で台地の斜面を巧みに利用し自然の風景を取り入れ園内の滝は古来王子の七滝の一つとして著名です。
(以下注意事項省略)
東京都北区」
「絵本江戸土産 十條の里 女滝 男滝」(広重)