○ 大岡越前守上屋敷/燈籠と庭石
○ 霞が関跡碑
弁護士会館の植栽の中に案内板があります。
「 大岡越前守忠相 屋敷跡
名奉行として知られる大岡忠相(1667-1751)は徳川吉宗が八代将軍に就任した翌年
(享保2年・1717)に江戸奉行に起用され、以後20年間その要職にあった。
宝暦元年(1751)12月、半年前に没した吉宗の後を追うようにして亡くなった。
この地は晩年に忠相の上屋敷がおかれた場所である。」(案内板)
大岡越前守上屋敷に置かれていた2基の石灯籠、手水鉢、庭石が、法務省に移転保存されています。
また、由来の石碑があります。
現在の弁護士会館(検察庁旧庁舎)に大岡越前守の屋敷があり
旧司法省建設の際に屋敷跡から移転されたものです。
「由来
この燈籠と庭石は、明治初年まで 外桜田の一画 現千代田区霞が関1ー1ー3に存した
大岡越前守上屋敷に置かれていたもので 旧司法省庁舎建設(明治28年竣工)の際
その屋敷跡から現在地辺の司法大臣官舎裏庭へ移転されたと伝えられる。」
東京地検検事正・木村栄作氏が由来を書いた石碑が昭和61年1月27日に設置されたものです。
屋敷にあった燈籠と庭石が保存されていることに大岡越前守への敬意を感じます。
中央合同庁舎第2号館の桜田通り沿い側に「霞が関跡」碑が設置されています。
霞が関は、日本武尊が蝦夷に備えて関所を設けたという伝説によるとされ、
この関が大和から雲霞を隔てた場所にあったから、または雲霞を隔てた遠方を望める地であることから
霞が関と名付けられたといわています。
山手台地にあり、江戸城に接し、城を守る要所であることから、諸大名の屋敷地となりました。
錦絵では坂を中心に描かれることが多いようです。
(国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」を参照しました。)
(説明柱)
「霞が関跡
この辺りは、江戸時代、霞が関と呼ばれ、武家屋敷が建ち並んでいました。そして、その名は代々受け継がれ、現在では中央官庁街の代名詞になっています。
霞が関は、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の中にあったといわれていますが、正確な場所は分かっていません。今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区・多摩市・狭山市が考えられています。
千代田区に霞が関があったとの説は、『武蔵野地名考』という史料の「上古ハ荏原郡に属す今ハ豊嶋郡にあり。」という記述、『江戸名所図会』という史料の「桜田御門の南、黒田家と浅野家の間の坂をいふ。往古の奥州街道にして、関門のありし地なり。」という記述から導きだされています。
また、名前の由来については、『武蔵野地名考』に「この場所から雲や霞の向こうに景色を眺めることができるため」と記されています。
平成十二年三月建替 千代田区教育委員会」
<江戸名所図会 霞が関>
坂の下から描かれています。
<名所江戸百景 霞かせき>(広重)
坂の上からです。東京湾が見えます。
<江戸名所道戯尽 十五 霞が関の眺望>(歌川広景)
名所江戸百景と同様の構図で、坂の上から。東京湾が見えます。
下肥を運ぶ馬が暴れて下肥をぶちまけています。
武士は扇をあおいて鼻をつまんでいます。女性は袖で鼻を覆っています。
<江都名所 かすみかせき> 広重
坂の上から。東京湾が見えます。
<東都名所 霞ケ関全図> 広重
坂の下からです。富士山が見えます。
<絵本江戸土産 霞ケ関> 広重
坂の下からです。
「外桜田黒田侯と浅野侯の間の坂をいふ この所古き名所にて歌どもあまたあり」と記されています。