Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 神田明神(神田神社)
 ○ 宮本公園


神田明神(神田神社) 千代田区外神田2-16-2 HP

 天平2(730)年創建とされる古社で、江戸城の大拡張に伴い移転、元和2(1616)年現在地へ移りました。
 将軍秀忠より江戸の総鎮守とされ、日本橋川より北東を神田明神、南西を山王権現がそれぞれ氏子としました。

 明治政府による明神の神号の使用禁止措置により、神田明神から神田明神に改称していますが、
 正式名称の神田神社ではなく、通称の神田明神で通っています。

 神田明神は、平将門を祀ってきましたが、明治7(1874)年に将門神社に遷座し、御祭神からはずされます。
 昭和59(1984)年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっています。

 神田祭は江戸三大祭の一で、その豪華な行列は、江戸名所図会や浮世絵に描かれています。
 平将門が御祭神からはずされたことから、神田っ子は神田祭の開催を止めた時期もありました。

 現在は、アニメファンの巡礼地にもなっているようです。

    
 

<江戸名所図会 神田明神社/神田明神祭礼>

  

  
 

<絵本江戸土産 神田 明神の社>(広重)

 「神田明神は江戸大祭の随一にして祭事は九月十五日なり 惶くも大樹公の上覧あり
  這は田安御門より繰込みたるを常盤橋御門より引出すのさまを図せり」

   
 

<名所江戸百景 神田明神曙之景>(広重)

   
 

<東都三十六景 神田明神>(広重)

 雪の構図です。

  
 

<江戸の花名勝会 か 八番組 尾上菊五郎/神田明神の祭/神田>(豊国,貞秀,芳虎 国立国会図書館蔵)

 江戸の花名勝会から「か 八番組」の抜粋です。
 神田明神社と、その祭神に祀られている平将門の首が飛んで石をかりかりかんだ図柄です。
 左上に「将門の亡念打来て首が飛んで石をかりかり神田」とあります。

  
 

「東京開化狂画名所 神田明神 写真師の勉強」(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)

 神田明神の御祭神からはずされ御神殿を下りた平将門と7人の影武者が、
 写真師の勉強のために、カメラを前にポーズをきめています。芳年の発想に驚嘆します。

  
 

<神田(八雲)神社暁>(小林清親)

 広重の名所江戸百景と同じ構図の夜明けの神田神社を描いています。
 右端の暗い影が、昇る太陽を暗示しています。
 版画からは「八雲」の文字が削除されているので、修正したようです。

 ※ 地面に草が描かれていると思ったら、よく見たらこんなところに「小林清親」のサインです。

   
 

<神田神社>(井上安治)

 井上安治の作品です。

  
 

<神田神社社号塔/銅鳥居> 千代田区外神田2-17-2

 中山道に面して、建っています。

   
 

随身門>

 随身門は昭和50(1975)年に再建。隨神像は北村西望氏の監修です。
 神田神社は東京十社のひとつです。
 標注「江戸国学発祥の地」が建っています。

    

    

   
<えびす様尊像>

 大海原を渡る「えびす様」が造形されています。

    

 
<御防講の碑>

 「御防講」は神田明神の警護団体で、江戸火消の先駆け的な存在であったとも言われています。

   
 

<だいこく様尊像>

 随身門を入って左手にある大黒様です。
 昭和51(1976)年完成。高さ6.6メートル、重さ30トンで、石造りとしては日本一の大きさです。

   
 

<神楽殿>

 神楽殿のシャッターには神田祭が描かれています。

  
 

<御守自動頒布機>

 御守の自動販売機ではなく、自動頒布機です。
 広い境内なので、2箇所に設置されていました。

  
 

<獅子山> 千代田区指定文化財
 
 獅子の子落としを造形しています。子獅子は新調しています。

(説明板)
「石獅子
千代田区指定文化財
1991年(平成3年)4月1日指定
 この石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物のひとつです。享保期(1716?1735年)に、下野(現在の栃木県)の名工・石切藤兵衛が作ったものといわれています。1862年(文久2年)11月に両替屋仲間が石を積んで神田神社へ奉納したという記録があります。
 3頭の石獅子は、親獅子が谷底へ突き落した子獅子を見る構図になっています。このうち江戸期以来のものは夫婦2頭のみで、子獅子と獅子山は1923年(大正12年)の関東大震災で失われ、1989年(平成元年)に天皇即位を記念して再建されました。
*千代田区指定文化財は獅子の夫婦2頭」

    
 

<明治天皇御臨幸記念碑>

 獅子山の裏にあります。
 明治7(1874)年9月19日、明治天皇が神田明神に親拝。昭和15(1940)年の建立。
 明治天皇の御臨幸に際し、逆心の平将門が祀られているのはあるまじきこととして、
 平将門は御祭神からはずされています(昭和59(1984)年に復権)。

  
 

<鉄製天水桶> 千代田区指定文化財

(説明板)
「鉄製天水桶
 千代田区指定有形民俗文化財
 1999年(平成11年)4月1日指定
 神田神社拝殿前にある鉄製の天水桶一対は、地上からの高さが約1.3メートルあり、1847年(弘化4年)9月、摂州灘大石(現在の兵庫県)と筋違外(現在の外神田一丁目)の酒屋が発起人となり、神田あるいは新川(現在の中央区)辺りの酒屋5名を世話人として奉納されました。
 天水桶の鋳造には、2人の鋳物師が関わっていて、神田在住の堀口武兵衛が仕事を請負い、川口(現在の埼玉県)在住の永瀬源七に鋳造させたと考えられます。」

   
 

<御社殿> 国登録有形文化財

 昭和9(1934)年造営。
 鉄骨鉄筋コンクリート造ということを感じさせない工夫が随所に施されています。
 以前、テレビでその工夫が紹介されており、感心しました。
 東京大空襲にも耐え抜いています。

   
 

<ハート・ライト・ゴーラウンドと社殿>
 奉納の美術作品です。

   
 

【境内社など】

  
 

<祖霊社>

 氏子・崇敬者の先祖をお祀りするお社。

  
 

<合祀殿>

 「籠祖神社・八幡神社・富士神社・天神社・大鳥神社・天祖神社・諏訪神社」を合祀しています。

   
 

「籠祖講関係石造物群」 千代田区指定文化財

(説明板)
「籠祖講関係石造物群
 千代田区指定有形文化財
 2005年(平成17年)4月1日指定
 籠祖神社は、塩土翁神と猿田彦大神祭神が祭神で、社伝によれば1798年(寛政10年)に神田神社境内に鎮座したとされています。籠祖講は神田青物市場や日本橋の魚河岸などで使われる籠や笊をつくっていた亀井町(現在の千代田区岩本町一丁目と中央区小伝馬町にまたがる地域)の籠職人や葛籠職人たちによって結成されました。現在も両神を職神として、籠祖講の活動が続けられており、毎年11月に例大祭が行われています。
 籠祖神社内には、1850年(嘉永3年)から1961年(昭和36年)までに奉納された石造物(鳥居・水盤・記念碑・狛犬・常夜燈・玉垣・石標)があります。」

   
 

<彰忠碑 希典書>

 祖霊社の裏、合祀殿の横に、「彰忠碑」があります。「希典書」。
 萬世橋の親柱の玉垣で囲われています。

     

 他に2碑あり。

   
 

<末広稲荷神社>

    
 

<三宿稲荷神社・金刀比羅神社>

 水盤は千代田区指定文化財です。

(説明板)
「水盤
 千代田区指定有形民俗文化財
 1997年(平成9年)4月1日指定
 この水盤は、1805年(文化2年)2月に伊勢屋治兵衛によって奉納され、1856年(安政3年)6月に神田・日本橋・京橋・下谷・本郷界隈に住む人々により再建されたものです。再建の時には、炭薪問屋・人宿・六組飛脚問屋などの町人が関わっています。
 神田神社や末社の金刀比羅神社・三宿稲荷神社と、江戸の町人たちの関わりを知ることができる貴重な資料です。」

     
 

<鳳輦神輿 奉安庫>

 神田明神大神輿を奉安しています。

  
 

<浦安稲荷神社>

    
 

<江戸神社>

(説明板)
「三天王 一の宮 江戸神社
  御祭神 建速須佐之男命
  祭礼日 五月十四日
 大寳二年(七○二)武蔵国豊嶋郡江戸の地(今の皇居の内)に創建された大江戸最古の地主の神であります。古くは江戸大明神あるいは江戸の天王と称された。
 鎌倉時代には、江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道灌築城してより、上杉氏・北条氏等引続き城地に祀ったが慶長八年(一六○三)江戸城の拡張により、神田神社と共に神田台に遷り、更に元和二年(一六一六)に当地に遷座された。
 江戸時代中期以後は牛頭天王と称され、明治元年(一八六八)に須賀神社と改称、更に明治十八年(一八八五)に江戸神社と復称された。
 この神社は、江戸開府の頃幕府の食を賄う菜市が開かれその後、貞亨年間(一六八四?)に神田多町一帯に青物商が相集い市場の形態が整った。こうした発祥の頃から市場の守護神として崇敬されてきました。
 現社殿は平成元年神田市場が大田区東海の地に移転するにあたり江戸神社奉賛会の人々により今上陛下御即位大礼の記念として、大神輿を御神座として再建鎮座された。
◎三天王祭・一の宮江戸神社の祭について
 慶長十八年(一六一三)より始まったと伝えられる神輿の神幸は六月七日の朝、明神の境内を発輿して南伝馬町二丁目に設けられた御仮屋に入り、氏子の町々を渡御して十四日還輿された。その神幸の様は実に勇壮厳粛な行列であったと伝えられる。
 現存する大神輿は、日本有数の華麗にして巨大な神輿で、通称「千貫神輿」として人々に親しまれ、神田祭に担がれる凡そ二百基の神輿の象徴でもあります。」

    
 

<力石> 千代田区指定文化財

 この力石は、銘文から文政5(1822)年12月に神田の柴田四郎右衛門が持ち上げたものとされています。

(説明板)
「力石
 千代田区指定文化財
 1991年(平成3年)4月1日指定
 力石とは、一定重量の円形または楕円形の石で、神社の境内や会所(地域の集会や寄合いを行う場所)などにあって、若者達が力試しに用いたと言われています。
 神田神社境内にある力石の由来は銘文があり、1822年(文政5年)12月に神田仲町二丁目(現在の外神田一丁目)の柴田四郎右衛門が持ち上げたことが分かります。江戸・東京の若者達の生活と娯楽を知るうえで貴重な資料です。」

    
 

<角田竹冷の句碑>

 「白うおや はばかりながら 江戸の水」

(説明板)
「角田竹冷の句碑
  白うおや はばかりながら 江戸の水
 安政三年(一八五六)五月に静岡県冨士郡加島村に誕生。職業は明治初期の「代言人」(今の弁護士)であったが、俳人として名を知られていた。
 明治二十八年十月、みずから発起人となり、尾崎紅葉・岡野知十・巌谷小波・川上眉山・戸川残花らの参加を得て秋声会を組織し、翌年十一月俳詩「秋の声」を創刊した。
明治三十年六月「卯杖」を出し、後に「木太刀」と改題主宰した。
 正岡子規の日本派とともに、俳句革新運動の一勢力をなした時もあった。晩年は古俳書の収集に熱中した。いま「竹冷文庫」をして東京大学図書館に保管されている。竹冷は大正八年(一九一九)三月二十日六十六歳で没す。」

   
 

<大伝馬町八雲神社>

 鉄製天水桶は、千代田区指定文化財です。

(説明板)
「三天王 二の宮 大伝馬町八雲神社
  御祭神 建速須佐之男命
  祭礼日 六月五日
 この神社は江戸時代以前に祀られていたと伝えられる。三天王の二の宮の天王祭は、六月五日明神境内を発輿し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御して八日に還輿していた。このことから大伝馬町天王と称されていた。この祭は元和元年(一六一五)頃より行われて、江戸時代には他の天王祭と共に大変な賑わいの一つであった。今日でも大伝馬町一丁目・本町三丁目東町会の有志諫鼓会(神田祭の一番山車大伝馬町諫鼓山車より命名)の人々の篤いご信仰がある。
 尚、東京の風物詩「べったら市」も神田神社兼務社日本橋宝田恵比寿神社で諫鼓会の人々により祭礼伝統文化行事として継承されている。」

    
 

<小舟町八雲神社>

(説明板)
「三天王 三の宮 小舟町八雲神社
  御祭神 建速須佐之男命
  祭礼日 六月六日
 この神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座された。小舟町〔貞亨年間(一六八四〜)までは小伝馬町〕お仮屋を有し神輿が渡御されたことから小舟町の天王と称された。
 明治以前は公命により、江戸全町域の疫病退散の為、江戸城内・北奉行所・日本橋々上に神輿を奉安し祈祷が行われた。
 東都歳時記によれば、当時の天王祭は一丁目にお仮屋ができ大提灯・大注連縄が張られ、二丁目には七、八間の絹張りの神門が造られその左右に随神が置かれ長さ五丈の杉の木を植込み、鰹節の樽積みが高々と重ねられた。三丁目には須佐之男命と稲田姫の造り物、八岐大蛇の行灯、天王祭の大幟をたて神輿の神幸を待った。
 神輿は六月十日に明神境内を発輿して氏子百八十か町を巡り還輿するのは十三日か十四日その間の里程は十三里に及んだといわれる。このことがら十三里天王ともいわれた。
 近年では、八雲祭と改められ小舟町街中に壮大なお仮屋がたてられ、華麗にして勇壮な大神輿の神幸祭が不定期に斎行されている。」

    
 

<小舟町八雲神社鉄製天水桶> 千代田区指定文化財

(説明板)
「小舟町八雲神社鉄製天水桶
 千代田区有形民俗文化財
 2005年(平成17年)4月1日指定
 小舟町八雲神社の天水桶は、江戸の魚問屋仲間の遠州屋新兵衛他10名によって、1811年(文化8年)に奉納されました。深川大島の鋳物師で当時「釜六」と呼ばれた、太田近江大掾藤原正次の作とされていますが、左右一対の天水桶のうち、本殿左側のものは失われ、1857年(安政4年)に再建されています。小舟町八雲神社は江戸時代には祇園牛頭天王社(二の宮)と呼ばれていました。魚問屋仲間が集住していた小舟町(現在の中央区日本橋小舟町)の人々により崇敬されるようになり、現在に至ります。」

   
 

日本橋魚河岸水神社>

 「日本橋
  神 田 桶工水溜講」

(説明板)
「魚河岸水神社
  御祭神 弥都波能売命
  祭礼日 五月五日
 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。
 元和年間(一六一五〜)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水神社と改称し更に明治二十四年(一八九一)魚河岸水神社と社名を変更し、日本橋魚市場の守護神として崇敬されている。なお、日本橋より築地に移った築地中央卸売市場内には、当社の遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の篤い信仰により支えられている。
 当神社の崇敬体「魚河岸会」の所有する加茂能人形山車は、江戸城内に参内し徳川歴代将軍の上覧に浴し、再三褒賞を賜った江戸の代表的山車であったが惜しくも関東大震災により烏有に帰した。
 その後、昭和三十年江戸文化の一端を永く後世に遺す為、文久二年(一八六二)当時そのままの山車を再現した。隔年に行われる神田際には、その絢爛豪華な山車の全容を拝観することができる。」

    
 

【裏参道】

  
 

<小唄塚/小唄作詞塚>

 裏参道入って左手。

(説明板)
「小唄塚・小唄作詩塚
 当神社の神田祭は、江戸っ子の「粋」と「いなせ」と「勢い肌」の象徴でありました。江戸小唄の中には神田祭は随所に取り入れられています。この憧憬もあって、大正・昭和の小唄作曲に大きな足跡を残された吉田草紙庵(本名吉田金太郎)を、縁りあるこの地に顕彰し、三十一年三月に小唄作詞家の市川三升・英十三・宮川曼魚の三長老(小唄作詞家グループ火星会の前身閑吟会を結成し後輩の指導に当たった)により、小唄塚は建立
された。
 その後昭和六十二年六月に、小唄火星会をはじめ小唄作詞家協会の人々の発起により、小唄塚建立三十周年を記念して、作詞家を讃え、顕彰すべく小唄作詞塚が建立された。
 茲に、小唄の両輪である、作詞・作曲双方の塚を揃え顕彰する事ができました。」

    
 

<水野年方顕彰碑> 千代田区指定文化財

 裏参道入って右手。

(説明板)
「水野年方顕彰碑
 千代田区有形文化財
 2001年(平成13年)4月1日指定
 水野年方は、1866年(慶応2年)に江戸神田で左官の棟梁の子として生まれました。当初、歌川派の月岡芳年に入門し、浮世絵の「歴史画」を数多く制作しました。
 明治時代半ばから、「やまと新聞」をはじめとする新聞挿絵、『文芸倶楽部』などの木版彩色の口絵を盛んに描き、上品で繊細な美人画を得意としました。
 1908年(明治41年)、年方は42歳の若さで逝去します。その十七回忌の前年にあたる1923年(大正12年)5月、門人や縁故者が年方の氏神である神田神社に顕彰碑を建立しました。年方の門人からは、鏑木清方を筆頭に、池田輝方や蕉園ら、近代日本画を代表する画家たちが多く輩出されています。」

     
 

【明神男坂】

 男坂は東側にあり、明神石坂、東坂とも呼ばれるようです。
 浮世絵にも描かれています。

(標柱)
「明神男坂
 南側に平行してある緩やかな明神女坂に対し、勾配が急であるから明神男坂と呼ばれています。天保期、神田の町火消であった「い」「よ」「は」「萬」の四組が献納して造られた坂道です。明神石坂の別名もあります。坂からの眺めが非常によく、月見の名所としても知られました。 千代田区」

   
 

<東都名所 神田明神>(広重)

  
 

<大公孫樹/さざれ石>

 天神男坂門を入った直ぐ右に、「大公孫樹」と「さざれ石」があります。
 大公孫樹の親木は枯木につき上部を伐採、震災時のひこばえが育っています。

      
 

<銭型平次の碑/八五郎の碑>

 昭和45(1970)年12月、有志の作家と出版社が発起人となり、明神下を見下ろすこの地に建立されました。
 寛永通宝の銭形の中央に平次の碑があります。
 平治の碑の右に、子分八五郎の小さな碑が建てられています。

(説明板)
「銭形平次碑
 銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。
 平次の住居は、明神下の元の台所町ということになっている。
 此の碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁りの明神下を見下ろす地に建立された。
 石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。」

    

     
 

<國學發祥之地>

 京都伏見の神宮で国学者であった荷田春満(東丸)(寛文9年1月3日〜元文元年7月2日(1669年2月3日〜1736年8月8日)が、
 江戸に出て初めて国学の教場を開いたのが神田神社社家の芝崎邸内でした。
 そのゆかりから神田神社境内が江戸における国学の発祥の地とされ、碑が建てられています。

(碑文)
「國學發祥之地
   今東光撰文 
 荷田東丸は 京都伏見稲荷社家に生る 通称羽倉斎本名信盛なり 元禄十三年三代将軍家光五十年祭に勅使として 大炊御門前右大臣経光公中仙道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で 享保七年まで在府せり その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真淵もこの邸を借用せり 当時神主は芝崎宮内少輔好高 その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の三代約百年に至れり 然も好全妻女は東丸の女直子なり されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽痺し学園の場を供して国学振興に寄与せり 師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき 殊に元禄十五年 門弟の宗偏流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る この東丸出でて吾が国学は加茂真淵 本居宣長と伝統して今日に至る 今その遺蹟に記して以て国学の為に伝ふ」

  
 

<阿部しょう人の句碑>

 「山茶花の 散るや己の 影の中」
 昭和47(1972)年11月12日、好日俳句会により建立。

  
 

<神田神社西門入口>

 神田神社西門入口から入ってすぐ左手に「将門首塚の由来」説明板。
 大手町の将門塚の改修が終わり、新しい小ぶりの説明板が設置されたので、
 保存会事務所が現地から回収してここに置いているのでしょう。
 改修後の将門塚は別途記載。

(説明板)
「東京都文化財  将門首塚の由来
 今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こし忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年三十八歳であった。世にこれを天慶の乱という。
 将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚として語り伝えられている。
 その後もしばしば将門の怨霊がが崇をなすため、徳治二年時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神その霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
 天慶の乱の頃は平安期の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春謳歌していたが遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。
    史蹟 将門塚保存会
     保存会事務所 千代田区外神田二ノ十六ノ二 神田神社内
     電話○三(三二五四)○七五三番」

   


宮本公園 千代田区外神田2-16-9

 神田神社の西口にあるのが宮本公園です。

<神田の家> 千代田区文化財

 徳川家康の江戸城築城に際し、材木商・遠藤家は木材の集荷を命じられ鎌倉(神奈川県)から神田へと移り住みます。
 当時、神田周辺に鎌倉の材木職人が集められたことから、神田鎌倉町(現在の内神田1丁目)の名が生まれました。
 昭和2年(1927年)に建てられた店舗住宅が千代田区文化財に指定されています。
 「井政」は材木商の屋号です。

     
 

三谷長三郎胸像> 千代田区文化財

 北村西望氏の作品があります。昭和9年制作。三谷氏は学校教育に多大な寄付をした人。

(説明板)
「三谷長三郎胸像
 千代田区有形文化財
 2002年(平成14年)4月1日指定
 三谷家は紀伊国屋という屋号の商家で、1660年(万治3年)の創業以来、神田塗師町(現在の鍛冶町二丁目)で銅や真鍮などを取り扱っていました。
 この胸像は、十代目三谷長三郎を讃えるものです。三谷長三郎は1869年(明治2年)に生まれ、家業を近代企業へと大きく発展させました。1909年(明治42年)には三谷報恩会を設立し、のちに財団化します。この財団を社会福祉事業への基盤とし、地元の神田区の学校教育のために資金や備品を積極的に支援しました。
 三谷長三郎の三回忌にあたる1934年(昭和9年)、神田区内の人々が中心となり生前の教育普及事業への功績に感謝を表して、神田神社の裏手、大銀杏の側に銅像を建設しました。像の制作は「長崎平和祈念像」の作者としても有名な北村西望(1884〜1987年)です。1961年(昭和36年)に神社境内の再開発により、像は現在の宮本公園内に移設されました。」

    

    
 


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