Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 向島 長命寺


〇長命寺 墨田区向島5-4-4

 山門から入ると言問幼稚園で、在園時間帯は門は閉められています。
 長命寺さくら餅の裏に裏門があり、そこに案内図が掲示されています。

(案内板)
「隅田川七福神コース案内板
  長命寺 弁財天
 当寺の寺号の由来については、有名な故事がある。その昔、三代将軍家光が墨水沿岸で鷹狩を行った際、急に病を催し、止むを得ずこの寺で休息することになった。そして境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、家光は霊験に感じ、長命水の名を捧げた。以後、長命寺と改めたのである。
 長命寺に弁財天をまつるのは、その長命水に関係がある。弁財天はもともと天竺の水の神であったからである。佛教とともに渡来してきてからは、次第に芸能の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神になったのである。」

     

   

    


出羽三山の碑 (墨田区登録文化財)

 裏門から入ってすぐ右手に、出羽三山信仰の出羽三山の碑があります。

「本碑は、浅草、大畑村、請地村、寺嶋村、寺嶋新田、須崎村、瓦町、小梅村、中之郷の住人総勢78名が、文政11年(1828)に木場の石工「三郎兵衛」に彫刻を依頼して建立したものです。正面中央に胎蔵界大日如来を表す種字「アーンク」と「湯殿山」の文字が刻まれ、その右側には阿弥陀如来を表す種字「キリーク」と「月山」の文字が刻まれています。また、左側には観世音菩薩を表す種字「サ」と「羽黒山」の文字も確認できます。建立目的は不明ですが、江戸時代後期に、隅田川を挟む向島・本所北部と浅草に及ぶ広い地域の人々が出羽三山信仰を紐帯として結び合っていたことを示す興味深い資料です。また、区内では出羽三山信仰に関連する資料は他に確認されておらず、そうした希少性においても注目すべき資料となっています。」
(すみだ文化財・地域資料より引用)

    

     


松尾芭蕉「いざさらば」の句碑(雪見の句碑) (墨田区登録文化財)

「根府川石(輝石安山岩)の正面に、松尾芭蕉が詠んだ「いささらは 雪見にころふ 所まて」の句が蒲鉾彫りで刻まれています。句は芭蕉が貞享4年(1687)に名古屋の書店風月堂で詠んだものと伝わります(『卯辰紀行』)。碑裏面には、三世自在庵祇徳により、芭蕉を始め先人の霊を祀るために安政5年(1858)の初夏に建立されたことが、芭蕉の略伝と共に刻まれています。全国に1500余あるといわれる芭蕉の句碑の中でも、この碑は彫りが深く、書も優れたものとされています。」(すみだ文化財・地域資料より引用)

     


○「勝川春英翁略傳」の碑 (墨田区登録文化財)

「本碑は、浮世絵師勝川春英の七回忌の際に門人たちにより建碑されました。碑石は安山岩製で、保存状態は良好です。題額「勝川春英翁略傳」と撰文は江戸時代後期の国学者石川雅望によるもので、春英の生涯と人物像が記されています。
 勝川春英は、宝暦12年(1762)に生まれ本名を磯田久次郎といい、新和泉町(現中央区日本橋)に住し久徳斎と号しました。勝川春章の門人で、安永7年(1778)から作品を発表しはじめ、兄弟子春好の病後は勝川派を牽引しました。春英の相撲絵や役者絵は、人物の個性を生かした表現で東洲斎写楽や初代歌川豊国に影響を与えたと今日では評価されています。文政2年(1819)春英は数え58歳で没し、浅草本願寺の善照寺に葬られました。なお勝川派には後に北斎を名乗る春朗がおり、春英は兄弟子にあたります。」(すみだ文化財・地域資料より引用)

   


庚申塔(地蔵菩薩)(墨田区登録文化財)

 万治2(1659)年銘の地蔵尊を主尊とする墨田区内最古の庚申塔です。

「舟形光背を持つ地蔵菩薩立像(半肉彫)の右側に「奉供養庚申地蔵大菩薩二世安楽所」と刻まれ、左側には「干時万治弐己亥歳霜月吉祥日同行六人」と刻まれています。また、光背の上部中央には、地蔵の種子「カ」(梵字)が陰刻されています。地蔵の持物は、錫杖(右手)と宝珠(左手)です。これまでに区内で確認されている庚申塔の中では最も古い紀年銘を有する庚申塔です。長命寺のある旧須崎村付近において、地蔵を本尊として法要が行われていたことを示しています。」(すみだ文化財・地域資料より引用)

   


○橘守部墓・橘冬照墓(墨田区登録文化財)

 言問幼稚園の裏というか横にあります。

 (すみだ文化財・地域資料より引用)
 「 橘守部は、江戸時代後期の代表的な国学者で、伊勢国(現三重県)に生まれました。
  『日本書紀』を重視し神典解釈に新境地を開きました。晩年には本所法恩寺橋筋に住み、
  嘉永2年(1849)5月、69歳の生涯を終えました。
   冬照は守部の養子で、家学を継承し平戸藩国学顧問を務めました。
  著書に『淡海一露』、『職原抄講記』等があります。文久3年(1863)に50歳で没しました。
   墓は、向かって右に守部、左に冬照の墓が隣り合わせで並んでいて、
  没後間もなくの建立と考えられます。
  守部の墓は花崗岩製、冬照の墓は玄武岩製で、いずれも一石の自然石による素朴なものです。」

     


○種々の石碑

 墨田区登録文化財以外にも、色々と石碑が林立しています。

<現在庵露心の辞世句碑>

 左の大きな碑です。

  

<初代鶴澤清六之塚>

 裏門入って、すぐ左手にある碑です。
 鶴澤清六は文楽義太夫節三味線方の名跡。

  

成島柳北の碑>

 裏門入って、左手にあります。説明板があります。

(説明板)
「成島柳北の碑
 成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家です。天保八年(一八三七)江戸に生まれました。十八歳の時、家職をついで侍講に進み、将軍家茂のために経書を講じました。慶応元年以来次第に重んぜられ外国奉行となり、会計副総裁に進み、幕政に加わりました。幕府崩壊とともに職を退き向島の地に暮らしました。明治五年東本願寺の法主に従い訪欧、翌年に帰朝後、公文通誌が朝野新聞と改題され、紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して時事を風刺し、大いに読者を喜ばせました。また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」(明治安田生命の前身)の創立に協力。明治十七年十一月三十日四十八歳で没しました。この碑は実業家としての柳北の功績を記念し、明治十八年に建立されました。
  平成十八年八月  墨田区教育委員会」

    

<我興乃蘇鉄の碑>

  

<鼠取養犬六助塚/孕山堂江雨燈影/江戸桜>

 六助塚 猫よりも鼠を捕るのがうまかった犬の六助の碑。六助の頭だけ地面から出ています。

    

 扇子を持ったシルエットが碑になっています。扇子には文字が刻んであります。

   

 江戸桜の碑 明治29年に9代目市川団十郎が演じた「助六由縁江戸桜」を記念したもの。

   

<五狂歌師の狂歌碑>

 「吉川黄雲刻」とある五狂歌師の狂歌碑です。彫がしっかりしています。

 ・九十九翁長者園
  「千代迄も 爰に隅田の長命寺 九十九までで 落葉かくとは」

 ・蜀山人
  「どのやふ那 なん題目を かけ累とも よむは妙法連歌狂哥師」

 ・十返舎一九 辞世
  「此世をは ど里やお暇に せん古うの 煙りと供に 者ひ左様南ら」

 ・八十三翁 天露道人
  「朝霞 引出す牛の御前はへ もふ草も芽を佐ますた堤」

 ・七十五翁 雪廼屋富士丸 辞世
  「寝て於記て 呑喰ひの業 世苦能娑婆 けふは極楽南無阿弥陀仏」

     

<守川周重之碑>

 浮世絵師。明治33年の建碑。

  

<南無阿弥陀仏/筆つか/鏑木渓庵之碑>

 鏑木渓庵(1819-1870)は、江戸時代後期の清楽演奏家。
 東京音楽大学付属民族音楽研究所の公開講座の案内に、この碑についての由来が案内されています。以下引用
 「鏑木渓庵の死後、明治9年、墨田区向島の長命寺に於いて追福会が開かれ、数千人が集まりました。
  現在も境内に石碑が残っており、背面には参集協力者の名前が刻されています。」

   

<山村一蔵先生碑>

 芭蕉句碑の隣りにある大きな碑です。
 明治13年12月の建碑。

  

<藤田呉江先生之碑>

 幕末〜明治時代の儒者・日本画家。明治22年の建碑。

   

<荷塘道人圭公傳碑>

 遠山荷塘の碑です。

  

<木の実ナナ植樹記念碑>

 「風のように踊り 花のように恋し 水のように流れる
                     木の実ナナ
  隅田川のほとり 向島に生まれ長命寺さんでバレエを習った子供時代
  大好きな私のふるさとに感謝をこめて 平成15年2月吉日 植樹」

   

<退鋒郎毛君疼髪塚銘并序>

 文化10年(1813)11月の建碑。酒井抱一筆. 亀田鵬斎書。

  

<好酒院杓盃猩々居士/好色院道楽宝梅居士>

 酒盃の形をした碑と、男性自身の形をした碑があります。

  

<庚申塔など>

 文化財以外の庚申塔もあります。文化11(1814)再建の庚申塔です。

    

<不明>

      

<よいこのおじぞうさま>

 園児の交通安全の願いをこめて、昭和62(1987)年2月建立。

   


○長命水

 長命水の井戸は、関東大震災前後から枯渇し、平成18年12月に新たに水道水を引き込んでいます。

<長命水石文の碑>

 井戸の覆屋の左にある寺の由来を記した碑。天保3(1832)年の建碑です。

    


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