○ 青雲寺(花見寺)
○ 修性院(花見寺)
○ 法光寺
○ 南泉寺
○ 六阿弥陀道
○ 富士見坂
説明板「滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)」が参道の中途半端なところにあります。
門柱左に「青雲禅寺」、右に「花見寺」
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)
青雲寺は臨済宗の寺院で浄居山と号する。宝暦年間(一七五一〜六四)、堀田相模守正亮の中興と伝える。江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、庶民に親しまれてきたこの地は、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため、青雲寺は修性院・妙隆寺(修性院と合併)などとともに、花見寺ともいわれていた。
現在、谷中七福神のひとつ「恵比寿」が祀られている。境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑(文化六年)をはじめ、硯塚の碑(寛政十年)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など、江戸を代表する文人の碑が多く残っている。
荒川区教育委員会」
<本堂>
「えい筆冢銘(えいひつちょうめい)」です。
一般的には滝沢馬琴筆塚の碑と呼ばれています。滝沢馬琴は、現在では曲亭馬琴と呼ぶのが正式です。
「えい」とは、土の中に埋めること。馬琴が使い古した筆を埋めた「筆塚」に建てられたのがこの石碑です。
碑文は亀田鵬斎が書いています。
文化6(1809)年の銘で文化7年の建立です。
元は道灌山にありましたが、明治になって塚はそのままに碑のみ移設されました。
その後、1906(明治39)年に、前田家墓地から馬琴愛用の硯などが出土し、
前田育徳会尊・尊經閣文庫(目黒区駒場)に保管されています。
(標柱)
「荒川区有形文化財・歴史資料
滝沢馬琴筆塚の碑
戯作者滝沢馬琴(一七六七?一八四八)は精力的な著作活動をし、多量の使い古しの筆を残した。これを供養するため、文化七年(一八一○)に、青雲寺境内の山(現在の西日暮里公園付近)に築いたのが筆塚である。文化六年銘のこの碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちや業績が記されている。額字の「えい筆冢銘」(ふでをうずめしつかのめい)は、国学・漢学・考証学者で著名な狩谷?斎筆。由来は儒学者亀田鵬斎が撰文し、筆をとった。日ぐらしの里における文化人の活動をうかがい知ることができる。明治時代に、旧加賀藩主・前田家が青雲寺境内を墓所として買い取った際に、移設された。明治三十九年(一九○六)には、前田家墓地から馬琴愛用の硯などが出土し、財団法人・前田育徳会尊經閣文庫に保管されている。」
本堂の前の植え込みにあります。
寛政10(1798)年建立。硯を立てた形で建てられています。
裏面に「春の雪 跡や煙の 麦畑」の句が刻まれています。
<日莫里繋舟松之碑>
日暮里船繋松の碑と呼ばれています。
1772(安永元)年の造立と推定されるらしいです。
元は道灌山にありました。
<安井金毘羅大権現鎮座碑>
松之碑の隣の三角形の石碑「安井金毘羅宮」と石碑「安井金毘羅大権現鎮座」の2碑があります。
狂歌師安井甘露庵を祀っています。
「名所図会」で描かれているお堂は「こんぴら」と記されています。
<狂歌師安井甘露庵歌碑>
甘露庵は境内に住んでたことがありました。
「雲と雪と 五分五分に見る山桜 もう一寸も 目をはなされじ」
<青雲寺墓地と西日暮里公園>
青雲寺墓地のすぐ上は、西日暮里公園です。
<江戸名所図会 日暮里惣図>
青雲寺部分の拡大です。
現在の西日暮里公園や第一日暮里小学校も、昔は青雲寺の境内でした。
塀絵は、荒川区出身の画家、吉野健一氏の作品です。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
日ぐらしの布袋(修性院)
修性院の布袋は、谷中七福神の一つで、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。谷中七福神めぐりは、江戸市中で最も古い歴史をもち、年初めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。
江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(修性院に合併)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて、「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季折々の草花を楽しむことができたという。
境内には、江戸時代の儒者・日尾荊山衣サク碑がある。
荒川区教育委員会」
<日尾荊山衣サク碑>
<東都名所日暮里修性院境内之図>
修性院の庭園は錦絵に多く描かれています。
<絵本江戸土産>(広重)
「日暮里 諏訪の臺」に続いて「其二 同所寺院庭中 雪の景」「其三 同所つづき」の連結です。
<江戸名所図会 日暮里惣図>
修性院部分です。
<名所江戸百景 日暮里寺院の林泉>(広重)
青雲寺・修性院・妙隆寺の花見寺三寺院の中央、修性院の境内の春景色が描かれています。
六阿弥陀道から、東の崖上を望んでいます。山の傾斜を利用して形態を整え林泉を構えています。
右側に描かれている帆掛船の刈込みが修性院の呼物でした。
斜面を上がると裏門があります。
<画本東都遊 日暮里>(北斎)
葛飾北斎画の江戸名所絵本である「画本東都遊 日暮里」です。
帆掛船の刈込樹木『梅木舟』を拡大。
広重や北斎の絵、江戸名所図会でも呼物であった帆掛船の刈込樹木『梅木舟』が描かれています。
<東都三十六景 日くらしの里」>(広重)
大きな石碑が気になるところで、扇形の石碑は修性院にあったので、
修性院の坂道かもしれません(現在は裏口と坂道は失われています)。
「絵本江戸土産」でも扇形の碑が描かれていました。
「日暮里寺院の林泉」にも左手に扇型の碑が描かれています。
<江戸名所百人美女 日ぐらしの里>(三代豊国)
坂の上に、扇型の碑が描かれています。
明治維新後当地へ移転してきたお寺です。
門前に「陸軍少年飛行兵慰霊」碑があります。
富士見坂を下りてきて、左手の六阿弥陀道沿に「南泉寺」があります。
門前に「東京都指定旧跡 初代二代松林伯円墓」碑があります。
ここにも警視庁の碑があります。「祈 交通安全 火の用心」
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
美濃遠山氏の聖観音(南泉寺)
山号を瑞応山と称する臨済宗妙心寺派の寺。元和二年(一六一六)、徳川家から境内三千二百余坪(約一○六○○平方メートル)を拝領し大愚が開創した。その後、将軍家光・家綱に仕えた老女岡野の遺言により貞享三年(一六八六)朱印地三十石を賜った。
本堂内の木造聖観音立像は、美濃遠山氏の念持仏。厨子に遠山氏の家紋、「遠山家 息心菴本尊、聖観音菩薩、安政四年丁巳星七月十日」の銘がある。上半身等に江戸期の補修が加えられているが、鎌倉期の作と推定される。その他、善光寺式阿弥陀三尊の一部と思われる銅造菩薩立像を所蔵。境内には、菅谷不動、講談師松林伯円の墓等がある。
荒川区教育委員会」
<団十郎不動>
団十郎の弟子、新蔵の眼病を治した団十郎不動です。
<戦死之墓>
西南戦争の犠牲者を弔っている「戦死之碑」です。
<境内 葵紋>
徳川家と繋がりがあるのがうかがえます。
<境内>
三界万霊塔など。古そうなゴミ箱。
<本堂>
<蛙塚>
三匹の蛙が描かれています。
「亀戸町 施主 本多藤太郎 大正六年五月十三日建之」(裏面)
<おまねぎ様>
陰陽石が祀られています。
<墓地>
広大な墓地で、諏訪台通り沿の家まで、坂と階段で続いています。
<市橋家墓域>
手すり付の階段を上がった先に、市橋家墓域。
<坂氏代々之墓>
「老女岡野の基」
坂氏代々之墓に、徳川2代〜4代将軍に仕えた大奥女中(筆頭老女)岡野(宗仙の二女)の墓があります。
正面「栄寿院殿松岩慧昌大姉」
「ウィキペディアの記載が矛盾していて理解不能。」
徳川家光の生没は1604年〜1651年6月
老女岡野の生没は1604年〜1676年8月22日
「岡野が病没した際は、家光は深く哀悼し永代回向のため、南泉寺に葵の紋章使用を許し、朱印寺として遇した。
1686年(貞享3年)には岡野の遺言で朱印地三十石を南泉寺に賜る。
将軍自ら墓参したが、これは臣下の墓へ前例のないことだと記されている。」
現地の墓誌を見ると、同じような内容が書かれています。
「宗仙法印の墓」
正面「洞庵宗仙法印」
洞庵宗仙法印は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた御典医。
「法印」の称号で子孫代々将軍に仕えました。
隣接する洞庵室墓は、墓誌によると改葬の際に一骨もなかったとのこと。
「墓誌」
<初代と二代の松林伯円の墓>(東京都旧跡)
幕末の講談師、初代と二代の松林伯円の墓です。
「軍談師 初代伯円之墓」(初代の墓)
「二世松林伯円事 若林義行累世之墓」(二代の墓)
「二世松林伯円 児女墓?」(明治9年に亡くなった二世松林伯円の子の墓?)
<遠山景高墓所>
浦賀奉行の遠山景高の墓所は、広大な墓地の坂を登り切った左奥にあります。
ここまで来ると、横にある民家は、諏訪台通りに面している家でした。
六阿弥陀道の平成4年に南泉寺が設置した比較的新しい道標です。
「ろくあみたみち」
「左 たばた」「右 やなか」
六阿弥陀道の旧妙隆寺と南泉寺の間から諏訪台通りへ向かう坂が富士見坂。
坂の上と下の道路面にタイルで富士山が描かれています。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
富士見坂
坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。
都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。
都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。
荒川区教育委員会」
2013年6月に前方にマンションが建ったので、富士山は、ほとんど見えなくなっているとのことです。
見える富士は、街灯の富士山です。
参考:日暮里富士見坂を守る会
「坂からの眺めは、2013年6月に失われました。」
<パネル写真>
富士山が見えていた時の写真が途中までパネル写真が展示されています。
富士山が見えなくなって、写真をはめられなくなったのでしょう、最近の写真はありません。