向島 牛嶋神社
(説明板)
「 牛嶋神社
貞観2(860)年に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈の東側にあった。昭和7(1932)年に隅田堤の拡張により、現在の場所に再建された。
本殿の左右に、神牛が奉納されている他、建長3(1251)年には牛鬼が社中を走り回り、落としていった牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者加藤千蔭の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(烏亭)焉馬(1743〜1822)の、「いそかすは濡れまし物と夕立のあとよりはるゝ堪忍の虹」の句碑などがある。
5年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式床しい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。」
<三輪鳥居>
鳥居の左右に袖鳥居がついてる珍しい鳥居です。
「三輪鳥居再建記念」があります。
平成30(2018)年10月1日、台風24号の強風二より倒壊、令和元年5月再建されました。
<狛犬>
拝殿前に3対の狛犬(墨田区登録文化財)。一番躍動感のある狛犬。
<神牛>(拝殿前1対)(墨田区登録文化財)
(説明板)
「(墨田区登録文化財)
撫牛
撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
この牛の像は、文政八年(一八二五)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。
平成十七年三月 墨田区教育委員会」
横にある日時計の石板に、牛が刻まれています。
<包丁塚/村田周魚句碑>
「慰霊 包丁塚」
「人の世の 奉仕に生きる 牛黙す 目魚」
<烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑>(墨田区登録文化財)
「いそかすは 濡れまし物と 夕立の あとよりはるゝ 堪忍の虹」
(説明板)
「(墨田区登録文化財)
談洲楼烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑
この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化七年(一八一○)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は、本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保三年(一七四三)生れ、本所相生町五丁目(現 緑一丁目)の大工の棟梁で、狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談州楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
元禄時代にひとつの話芸として確立された落語も、その後衰えていましたが、天明四年(一七八四)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。
文政五年(一八二二)八○歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。
(現在は寺・墓 共に江戸川区平井に移転)。
平成七年三月 墨田区」
<殲蒙古仇碑記/力石群>
殲蒙古仇碑記
碑の周りに9個の力石が集められています。
<荻園加藤先生之碑>
国学者・歌人の加藤千浪の碑。明治10(1877)の建立。
<富士碑>
三角の碑が「富士山 小御嶽石尊大権現」
ここは少々高くなっていて、富士塚の感もあります。
ここにも牛がいます。
<戦利兵器奉納ノ記>
「是レ明治三十七八年役戦利品ノ一ニシテ〜(以下略)」
現物はありません。同じようなものは他でもみかけます。
<浮島の牛牧>
農協の説明板があります。
<小梅稲荷神社>
<勝海舟の剣術修行>
勝海舟は、天保9(1837)年父小吉が隠居し、家督を相続。
島田虎之助の道場(浅草新堀)に住み込み、剣術修行を始め、夜は牛島神社(かつて王子権現ともいわれた)で寒稽古をしています。
「氷川清話 剣術修行の話
寒中になると、島田の指図に従うて、毎日稽古がすむと、夕方から稽古着一枚で王子権現に行て夜稽古をした。」