Discover 江戸史蹟散歩
 
 ○ 亀戸天神社
 ○ ガス燈の創始者「島立甫」〜日本最初のガス燈は亀戸


亀戸天神社 江東区亀戸3-6-1 HP

「江戸名所図会 亀戸宰府天満宮」

 江戸時代は、亀戸宰府天満宮と呼ばれていました。その後、亀戸神社、亀戸天神社と変遷。

  

   
 

「絵本江戸土産 亀戸天神の社」(広重)

  
 

「名所江戸百景 亀戸天神境内」(広重)

 亀戸天神の名物は藤の花と太鼓橋で、多くの浮世絵に描かれています。

  
 

「武藏百景之内 亀井戸天満宮」(小林清親)

 広重と同じ構図で描いています。

  
 

「江戸名所道戯尽 廿五 亀戸太鼓はし」(歌川広景)

 太鼓橋で女性が太鼓橋から転げ落ちて他の人を巻き込んでいます。でも2人とも笑顔です。

  
 

「亀戸天神反橋と藤花」(旅の家つと 明31-35)

 明治の頃の反橋と藤花と題された写真ですが、転げ落ちて必定の45度以上の角度に見えます。

  
 

「東都名所 江戸名所 亀井戸天神ふし」(広重)

 現在は崩壊している燈籠がしっかりと描かれています。

   
 

「銀世界東十二景 亀井戸天満宮境内一覧」(広重)

 現在も同じ場所にある弁財天。

  

(説明板)
「弁天社
 寛文五年、太宰府天満宮(福岡県)心字池畔に鎮まり座す志賀社を勧請したのを始めとしますが、時代の推移と共に、七福神の一つであり無量の福徳を与える弁財天(水の神・音楽の神)の信仰と習合し、一般には弁天様と親しまれて、福徳福智を増し天災地変を消除する開運出世・芸能成就の神として信仰されてきました。その間幾度か災害に罹りその都度復興されましたが、近年殊に社殿の破損も著しく、菅原道真公御神忌一一○○年大祭に伴う記念事業に併せ、地元宮元会役員一同を始めとする崇敬者各位の御奉賛により、装いも新たに修復されたものであります。
 平成十三年十二月一日遷座祭執行)」

     
 

<亀戸天神社 塩原太助奉納の石燈籠>(江東区有形文化財)

 塩原橋の由来で言及されている亀戸天神に寄進した燈籠です。

 御嶽神社鳥居の後ろ左に一基石灯籠があります。
 「天明元年辛丑年八月十七日 本所相生町住 鹽原太助」。
 残欠した燈籠もありますが、奉納者の住所が葛飾郡で、塩原太助寄進燈籠とは別物でしょう。

(説明板)
 「塩原太助奉納 石灯籠  
   天明元辛丑年(一七八一)八月十七日
  太助は、本所相生町(墨田区両国)で蒔炭商を営み、辛苦を重ね豪商をなした。」

    

     
 

<新東京八名勝>

 「新東京八名勝 亀戸天神」。昭和7(1932)年の選定です。

  
 

<亀戸天神の由来>

(説明板)
「町角みちしるべ 亀戸天神
 由来
 江戸時代から学問の神様として信仰を集め、梅や藤の名所として庶民から親しまれてきました。
 寛文2年(1662)九州太宰府天満宮の神職が、飛梅の木で菅原道真の像を作り、祀ったのが創建といわれています。
 毎年1月24日、25日に「うそ替え神事」が行われ、前年のウソを納め、新しいウソを求めると「凶もウソとなり吉にトリ替わる」といわれており、檜の一刀彫のウソに人気があり、たくさんの人々でにぎわっています。」

  
 

<鳥居>

    
 

<参道>

 鳥居をくぐり、太鼓橋(男橋)、平橋、太鼓橋(女橋)を経て社殿です。

    
 

<琴柱灯篭>

 心字池に琴柱灯籠(ことじどうろう)と奉献碑「琴字燈籠壱基」があります。
 昭和15(1940)年に社務所改築記念として奉献されています。大きいです。

     
 

<百度石>

 太鼓橋(女橋)を渡って左手に「百度石」があります。

  
 

<社殿>

 亀戸天神は、東京十社の一つです。スカイツリーが見えます。

     

    
 

「亀戸神社縁起 大正12年」(江東区有形民俗文化財)

  
 

「御神牛」

(説明板)
「御神牛
 菅原道真公と牛との御神縁は殊の外深く、古来より信仰されて来ました。
 道真公は、承知十二年乙丑の年六月二十五日にお生まれになり、太宰府の配所でお亡くなりになった際、ご遺体を乗せた車を引く黒牛が動かなくなり、これは道真公の御心による事としてその場所を墓所と定め、社殿が建立されたのが太宰府天満宮の起源とされています。
 また、道真公が京都から太宰府へ下向の途中、白牛によって危難から救われたという故事も伝えられています。
 この神牛の座像は昭和三十六年、御鎮座三百年祭にあたり御社殿の復興とともに奉納されたものです。」

   
 

「日時計」

  
 

「五歳の菅公」

(説明板)
 「五歳の菅公
  昭和五十二年の御神忌一○七五年大祭記念として奉納される。
  台座に道真公の五歳の時庭前の紅梅を詠まれた和歌を刻す。
  美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある」

  
 

「亀井戸跡/犬神」

 神楽殿の裏手に、「亀井戸跡」と「犬神」がひっそりとあります。

 「亀井戸跡」碑を、亀が背負っています。耳も牙もないので、贔屓(ひいき)ではなく、亀です。
 「亀趺(きふ)」ではありません。回向院でも亀趺ではなく、亀が背負った墓碑がありましたが、
 珍しいですね。

 「犬神」さまは、塩まみれです。行徳の塩は、小名木川によって江戸城に運ばれましたが、
 塩業関係者の信仰ですかね。

     

    
 

【石碑】
 碑が百基以上もあるので、一部のみ記載。

「梅松両社落成記念三翁句碑」(江東区有形文化財)

(説明板)
「梅松両社落成記念三翁句碑
 正 面 面のまゆむすひあぐるや松花
       三祖 浪華旧徳椎木才麿
 左側面 香の風やあるしかしこしむめの花
       二祖 難波松寿軒井原西鶴
 右側面 神松や千とせちかくもわかみとり
       七祖 玉池谷素外
 文化八年(一八一一)に御本社前の紅梅殿と老松社の社が再建された記念に建立されたものです。この両社とも、先の戦火に羅り焼失いたしましたが、紅梅殿は昭和六十二年の当宮御鎮座三二五年に当りこれが記念に心字池の西の畔に再興されました。」

   
 

「河却圭三之碑」
 文面読めず何の碑か不詳。

  
 

「帰春翁筆塚」(江東区有形民俗文化財)

(江東区HP説明)
「帰春翁(きしゅんおう)は書家として長年活動したのち、筆塚を建てようとしましたが果たせず、文化9年(1812)11月17日に没しました。この碑は、翌10年3月に門人らが建立したものです。」

  
 

「菅廟種梅碑」
 明治35年

  
 

累卵塔」(江東区有形文化財)

(江東区HP説明)
「累卵塔碑
 本殿南東の植え込み内に建っています。地上高は207センチ。
 累卵とは、積み重ねた卵のように、不安定で非常に危うい状態にあるたとえです。
 正面には、上部に篆書で「累卵塔」と陽刻され、その下には累卵をうたった芳峨・大徳牧宗・老比丘・中村正直の詩歌と山岡鉄舟の画賛、累卵塔の建立を発起した千葉愛石の句が刻まれています。
 背面には、幕末維新期の徳川家の名臣で、勝海舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称された高橋泥舟による千葉愛石の略歴が刻まれています。
 碑文によれば、千葉愛石は陸前国黒川郡(宮城県)の出身で、通称を立造、道本居士・愛石と号し、農業を家業としました。経営に苦労しつつも、のち上京して医者になったといいます。
 この碑は、明治20年(1887)3月に建てられ、刻字は広群鶴によるものです。」

   
 

「聖廟九百年御忌句碑」(江東区有形文化財)

 心字池東側植え込み内にあります。

(説明板)
 「聖廟九百年御忌句碑
  しはらくは花の上なる月夜哉 芭蕉翁
  表面 芭蕉翁 服部嵐雪 桜井吏登 大島蓼太
  裏面 四世雪中庵完来 夜雪庵普成 葎雪午心
  菅原道真公の御神忌九百年にあたる享和二年(一八○二)二月二十五日
  芭蕉門下の人々が芭蕉百年忌にあわせて建立する。」

    
 

歌川豊國の碑」(江東区有形文化財)

(説明板)
 「歌川豊國の碑
  幹はみな老を忘れて梅の花 楳堂
  二世、三世ノ肖像ヲ田鶴年鐫ガ鐫刻ス
  合画 豊原國周 豊原國貞
  明治二十六年十一月 三世香朝婁樓國貞の発起により市川団十郎、尾上菊五郎等や錦絵問屋、浮世絵師の補助によって建立されました。」

    
 

「江戸自慢三十六興 亀井戸初卯詣」(歌川豊国)

 歌川豊国が亀戸天神を描いた1枚です。

  
 

「不詳」

  
 

「文房至宝」

 文具資料館により平成2年11月に建立。

(碑文)
「文房至宝碑由来
 中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から明示の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた
 今や文房具はOA機器にいたる?その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった十一月三日(文化の日)を文具の日と定め平成二年十一月十二日天皇陛下御即位を記念して全国業者相寄り東宰府亀戸天満宮の境内に文房至宝の碑を建立する
 平成二年十一月吉日  文具資料館」

   
 

「くんきょ先生之碑」(江東区有形民俗文化財)

(江東区HP説明)
「くんきょ先生碑
 刻銘は正面と背面にあり、正面上部に「くんきょ先生之碑」、その下に業績が刻まれています。本名は久保寺正久、通称は正之進で、くんきょは号です。江戸時代後期の数学者として知られています。
 寛政7年(1795)に久保寺交美の二男として生まれ、12〜13歳の時に兄正福とともに至誠賛化流の数学者古川氏清の門に入りました。著書も多く、『極数小補』(文化14年・1817)、『算法極数録』(文政2年・1819)、『一席一題』(文政13年・1830)などが代表とされます。
 この碑は、彼の弟子中村時萬、内藤忠辰が中心となって建てたものです。」

  
 

「臥龍園句碑」(江東区有形民俗文化財)

(江東区HP説明)
「臥龍園は、江戸時代後期の狂歌師で、宝暦13年(1763)に生まれ、本所緑町(墨田区)に住み、家は陶器店を営んでいました。臥龍園梅麻呂、通称鳥屋藤右衛門といい、狂歌花園側の棟梁となり、門下に檜園・花咲園などをもち、二十数冊の編・著書を著しています。」

  
 

「筆塚」(江東区有形文化財)

(説明板)
「筆塚
 筆塚は、書家や書道に励む人等が筆の労に感謝するとともに、一層の上達を願って廃筆を納めたものです。
 当宮では、「宮居に遠き人之為に、吉書初め(書初め)に可用筆を文政四年(一八二一)より毎年十二月朔日から晦日迄出す」と伝えられ、今も「梅ヶ枝筆」を授与しています。特に、天神さまの御忌日 二月二十五日には神苑の梅の木で調製した筆を授与いたします。
 筆塚祭(書道上達祈願祭)
 毎年七月二十五日執行し廃筆清書の焼納(お焚き上げ)を行います。」

  
 

「弘前旧藩士龍岬藤林君之碑」

  
 

<松庵句碑>(江東区有形文化財)

(江東区HP説明)
「境内右側の植え込み内に建っています。総高は125.5cm。
 松庵という人物は不明ですが、寛政2年(1790)に松樹とともに奉納したことがわかります。」

  
 

「正木樸筆塚・亀田鵬斎書」(江東区有形文化財)

(江東区HP説明)
「刻銘には、正木樸(まさきあらき)の死後、その門人らが師の道を継ぎ、この門に学んだ人々が二千人にも達したこと、その間に使用した筆を甕に収めると数十個にも及んだのんで、当地に埋めて石碑を建てたこと、続けて樸の業績と文化12年(1815)4月に亀田鵬斎(かめだぼうさい)がこれを書いたことが刻まれています。
 亀田鵬斎は江戸後期の儒者で、折衷学者井上金峨(いのうえきんが)に学びました。江戸時代を通じて草書の名手といわれた人物です。」

  
 

「菅公一千年祭記念境内全図銅板寄附碑」(江東区有形文化財)

  
 

「忠魂碑」
 荒木貞夫書。

  
 

「不詳」

  
 

【西参道】

<若福>

    
 

<紅梅殿>

(説明板)
「紅梅殿
 御本社と時を同じくして寛文二年(一六六二)に太宰府天満宮の御神木「飛梅」の実生を勧請し、社殿前に奉斎したのを起源とし、昭和六十三年に現在地に再建される。」

    
 

<石垣の菅原道真公漢詩>

 西参道に石垣があります。
 菅原道真公が九州太宰府に流された時の漢詩「九月十日」が、石垣南面上部に刻まれています。

 「去年今夜侍清涼
  秋思詩篇獨断腸
  恩賜御衣今在此
  捧持毎日拝餘香」

   
 

<誌>

 「誌」として文章が石垣西面に刻まれています。
 氏子総意の記念事業として、社務所改築の奉納について昭和17年に刻まれています。

   
 

<裏門>

 裏門には、江戸時代には門がありましたが、現在はありません。
 こちらが裏門だった場所かと思います。
 ガス燈の創始者「島立甫」が裏門の真向かいに住んでいました。

  
 

「江戸高名会亭尽 亀戸裏門 玉屋」(広重)

 広重が裏門前の玉屋を描いています。

   
 

国産マッチの創始者清水誠の頌」「清水君碑」

 記念碑が2基建っています。
 昭和50年国産マッチ創始百年に当たり、明治32年碑の再建と「顕彰碑」が新たに作成されたもの。
 顕彰碑は、岸信介元総理大臣による書です。

    
 

(参考)
国産マッチ発祥の地 墨田区江東橋1-7-14両国高校内

 都立両国高校の京葉道路側のフェンス内側に、 「国産マッチ発祥の地」 記念碑が建っています。
 昭和61(1986)年8月建立。
 碑には 新燧社のマッチ箱ラベルも描かれています。
 裏面に碑文が刻まれているようですが、柵の外からは表面しか確認できず。
 校内に入らないと裏面は確認できず裏面は未確認。

    
 

「中江兆民翁之碑」(江東区有形民俗文化財)
 明治40年12月

  

「中江兆民肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
  弘化4(1874)年〜明治34(1901)年12月13日

   
 

<西参道終端>

 参道は神輿庫のある北の終端まで石畳が敷かれています。
 この先に、かつて亀戸遊園地がありました。
 ガス燈を模した街灯が一基あります。街灯柱は新しいもので、かつて亀戸遊園地のガス燈として使われていたものではないようです。

    

 参道入口からの光景です。神輿庫があり、その先の塀には神紋が続いています。

   


ガス燈の創始者「島立甫」〜日本最初のガス燈は亀戸

 安政大地震前の安政2(1855)年、南部藩医師・島立甫(りゅうほ)が江戸亀井戸の自宅において、
 コールタール製造の副産物として発生する石炭乾溜ガスに点火し、ガス燈を灯しました。
 時の老中・阿部伊勢守正弘もこれを見学したそうです。

 島立甫のガス灯について、医学博士三宅秀は、
 「天神のうら門の真向ふに、南部藩の島立甫といふ医者があって、その人が柱に竹管を取り付けて、瓦斯に点火して居った」と記しています。
 (「明治事物起原」(石井研堂)中、第十一編農工→瓦斯灯→(六)島立甫の瓦斯製造)

 また、安政2(1855)年、水戸藩主徳川斉昭から招かれて大島高任が那珂湊反射炉を建設し
 付属工場の照明用としてコークス製造の副産物としてガス燈を灯しました。

 ※以下参照しました。
 ・「盛岡市HP 島立甫
 ・「西部瓦斯株式会社史」(西部瓦斯(株))(渋沢社史データベース所載


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