秋葉神社(秋葉権現社)は、多くの大名や大奥の信仰を集めました。
大奥の信仰を得たのは、参詣を口実の日帰り遊覧のためともいわれます。
<秋葉大神>
参道左手に「秋葉大神」碑があります。
<秋葉神社常夜燈一対>
参道左の常夜燈は、補強されています。
<石燈籠>
石燈籠が3対あります。全部は撮っていません。
(説明板)
「<墨田区登録文化財>
石燈籠 所在 墨田区向島四丁目九番十三号 秋葉神社内
本殿に向かって一番近くにある石燈籠一対は、松平甲斐守吉里の室、源頼子が寛保元年(一七四一)奉献したものです。吉里は将軍綱吉の籠臣柳沢吉保の子です。
この石燈籠の右横にある一基は、前橋城主酒井雅楽頭忠挙が宝永六年(一七○九)に奉献したもので、その手前にある一対の石燈籠は、関東郡代伊奈忠宥が宝暦八年(一七一八)に奉献しました。
鳥居に近い石燈籠一対は、上州沼田城主で老中も勤めた伯耆守本多正永が宝永元年(一七○四)に奉献したものです。なおこの一対は〈墨田区登録文化財〉に登録されています。
当社は安藤広重の『名所江戸百景』に紅葉の名所として描かれており、『江戸名所図絵』には「秋葉大権現社、弘福寺より三丁あまり東の方請地村にあり、遠州秋葉権現を勧請し(略)境内林泉幽邃にして四時遊観の地なり」とも書かれています。一方鎮火の神として将軍家や諸大名の崇敬があつかったといいます。
平成五年三月 墨田区」
<社殿>
拝殿から振り返ると、鳥居の外にはレトロな参道が続いています。
<御由緒>
「秋葉神社
祭神 火産霊命 (千栄秋葉大権現)
宇迦御魂命(千代世稲荷大明神)
昔この地を五百崎の千代世の森と云い千代世稲荷大明神がまつられていた。草創は正応二年(一八九)と伝える。江戸時代の始め善財という霊僧この森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え去った。元禄の始め修験者葉栄が神感得てこの社に参り祈願の利益をうけ、当時請地村の長百姓岩田与右衛門を通じ寺社奉行に願出て上州沼田城主本多正永の報賛にて、元禄十五年(一七○二)秋葉稲荷両社と称して社殿を造営し又千葉山満願寺を興して別当となった。
爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け、享保二年(一七一七)に神祇管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年神佛分離令の施行により、秋葉神社と称し別当満願寺を廃した。大正十二年の震災に社殿倒壊し、昭和五年復興したが、昭和二十年戦災にかかり昭和四十一年氏子崇敬者の奉賛により現社殿を再建した。
*主な祭事 歳旦祭 一月一日 祈年祭 三月三日
例祭 九月中旬 鎮火大祭 十一月十七日 十八日
新嘗祭 十一月二十三日
縁日 毎月三日 十八日
社務所
昭和六十一年十月十八日建之」
<旧社殿>
社殿の右手にも神明造の社殿がります。旧社殿のようです。
「江戸名所図会 請地 秋葉大権現宮 千代世稲荷社」
「境内林泉幽邃にして四時遊覧の地なり 門前酒肆多く各生洲を構へて鯉魚をかふ」
「江戸名所図会 庵崎」
「庵崎
俗間、請地秋葉権現の辺をしか唱ふれども定かならず
須崎より請地秋葉の近傍までの間酒肉店多くおのおの簀をかまへ鯉魚を畜ふ 酒客おほくここに宴飲す 中にも葛西太郎といへるは葛西三郎清重の遠裔といひ伝ふれども是非をしらず むさしやといふは昔麦飯ばかりを売りたりしかば麦計といふここにて麦斗と唱へたりしもいまはむさしやとのみよびて麦斗と号せしをしる人まれになりぬ」
「名所江戸百景 請地秋葉の境内」(広重)
広重の名所江戸百景に描かれています。
広重自身も描かれています。
境内に掲示されています。2枚目は国会図書館蔵から。