○ 葛飾北斎終焉の地(遍照院)
○ 葛飾北斎の墓(誓教寺)
葛飾北斎育成の地
葛飾北斎は、嘉永2(1849)年4月18日、浅草聖天町の遍照院境内にある長屋で
三女の阿栄(葛飾應為)に看取られ亡くなります。
葛飾北斎の墓と胸像が誓教寺境内にあります。
墓標には「画狂老人卍墓」とあり、側面には辞世の句が刻まれています。
「ひと魂で ゆく気散じや 夏の原」
この辺は旧新寺町で、神社・寺が密集していてわかりにくいですが
「葛飾北斎墓」 東京都教育委員会設置の案内板が出ています。
正面の門は閉じていますが右手に通用門があってそこから入ります。
正面左手に北斎の胸像があります。
右に「史跡 葛飾北斎翁墓 この億墓地内→」の案内板があり、狭い通路を進みます。
墓地に入ってすぐ左手に北斎翁墓。
(説明板)
「東京都指定旧跡 葛飾北斎墓
所在地 台東区元浅草四の六の九
誓教寺墓地内
仮指定 大正一四年六月六日
指定 昭和三○年三月二八日
葛飾北斎(一七六○〜一八四九)は江戸後期の浮世絵師で、葛飾流の祖です。宝暦一○年本所割下水に生まれ、鏡師中島伊勢の養子になりはじめ中島氏を名乗ります。一九歳の時に勝川春章の弟子になり、勝川春朗と改名します。役者絵や相撲絵を描きます。春章没後勝川を離れ、狩野派、漢画、土佐派、琳派、司馬江漢の洋風画・銅版画なども学びます。北斎は奇行に富んだ人で、居を九十三度、号を三十数度変えたとされます。肉筆画、版画などに手腕をふるい、特に風景は称賛されています。「富嶽三十六景」などが知られ、フランス印象派に影響を与えたといわれます。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」
両国の「飯澄稲荷」入口横に、「鏡師中島伊勢住居跡」の説明板があります。
葛飾北斎は、鏡師中島伊勢の養子(後に養子縁組解消)でした。
(説明板)
「鏡師中島伊勢住居跡 34
中島伊勢の住居は、赤穂事件の後、町人に払い下げられ、本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三年(一七六三)、後の葛飾北斎となる時太郎を養子とします。
北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家はこの養子縁組を破綻にし、実子に家督を譲りますが、北斎はその後も中島姓を名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。
飯島虚心の『葛飾北斎伝』によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるとしています。この話は、北斎自身が広めたようです。
墨田区」