○ すみだリバーウォーク
○ 東京ミズマチ
○ 枕橋からの夜景
○ 源森川水門
○ 枕橋
○ 源森橋
○ 勝海舟像
○ 浩養園跡(久保田藩佐竹家下屋敷跡)
○ 吾妻橋
スカイツリーライン隅田川橋梁の横に架かる歩道橋「すみだリバーウォーク」が6月18日午前7時に開通です。
4月13日に開通予定でしたが、コロナの影響で延期となっていました。
入口は柵が設けられていましたが、解除です。
<夜景>
すみだリバーウォーク建設で中止されていたライトアップが復活しています。
<隠れソラカラちゃん>
橋脚に描かれた「ソラカラちゃん」は、台東区側から墨田区側に歩いて行くと、なかった。
墨田区側から台東区側に戻っていくと、台東区側の監視カメラのところにありました。
もう一つ、橋板に描かれた「ソラカラちゃん」は、雨で濡れて見えないので画像撮れず。
晴れの日に確認してきました。墨田区側の監視カメラの手前です。
すみだリバーウォークの花川戸側に「山の宿の渡し」の大きな碑があります。
(説明板)
「山の宿の渡し
台東区花川戸一丁目一番
隅田川渡船の一つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治四十年(一九○七)発行の「東京市浅草区全図」は、
隅田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は
吾妻橋上流約二百五十メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。
渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期ごろから墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(一七八一)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いていない。
平成四年十一月 台東区教育委員会」
東京ミズマチ、2020年6月18日開業です。
枕橋は吾妻橋一丁目と向島一丁目を結ぶ墨堤通りの橋です。
電車の往来と、高架下の東京ミズマチ、ライトアップされた東京スカイツリーの眺めに加えて、
北十間川の水面には、「ミズマチ」と「スカイツリー」が投影されて、ゆらいでいます。
橋の途中で足を留めて、夜景観賞&撮影する方々が多いのも納得です。
源森川水門は、隅田川と北十間川の接続点に設置されている防潮水門です。
水門もライトアップされています。
枕橋のたもとには、小さなお地蔵さんが祀られています。
枕橋の街灯がいい味を出しています。
東武スカイツリーラインにも「枕橋橋梁」があります。「小梅橋梁」もあります。
<枕橋の由来>
(碑文)
「枕橋の由来
寛文二年(一六六二年)、関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。
またその北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。
その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治八年、残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。
現在の枕橋は昭和三年に架け替えられたものである。昭和六十三年、本橋は東京都著名橋に指定された。
平成四年三月」
<隅田八景 枕はし夜雨(広重)>
枕橋の欄干下に「隅田八景 枕はし夜雨」のレプリカがあります。
「本所枕橋ヅメ」(井上安治)
小林清親「隅田川枕橋前」もありますが、こちらは井上安治「本所枕橋ヅメ」です。
「枕橋」(井上安治)
<ゆらぎツリー>
GTS観光アートプロジェクト作品「ゆらぎツリー」。
水面の逆さツリーをイメージ。おもしろい発想です。
夜は中からライトアップされています。
「この作品は、そよ風が起こした漣(さざなみ)が、鏡面のように澄み切った水面に波紋を投げかけた時に、そこに映り込んですこしゆらぎ始めた東京スカイツリーをイメージソースとし制作したものです。逆立ちしたようにも見える姿はユーモラスでもあります。また、この先の枕橋からは、北十間川に映りこむ実際の逆さツリーを見ることもできます。このゆらぎツリーが、この場に定着し、皆さんに愛されることを願っています。」(GTSサイトより引用)
<碑>(題名も設置者名もなし) 墨田区吾妻橋2-20-3
(説明プレート)
「源森橋の名前の由来は、現在の枕橋(本橋から約二百メートル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになったものである。
その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森側(現在の北十間川)に架けられた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋、新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。
その後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東にあった本橋を源森橋と公称した。
現在の源森橋は、昭和三年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約八十年経過し、老朽化したため、平成十九年三月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたものである。
平成十九年三月」
<GTS観光アートプロジェクト作品アートベンチ「ササエル」>
「ササエル
人と人が支えあう。テーマの「ささえる」を素直に造形したアートベンチ。
そのくぼみに腰を下ろすと、三人の人間が絶妙なバランスで支えあう。
思わず笑みがこぼれるユーモアあふれる作品。」(GTSのHPより引用)
勝海舟像もライトアップされています。
勝海舟とすみだリバーウォークのライトアップのコラボもキレイです。
昼間の勝海舟像はこちらで記載済です。
(説明板)
「浩養園跡
この地は常陸谷田部藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏・秋田藩佐竹氏の屋敷として移りかわり、とりわけその邸内の庭が名園として聞こえていました。
文政五年(一八二二)水野忠成の別邸となって、池を中心に石をふんだんに用いた林泉式庭園を築造。丘を築き、浅草寺五重塔・隅田川吾妻橋を望むものでした。万延元年(一八六○)佐竹氏に移り、浩養園・佐竹の庭として一層有名となり、明治二十三年から一般公開もされ、多くの人々の憩いの場ともなっていました。
その後、明治三十三年札幌麦酒東京工場がここに設置され、明治三十九年には大日本麦酒吾妻橋工場となり、煉瓦造りの建物が庭園のなかばを占めました。大正九年の工場拡張やつづく震災によって、その面影は失われました。
平成に入って墨田区役所・アサヒビール本社・住宅都市整備公団ビル等も建ち、現状のようになりました。
平成三年三月 墨田区」
「向島佐竹邸園」(東京景色写真版 江木商店 明治26年)
ビール工場が設置される前の「向島佐竹邸園」の写真です。
<アサヒビールタワー>
札幌麦酒が明治34(1901)年に吾妻橋に東京工場を建設(明治36(1903)年9月に完成)。
明治39(1906)年に大日本麦酒(株)は吾妻橋工場の一部として浩養園を接待用に使用。
1943年まで吾妻橋工場でサッポロビールが製造されました。
サッポロビール名古屋ビール園「浩養園」に、その名が残っています。
1949年の会社分割で吾妻橋工場は、アサヒビール(当時:朝日麦酒)の所属となりました。
墨田区役所の隣りのアサヒビールの巨大オブジェは近いと全体像が見えないですね。
夜はライトアップされます。
「大日本麦酒会社東京吾妻橋工場」(東京府名勝図絵 ともゑ商会 明治45年)
「大日本麦酒会社東京吾妻橋工場」の写真です。
「震火災水難 殉難者各霊 供養」
<吾妻橋>
(説明板)
「吾妻橋(大川橋)
江戸時代、両国橋、新大橋、永代橋に次いで隅田川に架けられた四番目の橋です。安永三(一七七四)年、長谷川平蔵二十九才の時、町人からの幕府への願いが受け容れられ、架橋されました。民営のため武士を除く利用者から渡賃二文を徴収して維持費に充てました。
長さ八十四間(約百五○メートル)、幅三間半(約六.五メートル)あり、正式名は大川橋です。吾嬬神社への参道にあたたるとして吾妻橋への改名願いが出されましたが、それが叶ったのは明治九(一八七六)年になってからです。
鬼平犯科帳でも数々の作品に登場します。なかでも人気の、亡父遺愛の銀煙管が鍵となる「大川の隠居」では、平蔵を乗せた友五郎の櫓さばきも巧みな舟が、吾妻橋をくぐって大川を遡って行く名場面に出てきます。 墨田区」
2018年2月15日オープン。
バターを生地で巻いて焼き、バターが溶けて中は空洞になっています。
パンの底はバターでカリカリです。
土日は1日6000個も売れます。1個100円の幸せ。
※2021年11月に「塩パン屋 パン・メゾン 銀座店」がオープンしました。
こちらは「塩パン屋 パン・メゾン すみだ浅草通り店」となりました。