○ 江戸名所図会「落合惣図」「落合蛍」
江戸自慢三十六興「落合ほたる」
○ おとめ山公園(御留山/御禁止山)
○ 東山藤稲荷神社
○ 東山藤稲荷神社旧社地
○ 江戸名所図会 藤森稲荷社
○ 絵本江戸土産 藤稲荷
「江戸名所図会 落合惣図」では、神田川と妙正寺川の合流点(落合)を中心に描かれています。
神田川に沿って「泰雲寺」「落合」「一枚岩」「田島橋」と記載されています。
絵図の左上に「薬王院」「鼠山」、右上に「氷川(氷川神社)」「富士(東山藤稲荷神社)」と記載。
画像その2は御留山部分の拡大です。
惣図のほかに「泰雲寺古事」「藤森稲荷社」「一枚岩」「落合蛍」が別に描かれています。
妙正寺川沿いの水田から氷川神社、おとめ山方面が描かれています。
「永正十三年正月 後奈良院 御撰何曾 秋の田の 露おもげなる けしきかな 蛍」
竹の葉をつけた竿を使い、螢を追っています。あるいは団扇、扇子で追っています。
捕らえた螢を入れる虫籠も描かれています。
歌川豊国(三代)が人物、歌川広重(二代)が風景を描いた合筆「江戸自慢三十六興 落合ほたる」です。
「おとめ山公園」は、落合崖線の斜面緑地にあります。
昔からこのあたりは鳥や獣の狩猟の地で、太田道灌がこの地に狩りに来て、山吹伝説があります。
江戸時代になると、おとめ山公園の一帯は、将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場となりました。
このため、立入禁止となり「御留山」「御禁止山」と呼ばれ、現在の公園の名称の由来となっています。
明治維新後、近衛家の所有地となり、大正初期に相馬家(江戸時代に岩城中村藩主)が、
近衛家からおとめ山公園西側部分を購入、1915(大正4)年に転居してきます。
長岡安平が設計(1925年)した池泉を中心とした回遊式庭園を築造しました。
1939(昭和14)年に東邦生命が買収し、宅地開発が進められますが太平洋戦争に突入し、
戦後は十分な管理がされず、武蔵野樹林の雑木林へと変貌しました。
1964(昭和39)年に大蔵省の所有地となり、公務員住宅の建設計画が自然を守る運動により計画は縮小、
1969(昭和44)年に新宿区立おとめ山公園として開園しました。
その後拡張整備が行われました。
江戸時代、ほたる狩りの名所として、「落合のほたる」「谷中の蛍沢」「音無川のほたる」などが有名でした。
「落合のほたる」は、江戸名所図会や浮世絵にも描かれています。
また、大正末期から、落合には蛍と同じく綺麗な水を求めて多くの染色工房が集まりました。
「おとめ山通り」坂下の西側入口
「相馬坂通り」の西側入口
<おとめ山公園の沿革>
(説明板)
「新宿区立 おとめ山公園の沿革
江戸時代には、このあたり一帯をおとめ山と呼んでいました。この名は、将軍家の狩猟地で、立ち入り禁止の意味の御留山から起こったものと言われています。
明治に入り、御留山の周辺は近衛家の所有となりましたが、大正初期に現在のおとめ山公園を含む西側半分を相馬家が取得し住まいとしました。相馬家は敷地内に長岡安平の手による池泉を中心とした回遊式庭園を築造し、現在その一部が公園に残っています。
その後、敷地は分譲され、戦後は大蔵省が所有していましたが、荒れ果てていたものを、地元の人々が大蔵省に陳情して、公園として整備されることになり、昭和44年に新宿区立おとめ山公園(面積約1.5ha)として開園しました。
その後、区は、公園のみどりや湧水の保全拡充を図るとともに、あわせて、地域のレクリエーションの場や防災拠点を創出するため、隣接地を取得して公園を拡張することとしました。そして、平成26年10月、拡張整備が完了し面積約2.7haの現在の公園になりました。」
<おとめ山公園と相馬邸>
(説明板)
「おとめ山公園と相馬邸
おとめ山公園周辺は、大正時代初期にをつとめた相馬中村藩の相馬家が取得し、住まいとしました。
相馬邸は現在のおとめ山公園を含む広大な敷地を有しており、敷地の北側には「黒門」と呼ばれる立派な正門がありました。大正3年(1914年)に長岡安平が設計した敷地内の庭園は、松林や既存樹林を取り入れた回遊式の庭園となっており、芝の大斜面地や湧水を活かした流れなどがありました。流れは現在も同じ位置にあり、おとめ山公園の原型はこの時期に作られたと言えるでしょう。
※1相馬中村藩:江戸時代に現在の福島県相馬市や南相馬市などの地域を治めていた藩
※2長岡安平:明治期から大正期にかけて東京府の公園係長などとして活躍し、数々の名園を手掛けた造園家」
<芝斜面>
「芝斜面
この写真は、大正初期から昭和初期にかけてこの辺りを所有していた相馬家(かつての相馬中村藩主)の庭園の様子です。邸宅前の南向き斜面には一面に芝を張り、点々と松を植栽しています。
おとめ山公園の整備に際して、落合の歴史的景観の再生を図るため、相馬邸時代の面影が感じられる芝斜面の姿を再現しています。
「相馬家邸宅写真帖」(公益財団法人 東京都公園協会蔵)」
<相馬邸だった頃のおとめ山公園>
「相馬邸だった頃のおとめ山公園
おとめ山公園を含む一帯は、大正初期から昭和初期にかけて相馬中村藩主だった相馬家が所有し、邸宅や庭園を構えていました。この写真はその当時の庭園の様子です。現在の風景と比べると、流れや園路の位置は当時とそれほど変わっていないことがわかります。
「相馬家邸宅写真帖」(公益財団法人 東京都公園協会蔵)」
<水琴窟/燈籠>
水施設が一部故障したため、使用中止となっていました。
水琴窟と燈籠(林間デッキ北・みんなの原っぱ脇)
燈籠と燈籠基台(林間デッキ南・ふれあい広場)
<湧水>
落合崖線からの湧水は「東京の名湧水57選」に選定されています。
(説明板)
「おとめ山公園の湧水
おとめ山公園では、区内でも貴重な存在となった湧水を今でも見ることができます。
目の前の場所が西側斜面からの湧水の湧き出し口です。ここを起点に北側斜面からも多くの湧水が流れ込み、水路の下流付近では、季節によってはまとまった水量の流れをご覧いただけます。
おとめ山公園の湧水は、身近にふれることができるすぐれた湧水として平成15年に「東京の名湧水57選」のひとつに選定されています。」
<弁天池(上の池、中の池、下の池)>
湧水はせせらぎとなり、弁天池(上の池、中の池、下の池)を構成しています。
上の池と中の池を横切る太鼓橋が架かっています。
上の池、太鼓橋、下の池
下の池と四阿
<おとめ山公園とホタル>
(説明板)
「おとめ山公園とホタル
おとめ山公園周辺は、かつてはホタル狩りの名所として知られていました。
江戸名所図会の「落合螢」には江戸時代のホタル狩りの様子が描かれています。うちわを使う者、長い竹竿を振り廻す子、手のひらで追う者が見えます。この図会は、東山藤稲荷か、おとめ山付近を描いたものと思われます。
また、江戸自慢三十六興の「落合ほたる」からもホタルを楽しんでいた当時の様子がうかがい知れます。
このように、かつて、この地がホタルの名所であったことから、新宿区では、昭和48年からこの公園でホタルの飼育を始め、昭和53年からは毎年ホタル観賞会を開きました。
その後、平成13年に地元の「落合蛍を育てる会」の方々の手によって活動が続けられています。」
<ほたる舎>
江戸時代、このあたりが蛍の名所であったことから、湧水を利用した蛍の飼育所があります。
1973(昭和48)年からホタル飼育が行われています。
<林間デッキ>
みんなの原っぱとふれあい広場を結ぶ林間デッキ。
林間デッキでは、御留山の雑木が眼前に一望できます。
中の池・太鼓橋・上の池も望めます。
(説明板)
「おとめ山公園周辺の地形
おとめ山公園が所在する落合地域の「落合」とは、神田川・妙正寺川の流れが「落ち合う」ところであることに由来しています。この二つの川の浸食により低地、斜面(崖線)、台地という形ができ、かつては低地には水田、台地には農村が広がりました。斜面一帯は緑地となり、東西に連なる「斜面緑地」が生れました。その中におとめ山公園は位置し、今も豊かな緑が残されています。
江戸名所図会の「落合惣図」には、江戸時代の落合の様子が描かれています。西から下落合の台地を望み、蛇行する神田川・妙正寺川が落ち合っています。右手に田島橋があり、その向こうに氷川神社、薬王院、東山藤稲荷神社の社が見えます。
右図はおとめ山公園周辺の現況図に昭和初期(1930年頃)の地形を重ねたものです。公園周辺の台地には幾つもの谷がひだ状に入り込んでいたことがわかります。こうした谷の先端ではかつては湧き水が多くみられ、おとめ山公園では今も湧水が園内の流れや池をうるおしています。」
<おとめ山公園のスダジイ>(ふれあい広場)
(説明板)
「おとめ山公園のスダジイ」
(前略)この木は、公園になる以前からこの場所に生えており、おとめ山公園周辺のかつての姿を今に伝える象徴として、公園整備に際してそのままの姿で残しました。」
<見晴台と四阿>
公園西側の南詰に見晴台があります。おとめ山の頂上ですかね、見晴らしはいまいちです。
近くに林間広場と四阿があります。四阿に「おとめ山賛歌」の掲示があります。
「おとめ山賛歌
山を上れば 林間広場
緑を縫って 小鳥とぶ
山を下れば 泉の広場
谷の襞から 清水湧く
野鳥の森の 歌声響き
弁天池には カモ遊ぶ
先人残せし おとめ山
遥か未来へ 伝えたい
平成十一年(一九九九年)十月 おとめ山の自然を守る会」
おとめ山公園の東側と西側の間の坂道がおとめ山通りです。
<標柱 おとめ山通り> 新宿区下落合2-10-7
(標柱)
「新宿区 おとめ山通り
江戸時代、おとめ山一帯は将軍家の狩猟地で一般人の立入が禁止されていたため
御留山(おとめやま)と呼ばれていた。」
「カルガモ横断注意」の道路標識があります。初めてみましたこの標識。
カルガモも、この公園を子育てに利用しています。
おとめ山公園の西側に、公園に沿って「相馬坂」があります。
坂の上と下に標柱があります。
(標柱)
「相馬坂
この坂に隣接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。
平成十五年三月 新宿区教育委員会」
坂下 新宿区下落合2-6-18
坂上 新宿区下落合2-24-6
東山藤稲荷神社の社伝によれば、清和源氏の祖六孫王源経基が、延長5(927)年に京都稲荷神社を勧請して、
東国源氏の氏神として祀ったと伝えられています。
もとは現在地の坂下(下落合2-10-7付近)にありましたが、第二次大戦で焼失し、
1953(昭和28)年に現在地へ移転しました。
境内に大きな藤の木があったことから藤森稲荷、また、富士稲荷、東山稲荷とも呼ばれました。
明治以降は下落合の氷川神社が兼務しておりこちらは無人です。
東山藤稲荷神社は、おとめ山公園と接しています。
おとめ山公園の見晴台に向かう階段途中から見えますが、公園内からは行けません。
参道からアプローチします。
<一の鳥居>
おとめ山通りから参道を進むと「一の鳥居」があります。
<二の鳥居>
参道の階段を上がると、左手に説明板「由緒 東山稲荷神社々務所」(旧社地掲示と同一)。
二の鳥居と手前に神狐。
鳥居の後ろに、文政年間に奉納の壊れている鳥居があります。
右手には、鳥居の柱が転がっています。
左手には、「正一位 稲荷大明神」の扁額が雑多に置かれていました。
<神狐像と台座>
神狐像の台座背面に、大田南畝の揮毫「蜀山人書」とあります。
台座「世話人 蜀山人書 良夜 藤次郎 庄助 小日向水道町石工勘介」
台座部分は文化15(1818)年の奉納です。
<神狐>
文化15(1818)年の台座に乗っていたと思われる古い破損した神狐。
<手水鉢>
手水鉢 寛延3(1750)年奉納 「東山稲荷大明神」と刻まれています。
手水鉢 天保9(1838)年奉納
手水鉢 不明 寛延4年の地蔵前
手水鉢 不明 参道の階段両脇
<藤棚>
藤棚があります。
<社殿>
おとめ山公園の見晴台への階段に接しています。
おとめ山通りの坂下に、東山藤稲荷神社旧社地があります。
社号標「東山藤稲荷神社」(昭和40年)
説明板「由緒 東山稲荷神社々務所」
社号標「正一位東山藤稲荷大明神」(天保7年)
「江戸名所図会」には「藤森稲荷社」(東山いなりともいふ)として旧社地での様子が描かれています。
新井薬師道に面した参道入口右手に滝が描かれています。
参道の石段を上ると幟が立ち並び、藤棚も描かれています。
左上には鳥居が連なる参道と狐穴・奥之院が描かれています。
「藤稲荷に滝あり 夏日是にうたるときは冷気肌を徹して三伏の暑さを忘れしむ」とあります。
不動明王像の下に、龍の口から湧水が流れ落ちて瀧となっています。垢離場が設けられていたようです。
「江戸時代には氷川明神社といい、旧下落合村の鎮守社である。祭神は稲田姫命一座で女体の宮ともいわれた。
下高田村鎮守の高田氷川神社の祭神が、素戔嗚尊一座で男体の宮と呼ばれたため、合わせて夫婦の宮と呼ばれた。」
(「温故知しん!じゅく散歩」より引用)
「江戸名所図会 落合惣図」
「江戸名所図会 落合惣図」の氷川神社部分を拡大。
<表参道/南参道>
東側が表参道で、新目白通りに面した鳥居は、南参道となります。
<御由縁>
「新宿下落合氷川神社 新宿区下落合二丁目七番十二号
御由緒
当社の御創建は今より二千四百年前、第五代孝昭天皇の御代とも、又更に上古と云われて詳らかではありませんが、蛍の名所として有名だった落合の郷、神田川の守り神として古くから信仰されてきました。豊島区高田氷川神社と夫婦の社と云い伝えられ、江戸期の文献には将軍家の御狩場「御留山」の山裾に広い境内を有していた様子が描かれています。
太平洋戦争末期に戦火に包まれるという憂き目に遭うものの、復興を遂げ昭和二十六年現在の御社殿が再建されました。(以下略)」
<境内社>
境内社の合殿には、三峰社、天祖社、稲荷社、諏訪社、浅間社が合祀されています。
<消防記念碑>
「消防記念碑
陸軍大将大庭二郎書」
<日露戦役記念碑>
「日露戦役記念碑
陸軍大将正三位勲一等功一級子爵川村景明書」
明治43(1910)年5月の建立。裏面に戦没者48名の名が刻まれています。
<狛犬>
慶応元(1865)年6月に地元の氏子が奉納。石工は兜木文蔵。
獅子の子落としを表現しています。
<水鉢>
文政7(1824)年9月に地元の氏子が奉納。
正面中央に刻まれた三つ巴紋は、近年の追刻とのこと。
<社殿>
社殿は1951(昭和26)年の再建。
下落合氷川神社前の路傍(東山藤稲荷神社や新井薬師梅照院への参詣路)にある庚申塔で、
文化13(1816)年に建てられたものです。
形態は駒型で、邪鬼を踏みつけた青面金剛像を主尊とし、邪鬼の下には三猿が刻まれています。
石塔の右側面には「左ぞうしがや道」、左側面には「右ばば下道」と刻まれ、道標も兼ねています。
道標を兼ねた庚申塔は、新宿区内では唯一のものです。
(新宿区サイトの「下落合二丁目の庚申塔」を参照しました。)