中央区教育委員会「金春屋敷跡」説明板があります。
能役者・四家のうちの一つである金春が屋敷を構えた場所が銀座八丁目六・七・八番地で、
金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などとして、今もこの地に残っています。
(説明板)
「金春屋敷跡 所在地 中央区銀座八丁目六〜八番地域
江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆しました。
特に、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召し抱えられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。
元禄六年(一六九三)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記」によると、金春大夫は山王町(現在の銀座八丁目)・観世大夫は弓町(現在の銀座二丁目)・宝生大夫は大鋸町(現在の京橋一丁目)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座六丁目)に屋敷を拝領していたとされています。
金春家は、寛永四年(一六二七)に屋敷を拝領したといわれ、寛永江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認することができ、現在の銀座八丁目六・七・八番辺りに図示されています。
後にこの屋敷は麹町(現在の千代田区)に移りましたが、跡地には芸者が集り、花街として発展してました。
金春の名は「金春湯」「金春通り」などと、今もこの地に残っています。
平成ニ十一年三月 中央区教育委員会」
路面にはめ込まれたパネルです。
文久3(1863)年創業の銭湯です。ボディーソープ、シャンプーあり。
緊急事態宣言を受けて、平日のみの営業となっています。
金春通りの南端に「煉瓦遺構の碑」があります。
小菅でつくられたレンガは、銀座煉瓦街にも使われました。
(碑説明文)
「銀座は日本に二箇所しか建設されなかったきわめて貴重な煉瓦街の一つです。もう一つは丸の内の煉瓦街でした。しかし今日では残されたこうした遺構から明治時代の煉瓦街を窺い知るほかはありません。
設計者はトーマス・ジェイムス・ウォートルスというイギリス人です。フランス積みで、明治五年から十年にかけて当時の国家予算の四%弱を費やし、延べ一万メートル余もあったといわれています。
この煉瓦は銀座八丁目八番地(旧金春屋敷地内)で発掘されたものでゆかりの金春通りに記念碑として保存される事になりました。
下の絵は、明治初期のガス灯や張り板、提灯など当時の金春通り煉瓦街を偲ばせる古い写真を元に銅板に彫金したもので、見る角度により昼夜の陰影が出るよう微妙な細工が施されております。
銅板画制作 第十一代 銅昭」
「煉瓦遺構の碑 平成五年九月吉日
銀座金春通会建之」
「煉瓦銀座之碑」「ガス街路灯」「京橋親柱」が保存されています。
(碑文)
「経綸 煉瓦銀座之碑
明治五年二月二十六日(皇紀二五三二年 西暦一八七二年)
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸數四千戸と称せらる
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建策し政府は國費
を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
昭和三十一年四月二日」
「銀座文化碑4 青山石勝刻」
上部「経綸」は由利公正の揮毫です。