○ 日暮里/ひぐらしの里
○ 江戸名所図会 日暮里惣図
○ 諏訪台/地蔵坂
古くは新堀または入堀と表記しましたが、江戸時代中期には日暮里と書くようになりました。
春の桜、秋の紅葉も美しく、日の暮れるのも忘れるということから「ひぐらしの里」とも呼ばれました。
その範囲は、谷中の感応寺(現天王寺)裏門から道灌山方面に広がっており、
西部の台地上には寺院が、東部の低地には農村が広がっていました。
諏方神社境内は諏訪台と呼ばれ眺望が良く、厄よけなどの願いを掛けて皿などを投げる
土器投の遊びが盛んに行われました。
「日暮里惣図」では、雪旦が7枚の絵に描いています。
道灌山から諏方神社、浄光寺、養福寺、本行寺まで、当時の様子がうかがえます。
舟繋松は、この絵の中で台地上に高くそびえています。1本が折れ、残り1本となっています。
挿し絵が「其一」から「其四」と複数枚になっており、1枚に連結。「其一」は「其三」の誤謬。
其四中「舟つなき松」拡大、「力石を持ち上げている人」拡大。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
諏訪台
諏訪台は、縄文・弥生時代から人々が生活を営んでいた場所であり、景勝の地としても知られている。
江戸時代、四季折々の景色を楽しむ客でおおいに賑わった。安藤広重の『名所江戸百景』の中にも諏訪台の春景色が描かれている。また、「土器投げ」という遊びが流行し、「花の散るたびに土器それるなり」など川柳にも詠まれた。
享保十三年(一七二八)浄光寺の住職宝山が、『諏訪浄光寺八景詩歌』を板行。筑波茂陰・黒髪晴雪・前畦落雁・後岳夜鹿・隅田秋月・利根遠帆・暮荘炬雨・神祠老杉の八景を巧みに詠んだ諸家の詩歌が収められている。
荒川区教育委員会」
「江戸名所図会」
江戸名所図会「日暮里惣図」から諏訪台が描かれた部分を拡大。
現在の諏訪台とほぼ変わらない姿を保っています。
景観は鉄道にとってかわりました。
<谷中ショウガ>
諏訪台にJA東京の説明板「谷中ショウガ」があります。
(説明板)
「江戸・東京の農業 谷中ショウガ
諏方神社周辺(荒川区西日暮里2丁目、5丁目)は、かつて江戸時代からショウガの産地で、農家の人達は豊作の祈願に当社を訪れました。
ショウガは、保水力のある肥よくな土壌で栽培すると、柔らかく品質の善いものが穫れますが、この環境にぴったりの谷中で穫れるショウガはあまり辛くもなく、クリーム色の地下茎の節に赤味が入り美しく、スジも少なく味噌をつけて食べると、歯ざわりと風味が良く、江戸庶民の好んだ野菜のひとつです。
収穫時がちょうどお盆の時期にあたるため、商人や職人、谷中の寺社等が、お中元の贈答品に利用したため江戸中の評判になり、ショウガの特産地となりました。
以来、「谷中」の名はショウガの代名詞となり、今でも粋な符丁として、市場や居酒屋等で呼ばれています。
明治16年に上野と熊谷の間に鉄道が敷かれて急速に市街化が進み、大正末期には尾久、さらに荒川を渡って埼玉県へとショウガの産地は移って行きました。
平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行五十周年記念事業」
「名所江戸百景 日暮里諏訪の台」(広重)
諏訪神社の境内(諏訪の台)から崖下の田んぼ、遠くに筑波山が見えます。
地蔵坂に3人描かれています。
「土器(かわらけ)投げ」に興じる人は見受けられません。
「東京開化狂画名所 道灌山土器の過誤」(月岡芳年 明治14年 足立区立郷土博物館蔵)
脇にある土器を投げないで人を投げています。
「土器投げ」は、飛鳥山公園や諏訪台では明治16年に鉄道の開通で禁止されました。
「絵本江戸土産 日暮里諏訪の臺」(広重)
地蔵坂も描かれています。遠景に日光の記載。
「絵本江戸桜 日暮里之遠望」
筑波山もしっかりと描かれています。
「東京名所四十八景 谷中諏訪の社廿六夜まち」(昇斎一景 明治2年 都立図書館蔵)
諏訪台は、夜明け前の月の出を待つ二十六夜待の名所の一つでした。(二十六夜待はこちらで記載)
地蔵坂から人々が上がってきています。左手には諏訪神社の石垣が見えます。
<現代の景色>
現在の景観は、京浜東北線、山の手線、新幹線の景色です。
<地蔵坂>
荒川区教育委員会の説明板が設置されています。
地蔵坂には「大正四年十一月 氏子中」の石盤がはめ込まれています。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
地蔵坂
この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は、諏訪神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることにちなむという。
荒川区教育委員会」