尾久温泉は、東京府東京市荒川区尾久町(現・東京都荒川区尾久)にかつてあった温泉で、
大正から昭和にかけて、温泉リゾート地でした。
また、温泉街を背景に生まれたのが「尾久三業地」と呼ばれた花街です。
尾久温泉、尾久三業地は「あら川遊園」とともに大いに賑わいました。
<寺の湯跡(碩運寺)> 荒川区西尾久2-25-21
1914(大正3)年、碩運寺住職の松岡大機が、井戸水を焼酎醸造に使えるのではないかと水質検査したところ、ラジウムが含まれていたことから、
寺の中に「寺の湯」を開業、後、温泉施設「不老閣」を新築しました。
その後、料亭付き温泉旅館が次々と開業、尾久は温泉街として知られるようになりました。
尾久温泉は、高度経済成長期に地下水枯渇で鉱泉も枯渇し、現在は存在しません。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
寺の湯跡(碩運寺)
大正二年、飛鳥山下と三の輪を結ぶ王子電車(現在の都電)が開通し、翌三年碩運寺に「寺の湯(後の不老閣)」が開業した。
当寺の住職が井戸を掘ったところ、ラジウムを含む鉱泉であることが判明し、寺内に温泉を開業したのである。この後、周辺に保生館・清遊館・大河亭・小泉園等の温泉旅館が次々にでき、商店街も形成された。
大正初期の王子電車の開通と「寺の湯」の開業は、尾久がムラからマチへと変貌をとげるにあたって大きな役割を果たしたのである。
荒川区教育委員会」
<八幡堀>
温泉とは関係ありませんが、説明板があったので。
<割烹 熱海> 荒川区西尾久3-19-3 03-3800-8853
かつての温泉旅館が割烹店として続いています。
尾久温泉の形跡は数少ない中、旧王子電気軌道の都電は現在も健在です。
向島有馬温泉は、今よりも敷地の広かった秋葉神社境内にあった料理屋で、
有馬の湯の花を入れた温泉を売りにしていました。
<「向嶋有馬温泉縁起銘」「向嶋有馬温泉之図」>
(プレート文)
「向嶋有馬温泉縁起
向島は江戸時代より多くの別荘が営まれ、春には花の名所として賑わっていました。
明治十七年、兵庫県有馬温泉の湯花をこの付近に遷し、向島有馬温泉が開業しました。
この由来を語り継ぐものとしてつぎのような文献が残っています。
客間 茅葺二階建て一棟何の風情も無けれど、遠く墨堤の桜を望み、小田の蛙に耳を
澄し、秋は稲葉の風に戦ぐも、熊変わりてをかし。栽籠繁茂く技を交し、瓦葺
の三階造小丘を抱きて立てるをもて背面より登れば直ちに二階達すべく、正面
より登れば初階より通るを得べし。其さま恰も浅草奥山鳳凰閣の如く、南に二
階家の離れて建てられたるは旅館なり。梅林鬱として、藤樹蔭を成し松籟微か
に眠を催して、三伏涼を納るゝに適す。
泉水 池あり水青く、中島に茶室あり、渚に捨小船、それすら風雅なるに、蓮の浮葉
鯉の跳ねて、客あり、釣竿を望む時は、随意に貸与して、釣る所の、魚を調理
す。鮮鱗溌剌膳に上るも快。
混堂 池畔に在り、湯槽は好心地よく洗われて、男室女室に区画たる。
料理 普通一式の料理。花中又弁当を調進す。
美人なし 別嬪は他よりお連れ下されとは情けなくも、前歯のぽっくり欠損た婆様が
愛敬。
梅干 梅林数十株。毎歳梅干と為す。有馬産の梅干は名代なり。
春は、籬根の残雪未だ全く消えやらぬ間に、南枝蕾を破って暗香浮動、梅見にと杖を曳
く雅客、つゞいて向島桜狩の崩れ客、庭の藤の花池の面にゆかりの色を映せば、五月とも
なりて実梅の影夏座敷に落ちて、水無月文月三伏ともなれば、夏を余所なる納涼がてらの
客、美姫を携え酒肴満盞、緑陰華宵に遊ぶもよからむ。
『新撰東京名所図会』第十四編より一部引用
上の絵は山本松谷、山下重民の文により明治三十一年発行の『風俗画報』に掲載されまし
た。江戸の画影と明治の息吹を伝える雑誌に「有馬温泉」は「行楽の場」として描かれて
います。その後この地に「有馬温泉」の名に因んだ銭湯が誕生し地域の人たちの「憩いと
語らいの場」としてともに生きてきました。
向島の歴史と文化を伝えたくこの碑文を設けます。 二〇〇四年十二月」