古隅田川の流路の北三谷稲荷橋跡(はま寿司駐車場前)に、説明板「梅若丸と北三谷」があります。
(説明板)
「梅若丸と北三谷
この辺りは、19世紀終わり頃まで北三谷村といわれたところである。慶長19年(1614)の古文書に「淵江之内ふげんじ・さん屋新田間之事」とあり、その頃開拓されたことがわかる。
当時は、古隅田川が利根川流域の氾濫原野の湿地帯であったと想定される。この開拓にまつわり、謡曲や浄瑠璃「隅田川」で名高い梅若丸の物語に由来する伝説がある。その昔、貴族の子梅若丸が人買いに誘拐されて奥州へ向かったことを知った母親が、従者4人を伴って京の都から追ってきた。しかし、隅田川の渡し守から梅若丸が死んだことを聞き、悲嘆にくれて尼となり草堂にこもってしまった。主を失った従者は浅草山谷の地に住んだがやがて安住の地を求めて隅田川を北上し、この地を開いて北三谷と名付けたのだと言う。
「隅田川」の舞台は村上天皇の時代というから10世紀の物語で、開拓年代とは5世紀以上も開きがあるが、これも隅田川の名が生んだ地名伝説の一つとして継承されてきたものであろう。」
古隅田川の流路の宝蔵寺橋跡の北に「宝蔵寺」があります。
荒川辺八十八ヶ所霊場55番札所です。
梅若丸の母の四人の従者が土地の守り神として北三谷に一宇を建てたのがはじまりと伝わります。
山門は幼稚園入口となっていて、閉じられていて中に入れません。
宝蔵寺の隣に北三谷稲荷神社があります。北三谷村の旧村社です。
<水神宮>
本殿横に水神宮が祀られています。
江戸時代には古隅田川、綾瀬川を利用して下肥を運ぶことが盛んで、
古隅田川沿いのこの水神宮は水運安全を願って、境内に祭られるようになりました。
<日露戦役紀念之碑>
<北三谷新田>
北三谷村の名主、河合平内が北三谷新田を開発しました。墓が北三谷の円性寺にあります。
「北三谷新田絵図」(元禄8(1695)年 足立区立郷土博物館所蔵)
元禄8(1695)年に行われた検地の際に作成された北三谷新田の作業用下図です。
右に南北に流れている「本庄御上水」(葛西用水)、画面中央を東西に流れている「大谷田落」(八か村落とし)が見えます。
南側を東西に古隅田川が流れています。